第15話
その日の昼休み。いつもどおり図書室のベランダに行こうとした俺は、視線を感じて思わず周りを見回していた。
宵待は既に教室を出ていたし、クラスの他の皆は、教室を出て行く生徒や、既に弁当を広げ始めている生徒と様々であるが、こちらを見ている生徒は居なかった。
気のせいか、と思い俺は教室を後にした。
図書室のべランダでは早々に宵待が弁当を広げて、食べ始めていた。彼女は俺と目線が合うと、小さく会釈をした。
「今日のは、どうだ」
俺はそう問いかけながら、宵待の隣に腰を下ろした。
「今日も今日とて、美味しいわ」
平坦な声であった。宵待の声のトーンにはあまり起伏は無いので、本音を言ってくれているか怪しくなる。
「ありがとよ。そりゃ、作り甲斐があるぜ」
と、俺は宵待の賛辞に応えて、自分の弁当を広げる。
自分の、と言いながらも当然宵待と中身は同じ弁当なので、おお、これが宵待が頬を落とした弁当かしら、と思いながら、味噌田楽を摘まみ上げる。
「今日は、気になることはあったかしら」
宵待は、いったん箸をおいて、こちらを見た。
「いや、特には」
このやりとりは、俺たちが普段、込み入った話ができる時間や場所で宵待が率先して定例的に繰り返すものだ。家に帰ると、二人きりの時間というのもあまりないので、昼休みと、また下校時にはその日、一日を総括したようなやりとりが繰り広げられる。
「案外、しっぽを出さないわね」
「感覚的には、物陰から現れて一発猫パンチを食らわせてきたかと思ったら、そのまま物陰に隠れてしまった感じだけどな。次に目にするのは、鼻先か猫の手なんじゃないか?」
宵待が何気なく話をするので、俺も何気なく、しっぽという言葉に反射的に猫を思い出して、口にしていた。
俺は言ってから、僅かばかり後悔した。いつぞやの沈黙の宵待を思い出したからであった。
しかし彼女は、彼女の中ではもうどうでもいいことなのか、それとも猫パンチを食らわせてきた猫を想像の中で可愛がっているのか、
「そう可愛ければ、いいのだけど」
と言葉少なに、普通の返答を返してきた。
そして、黙々と弁当を食べ進める。
俺は食事に集中するタイプなので、宵待から喋りかけられない限りは、基本的に黙って弁当と向き合う。そのため、しばらくは、遠く中庭で笑いあう生徒の声だとか、学校の近くの道路を通り過ぎる車の走行音、鶯の鳴き声といった長閑な環境音が、俺たちのBGMとなって沈黙を埋めていた。
「九夜くんって」
そんな時、突然宵待が口を開いた。俺は食べかけの豚生姜焼きを嚙みちぎってから、宵待の方を見た。
「友達少ないわよね」
「……まあ、そうだが」
「なんで?」
随分直球なことを聞いてくれる。宵待としては、そこまで聞いても大丈夫だと思っての事なんだろう。
「人間関係は疲れるからな。気の合う友人が、一人や二人いればいいのさ。会社員の退職理由の大半は、人間関係らしいぞ」
俺はどこかで聞いたような話を、それが正しいのか正しくないのかも分からないが、自分の発言を埋め合わせる論拠として提示した。
「高校生になったら、新しい友達が欲しい、とか思わないの」
「そこは、なるようになる、だと思うね。別に投げやりな訳じゃなく、俺が声をかけたいと思ったら声をかけるだろうし、相手が声をかけてきたなら、俺も付き合いを続けたいと思うかもしれん」
「ふうん」
宵待は曖昧な返事をした。しばらく間があって、
「私は、最近思ってたわ。あまり、友人の多い方ではないから」
と呟くように言った。
俺は、返す言葉に迷った。自分の話であればそこそこにしゃべることはできるが、他人の話となれば、それこそ、話が違う。
周囲を眺めていると、こと学校における友達、というのはその数が個々人のステータスのようなものだと思っていて、数が多ければ多いほどいいし、少ないとよろしくない、という風潮があると感じている。
