第14話

 この日から、俺と宵待の新婚カップルのような生活が始まる。もっとも、新婚どころかカップルすら経験のない俺にとって、新婚生活がどんなもんかなんて、全くわからないが。

 俺の経験は置いておいて、とにかく俺と宵待の一日はこうだ。

 二人で学校に登校し、昼食も例のベランダで二人。放課後は宵待の生徒会での仕事が終わるのを待って、二人で下校。時々文芸部室に顔を出しては、喜兵に現状報告をする。

 家に帰れば、紗那絵と宵待が勉強会をしているのを眺めたり、たまに三人でボードゲームをしたり、寝るときこそ宵待は紗那絵の部屋で寝ているが、ほとんど一日中と言っていいほどの時間を宵待と共に過ごしていた。

 それだけ過ごす時間が多ければ、自然と人となりも分かってくるというものである。

 宵待深月の生態をご覧いただこう。

 生態その一。宵町は、可愛いものが好きである。

 いつぞやは、俺には目に見えないふわふわの異形でテンションを上げていた宵待だったが、俺にはイマイチ、ぴんと来ていなかった。そもそも、見えないし。

 だから宵待のそんな可愛いもの好きを間近で思い知ったのは、宵待と共に下校していた時のことである。

 二人で歩いている俺たちの目の前を、茶色と白の混じった一匹の猫が通り過ぎて行った。

 猫は警戒心が強いので、近づいたり音を立てたりすると、すぐ逃げていくのだが、その茶猫もまた、俺たちに気が付いて、ダダっと走って車の下に隠れてしまった。

 あぁ、猫だな、と思考の一瞬のリソースを奪われたものの、すぐさま理性を取り戻して猫の隠れた車の横を通り過ぎた俺は、後方から聞こえた猫っぽい声に、つい後ろ振り返ってしまった。

「にゃお、にゃお」

 それは車の下を覗き込みながら、猫語をしゃべる宵待であった。

「にゃーご」

 俺からは車の下に居る猫の様子が見えないため、客観的な思考を手に入れることが出来た身から言わせてもらうと、その光景は猫化した女子高校生が車の下に潜り込んで猫ごっこをしているように見えた。あるいは助けた猫に、猫の世界へ連れて行ってくれるよう、ねだっているのだろうか。

 俺は猫になった女子を見たことが無いので、彼女に賭ける言葉を探しあぐねていると、宵待はこちらをじっと睨んでいた。

「にゃーお」

 その凄まじい迫力に俺は思わず、人語の代わりに猫語で話しかけていた。

 結局その日、宵待は晩飯まで口をきかなかったという。

 生態その二。宵待は舌が子供である。

 宵待が家に来てからというもの、料理人が二人に増えた我が家の食卓はバラエティに富んだ。

 俺が作るのはめっぽう和食なのだが、宵待はハンバーグに唐揚げにカツ、オムライスといったメジャーな洋風食を好む。

 宵待が自分で作る分には何の懸念もないのだが、普段、二人分の弁当は俺が用意する手前、日によっては冷凍食品を使う。

 したがって、弁当の中身が気に入らないときには、

「ここメーカーのから揚げ、冷えると固くなって美味しくないのよね」

 だとか、

「ハンバーグはできるだけチーズ入りのにして」

 だとか、それぐらいならまだいいのだが、夕食の残りなんかを弁当に詰めた結果、ハンバーグも唐揚げも入っていないときには、

「九夜くん。ハンバーグも唐揚げも入ってないんだけど」

 と怒気強めで非難してくる。どれだけ肉が好きなんだ、この女。

 生態その三。宵待は激烈な負けず嫌いである。

 我が家には、ボードゲーム好きの喜兵に触発された結果購入したボードゲームがある。休日になると、飾利と紗那絵、俺で時たまゲームをプレイしているのだが、宵待が来てからというもの、紗那絵の勉強終わりに三人でボードゲームをプレイすることが増えた。

 俺と紗那絵は家にあるゲームならばルールも把握しているが、宵待は知らないゲームも多い。最初はルールを教えながら、試行回数が増えるにつれ助言を無しで進めるのだが、宵待は自分が勝つか、納得できるまでゲームを続ける。

