第11話
翌日、珍しく寝坊した俺は、自分の弁当を用意している暇もなく、大急ぎで支度をして家を出た。紗那絵も寝坊していて、大忙しで会ったせいで、昨日の手伝いの礼を言う暇もなかった。
あの変態女に会わねばならないのは本当に嫌なのだが、奴に弱みを見せるのも矜持が許さない。できれば顔を合わせたくないので、元々始業ギリギリに着くつもりだったのだが、結局寝坊したせいでなんとか始業ギリギリに学校へ着いた。
教室に入り自然と室内を見回した俺は、途端に馬鹿みたいにうずくまって、眉間を抑えてから、もう一度教室を見た。何事かと既にクラスメイトの注目を集めているが、そんなことはどうでもいい。
憎きサディストの席に座っているのは。
宵待深月である。
宵待もまた、驚いたような不安そうな顔でこちらを見ている。その宵待と目が合った。
俺は立ち上がると、周囲の奇異の視線を無視して、自分の席に座った。今は考える時間が欲しい。そのまま話しかけないでくれ。
あいつは、消えたり現れたり、なんなのだ!
授業中、俺はひたすら、考えを巡らせていた。そして可能な限り教室を、クラスメイトの様子を観察した。授業などろくすっぽ耳に入って来ず、気づけば授業が終わっている、の繰り返しであっという間に午前中の授業が終わり、昼休みになった。
俺は、決心して宵待の席を見た。ちょうど宵待は立ち上がるところで、宵待もまたこちらを見ていた。僅かに頷いたような彼女は、小さな袋を携えて、教室の外へ消えていった。
また俺も同様に教室を出た。行先は決まっている。図書室のベランダだ。
図書室に入り、ベランダに続く窓を開けると、春らしい心地の良い風が吹き込んできた。僅かに雲のある晴天で、屋外で食事をするにはもってこいの日和である。寝坊したせいで弁当が無いのが手痛い。
予想通りというべきか、宵待は以前と変わらない姿でベランダにちょこんと座っていた。以前と変わっているのは、宵待は弁当を広げておらず、俺が来るのを待っていた様子であること。
「九夜くん。来てくれてありがとう」
「……お前に聞きたいことが有る」
俺は、宵待の正面に座った。
「昨日はごめんなさい」
俺が口を開こうとした矢先、宵待が頭を深く下げた。
宵待のポニーテールが、その勢いでなびいた様子を、俺はじっと見た。彼女の言動を、一挙手一投足を見逃さないようにするために。
顔を上げた宵待は、きまり悪そうに目線を伏せた。
「あなたが私を追い出したのも、仕方のない事だと思ってる。でも、少しだけ、話を聞いてほしいの。あれから私は考えた。やっぱり、何も言わないでいるのは卑怯だわ。それにこれは、おそらく九夜くんの協力失くしては、どうにもならない」
宵待は、たどたどしく言った。
「……その件は、俺もすまなかった。夜遅くだってのに、酷いことをしたと思ってる」
俺は小さく頭を下げた。
「それはいいわ、私にも落ち度があったし、こうして無事だから。それよりも」
宵待は、俺の目を正面から見据えた。
「九夜くん。あなた、匂うわ。……なにか、変わった経験をしたんじゃない?」
「は。風呂嫌いの猫でもあるまいし、俺は毎日風呂に入ってるぜ」
「……私には視えてる。あなたに絡みついている異形が」
「何を言ってるのかさっぱりだ。分かるように話してくれ」
宵待は頷く。そして、意を決したように喋り始めた。
「いいわ、そのつもりだから。私には、異形を感じ取る力がある。異形とは、通常とは異なる――いえ、現実世界には存在しない気配だったり、物質だったり、生物だったり、あるいは世界そのもの。そしてその力のせいで私は、私の周囲に意図せず異形を引き寄せてしまうの」
宵待は、申し訳なさそうにいった。
何の話だ。宵待は、ファンタジーゲームか何かの話をしているのだろうか。よく在る設定に思うが、ゲーム名は分からない。