友人の数が多ければ、クラスでも神か仏のように崇められ、反対に友人の数が少ないと、非国民のように蔑まれる。これは持論ではあるが、頑張って友達を作ろうと話しかけているクラスメイトを見ると、俺に限らず比較的普遍性の高い考え方なんだろうと思っている。
だから、宵待にとっても、友達とはそうしたセンシティブなものではないかと思ったのだ。特に女子は、紗那絵の交友関係を見ている限りでは、強固なコミュニティが存在するように見える。政治家の派閥争いのように。
触れられたくないものに触れられるのは、誰だって嫌だ。俺にも触れられたくないことが有る。そんな無神経な人間になりたくないと常々思っている。だから俺は、できるだけ人の心には踏み込まない。そうすれば、人を傷つけずに済むからで、お互いが気持ちよく居られるからだ。
色々と思考を巡らした挙句、結局俺は、
「これからできるだろうさ」
とありきたりな慰めの言葉しか、吐くことが出来なかった。
「古郡さんと、西極くんとは、どうして友達になったの」
おそらく、宵待が本当に聞きたかったことは、このことなんだと、俺は直感した。
出し渋るような話でもないし、それに曖昧な返答をしてしまった後ろめたさもあって、俺はその問いに対する返事を思案した。
「普通、どうして、って程のきっかけも無く、小さい頃の友人ってのは、自然発生的にできていくものだろうと思うが、二人の場合は家が近かったのもあるし」
自分で言って、それは違うような気がした。それが真実なら、家が近い同級生は、ほぼ友人になってしまう。
友人になるきっかけ、のようなものがあったとすれば、それは。
西極喜兵は小さい頃から変わった奴だった。
何の理由かは知らないが、今と変わらず小さい頃からちょんまげをしていた。
俺の喜兵に対する印象は、本の虫、だ。
あいつは、放課後や昼休みに図書室に行くと、必ず本を読んでいた。必ず、だ。余程本が好きなんだろうと、俺は思っていた。クラスの中でも、あまり印象的ではなく、至って普通の少年だった。
ある時、俺は喜兵や他の生徒と、体育館の裏を掃除していた。
そうすると、喜兵がふらふらと歩いて行って、地面にしゃがみ込んだ。俺は、何を見ているんだろうと、気になって背中越しに喜兵の見ているものを覗き込んだ。
喜兵は、アリをじっと見つめていた。ただ、見ているだけだ。
「何してるの?」
「アリを見ている」
「面白い?」
「興味深い」
俺は、喜兵の隣に座った。喜兵は、俺を拒否するでもなく、そのまま会話を続けた。
目の前の小さなアリは、せっせと何か小さい、といってもアリの身体からしたら頭くらいあるものを抱えて運んでいた。
「こいつは、どこへ行くと思う?」
「巣じゃないの」
「その通りだ。アリはフェロモンを出して、何匹も何匹も巣と餌を往復した道にフェロモンを濃く残し、それがつまり最短経路となる。今このアリは、その道を作っている最中なんだ」
「ちゃんとしてる」
「そうだ。しかも面白いのは、こいつらにはリーダーがいない」
「女王アリは?」
「こいつら一匹一匹に、この経路を行けと命令しているわけではない。互いのフェロモンから情報を得て、自発的に動いている」
「……へえ。人間よりかしこい」
俺は、何の気なしに、言いつけ通りに掃除をしている遠くの生徒を見た。落ち葉を掃いた場所に、風に乗ってまた一枚、落ち葉が舞い落ちた。
「そうでもないさ。アリはアリの知識しか持たないが、人間は、アリから学ぼうとする知恵を持っている。こうした生態の応用をバイオミメティクスというんだがね。他にシロアリが作る塚なんかは、熱をため込みやすく、それでいて温度が上がりにくいという。これは実際の建物にも応用されているらしい」