「闘争は勝利してこそだわ。勝てないと一日中気分が悪いもの」

 だそうだ。彼女曰く、運要素が強いゲームは嫌らしい。

 結局、紗那絵は早々に寝落ちし、俺は日付が変わるまでゲームに付き合わされるという憂き目に遭った。その日は、寝不足のまま登校する羽目になった。


 以上、こうして並べてみると、宵待はその凛とした佇まいに反して、年齢相応に、いや、年齢以上に子供っぽいようだった。

 いつか、図書室のベランダで話した彼女との会話もまた、究極的には子供らしい一面に思える。

 宵待はまた、会話をするのが好きなようだった。

 あれは宵待が我が家に住み始めてすぐの、登校時の事である。

 俺は運動部に所属していないので、健康増進のためにと登下校に早歩きを敢行しているのだが、宵待が居るとそうもいかず、俺は宵待の歩調に合わせて、二人で並んでゆっくりと歩いていた。

 宵待は口数の多いやつだとは思っていなかったが、顔を突き合わせているとむしろ、会話を始めるのは宵待の方からだった。

「九夜くんは趣味とかあるのかしら」

 唐突な、お見合いのような話題展開が可笑しい。

「俺にだって趣味くらいある」

「そうなの?いつも、家ではテレビばかり見ているようだから、趣味はテレビ鑑賞とか」

「もっぱら料理だな。テレビはニュースとかドキュメンタリーは見るけど、それ以外はあまり見ないね」

「料理。たしかに、九夜くんの作る料理は美味しい」

「そりゃどうも」

「いい趣味ね。決して、馬鹿にしているのではなくて、本当にそう思っているのよ。食事は人間にとって不可欠だから、その欲求のより優れた満足のために料理を研鑽することは、人生の幸福を、人生そのものを昇華させるという意味で素晴らしい趣味だわ」

「別にそんな、大層な事を考えているわけじゃない。旨いものを食べたいし、食べてもらうのも嬉しいって、それだけだ」

「意外と利他的なのね」

「優先順位を決めてるだけで、奉仕の心があるわけじゃないさ。……そういう宵待はどうなんだ。趣味」

 俺は、あまり自分のことを話すのは好きではない。だから宵待に話題を振り返した。もっとも、宵待が何を嗜んでいるかも、多少は気になるところである。

「私の趣味は、読書かしら。ハウツー本から自己啓発、小説から新書まで、気になった本はなんでも読むわ」

「頭が下がるね。俺はミステリ小説くらいだ」

「いいと思うけど。知識と知能、想像力を養えるわね。でも、私は少し苦手かしら」

 あまりに血の気の多い話は、好みが分かれるところだろう。発端は怨恨であることが多いし、人間の醜い部分で溢れている。

「人が死なないミステリもあるにはあるが、大半は生死がかかわるし、殺すとか殺されたとか、あまり気持ちのいい話ではないかもな」

 宵待は静かに、かぶりを振った。

「いえ、そうではなくてね。私の考えすぎなのだけれど、ミステリって大抵、探偵や助手が居て、犯人が居て、被害者がいるじゃない?」

 俺は肯定した。

「探偵や助手は、事件の犯人を突き止めれば、過去の事件は忘れた様に、次の事件へ進んでいくわよね。犯人は、捕まるか逃げたりする。でも被害者の周りの人たちは、どうなのかしら。友人や恋人、愛する人たちを失った被害者の周りの人たちは、悲嘆にくれながら、どう生きていくのか。きっと物語が終わっても、その傷は簡単に癒えることが無いのだろう。そんなことを、考えてしまうの」

「物語が終われば、考えることも無いんじゃないか?」

「そうだとしたら、幸せね。いえ、残酷なのかしら。悲しみを癒す時間すら、彼等には無いのだから」

「そうとも考えられるな。永遠に癒えない傷か。考えてもみなかった」

 それは、ミステリだけに限らないだろう。ハッピーエンドの物語なら、大団円を迎えた登場人物たちは、何のわだかまりも無く、物語は終わる。それが、バッドエンドならどうだろうか。彼ら、彼女らは、永遠に絶望を抱えたまま、物語は閉じられる。一片の希望もないまま、停止する時間。それは確かに、宵待の言う通り、残酷だと思った。

 考え込んでいたせいで、宵待が、何か言いたそうにこちらを見ていることに気が付かなかった。

「なんだ?」

 こちらを見たまま無言だったので、俺は思わず、宵待に発言を促していた。

「いえ、大したことではないわ。九夜くんは、おそらく色々なことを考えたうえで、話をしてくれているんだと思って。話す甲斐があると、好ましく思っただけよ」

「宵待に認めてもらえて光栄だよ」

「あと、あなたは私が褒めても絶対に正面から受け止めない」

 俺は、思わず彼女に言い返そうとした。

「口では何と言っていようと、心では、決して」

「まるで、人の心が読めるような言い草だな」

 俺は意識的に棘のある言い方をした。

 俺の心は、俺だけのものだ。俺の思考は、俺だけのものだ。俺以外の人間に簡単に説明されてたまるものか。

「……ごめんなさい。出過ぎたことを言ったわ」

 意外にも、宵待はあっさりと引き下がった。

 その、意気消沈した声を聴いて、俺は彼女に謝罪を求めた瞬間的な苛立ちを、酷く嫌悪した。

 俺は別に、宵待を悲しい気持ちにさせたくなど無かった。

 ――これだから、厭なのだ。

 けだし人間というやつは論理を理解できる癖に、合理的に行動できない。どこかで、人間は感情の生き物だ、と聞いたことがある。その通りだ。強い感情の前では、人は論理を忘れて、感情的な行動をとってしまう。

 感情をぶつける行為に、何も生産的なものはない。感情は感情とぶつかって、軋轢を生むだけだ。軋轢は、いずれ破綻を生む。

 だから俺は、感情というやつが、心というやつが嫌いだ。感情なんてものが無ければ、人はもっと、人とうまくやっていける。非合理を皆が納得して、排除できる。

 感情は醜い。

 感情で動くのは、獣だ。

 俺は、獣ではない。論理を考えることが出来る、人間なのだ。

 だから俺は、俺の獣が如き醜い感情が発露することが、誰かに知られてしまうのが、どうしようもなく、厭だ。

 そうして俺は、またどうしようもなく、苦しくなった。

 およそ感情が無ければ、こんな無意味なことを考えようとすら思わないだろうという思考が、頭をよぎったからだ。

 宵待は、黙ったまま隣を歩いている。

 意に介していない、ということを俺は伝えたくて、彼女に賭ける言葉を必死に探していた。

「……それは、本心だから」

 俺が呟くと、宵待はこちらを振り向いた。

「俺は、俺が考えているのと同じくらい、俺に言葉をかける人たちも、考えて喋っているのだと常々思っている。だから俺も、その気持ちには、答える責任がある。だから俺は、よく考えて喋るようにしている。それは事実で……それを認めて貰えて嬉しいというのもまた、本心だ」

「それはあなたの、好ましい性質の一つだわ」

 俺の視界の端で、宵待は僅かに笑ったように見えた。

 そうして会話は、また本の話に戻っていった。宵待が最近読んだ本の話や、お気に入りの本について、話を聞いていた。その種類は、実にバラエティに富んでいる。

「宵待は、どうしてそんなに本を読むんだ?」

 会話の流れで口にした言葉に対する返答には、少しの間があった。

「向上心のない奴は、馬鹿よ」

 横を歩いている宵待の声が、急に鋭くなった気がした。

「宵待と想い人の取り合いをした覚えはないぜ」

「これはオマージュでも何でもないわ。私の意見。未知への探求こそ、人間の持つ元来の欲求。その欲求が無ければ、私たちはこの地に立ってすらいなかったかもしれない。今の精神的、物質的に富んだ生活は、よりよく在りたいという人間の欲求の賜物よ。だから私は、探求という人間の性を忘れた者を、心の底から軽蔑する」

 宵待は、冷たく言い放った。その言葉には、誰かなのか、あるいは何かに対する深い憤りが刻み込まれていた。

「……お前は、どう在りたいんだ?」

「私は、探求者でありたい。だから私の探求を阻むものを、私は許さない」

 言い終えると、宵待は静かになった。

 これまで幾度か宵待と話した中で、宵待は今、初めて真の感情らしきものを覗かせたような、そんな気がした。

 滅多に感情を発露させるようなことは無く、氷の彫像のような人間であるが、その内側には激しい炎を湛えている。彼女はその炎の激しさから身を守るために、感情に蓋をしているように感じられた。

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