「よく知ってるね」
「俺はまだアリだ。だから知りたいんだ」
そう言って、喜兵は再びアリの観察に戻った。
俺はその一件から、喜兵とよく話すようになった。
話しているうちに、奴は本好きだが、人と話すのも好きと分かった。自分の思考をまとめたり、他人の思考から見識を拝借したりできるからだそうだ。
真帆の奴は、家がすぐ近くだし、母親同士が仲が良くて頻繁に付き合いがあった。真帆は、今でこそ多少の落ち着きを見せているが、天真爛漫にして、天衣無縫というべきか、その身体能力も相まって、俺を至る所へ引きずり回した。池だったり、山だったりを連れ回しては、虫や魚を大いに捕まえて遊んでいた。
あいつは、思ったことを口にして、思った通り行動する。それでいて、友人が多いのは、真帆が天性の善性気質だからだ。
疑わない、憎まない、恨まない、妬まない。
時折危うさを感じるが、なかなかに類を見ない彼女の特質を、俺はこれからも育んで行って欲しいと思っている。
そしてなにより、俺があの二人を信頼しているのは、あの二人は、俺を俺として認めてくれているからだ。
九夜志渡。
俺の名前は、小学生のうちでも早い段階で漢字で書くことが出来たので、習字や図画工作の作品には、俺は名前を書いた。
それを音読みで文字って、俺は『くやしい』と馬鹿にされていたことがある。
その名前は、俺にとって大切な名前だった。
当時の俺は随分とセンチメンタルだったから、毎日毎日そんなことを言われると、本当に沈んでくる。次第に、そんな野次に苛立ち、怒鳴りつけてやろうとした時だった。
「やめなさい!」
俺も飛び上がってビビるほどの大きな声で、そいつらを一喝したのは真帆の奴だった。すごい剣幕だった。
真帆があれだけ怒ったのは、後にも先にも、覚えている限りその時だけだ。
余りの迫力に、近くに居た別の女子は泣き出して、俺をからかった奴は散り散りになっていった。
教室に戻ってきた喜兵に聞くと、階の違う図書室にまで聞こえていたらしい。
そんなことがあったからか、まあ、単純に仲が続いているからか分からないが、二人は絶対に俺のことをフルネームや苗字で呼ばない。名前で呼ぶのだ。
「そうしたわけで結局、小さい頃からあの二人とは、友人同士だ」
俺は、昔話をかいつまんで宵待に話して聞かせた。
宵待は時折相槌を打ちながら話を聞いていて、聞き終わると静かになった。
「いい友人ね」
そう一言、宵待は呟いた。
俺もそう思う。だから俺は、そうだな、とだけ返した。
宵待はどうなんだろう。
クラスでは、あまり他のクラスメイトと話しているところを見かけないが、生徒会や、他のクラスの人間とはどうなのだろうか。
「宵待は居るのか?古くからの付き合いのやつとかさ」
俺は何気なく尋ねた。宵待は首を小さく振って、答えた。
「いないわね。わたし、ここに越してきたのは最近だし」
なんとなく宵待はこのあたりの出身かと思っていたら、どうやら違うようだった。
「両親が海外に居るって言ったでしょう?転勤が多くて、色々な学校を転々としてたから、友人らしい友人を作ることもできなかったわ」
そう話す宵待は、表情をほとんど変えることが無かったが、僅かばかり細めたその目は、寂しそうに見えた。
その日の話は、以降は学校の話題とか、その日のニュースといった他愛のない話をした。
結局、ここ数日俺が目にしていたのは、日々のお日様ばかりで、日之出朝陽なんて奴はそもそも居なかったんじゃないかと思うくらい、平凡に数日が過ぎていった。
そんな平凡な日々ではあったが、対日之出朝陽の俺たちの生活は、そんなつもりなど無かったのに、学校での生活を徐々に、そして確実に変化させていった。
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