「私は入学式から、異形の兆候をあなたに感じていたわ。でも、あなたが異形そのものなのか、あるいは異形に襲われつつあるのか、わからなかった。だから……あの夜、あなたの部屋で、確かめさせてもらった」
宵待の真面目な顔から、俺は二つのことを考えていた。
虚構を現実と思い込んでいる人間なのか、あるいは虚構を虚構だと認識しながら、大真面目に話しているのか。
宵待から、そんなトンデモファンタジーの話が飛び出てきたせいで、俺はハトが徹甲榴弾を食らったように面食らった。
「……そりゃ面白い設定だな。それで本でも書くといい。小中学生が喜んで紙飛行機にするだろう」
宵待は、眉を落として、悲しそうな顔をした。
「強がらなくてもいいわ。あなたの匂いは昨日より確実に強くなっている。あなたは、異形そのものと接触したのでしょう?」
……異形ね。あの女が異形というのなら、そうなのかもしれない。
宵待が、あてずっぽうで話をしている可能性はあるか。
いや、この話をあてずっぽうで言うことなど、ありえないのではないか。
高校生活のスタートダッシュを切るにしては、あまりにも特殊な設定すぎて、この設定で三年間を貫き通そうと思えば、至る所で奇人変人の汚名を着せられかねない。
「お前の言うことが事実だという根拠は?」
俺は平静を装って、話題を逸らした。
「それは……信じてもらうしかない。人間は視るもの、感じ取るものを、言葉以外では伝える術を持たないもの。……あと、できれば、『お前』ではなく名前で呼んで欲しい。少し、その……傷つくから」
「……俺は、どうやって宵待を信じたらいいんだ?」
宵待は伏し目がちに、少しだけ顔を綻ばせた。
「名前でもいいのに」
「で、どうなんだ?宵待は俺を信用させられるものを示せるのか」
宵待は少し考えるように、顎先に手を添えてから、周囲を見回した。ベランダの手すりに目を向けたところで、ひょいと立ち上がった宵待は、ベランダの手すりの上を右手で摘むような仕草をした。
「さっきも言ったように、直接あなたに私の感じ取るものを感じさせる手段はないのだけれど……間接的には可能かと思ってね。ほら、手を広げて?」
言われて、俺は物乞いをするように両手を差し出した。
宵待は俺の両手の上に、何かを摘まんだ様子の右手を持ってきて、摘まんだものを落とす如くに指を開いた。
「目を閉じて」
俺は、言われるがまま、目を閉じた。
すると、俺の両手の掌は、突然にこそばゆいような感覚と、じわじわと温まるような熱を感じ取った。
「なんだか、温かいような」
「その子はね、晴れた日によく外で見かけるの。害はないから安心して」
しばらくの間そうしていた。掌がなんだか温かい感覚は続いている。
「目を開けていいわよ」
目を開けると、宵待は再び、俺の掌の上の空間で、何かを摘まむような仕草をしていた。そしてそれを、元のベランダの手すりに置いたようだった。俺は、差し出していた手を引っ込めた。
「どう?」
一連の作業を終えて、再びベランダに腰を落ろした宵待は、嬉々として俺に問いかけた。
「うん……」
正直、よく分からない。重さも感じなかった。なんだか温かいものが、あったりなかったりする感覚はあったが、あまり実感を伴わなかった。
「よく分からん」
「えぇ⁉あのフワフワ、あんなにかわいいのに!」
可愛いのかアレ。そもそも俺には何も見えていない。他にないのか宵待に問うと、
「他のものは気持ちが悪いから、いやよ」
だそうだった。気持ち悪さより信頼を勝ち取る努力を優先させるべきだと思う。
うんうんと頭を抱えて考え込んでいる宵待の様子は、これまでになく随分と子供っぽかった。
「分かった。仮に、今ので宵待のことを信じるとしよう。それで、宵待は異形とやらに襲われつつある俺に対して、何をしてくれるんだ」
「ほんと?信じてくれる?」
眼鏡の奥の瞳を輝かせた宵待は、身を乗り出してこちらに全身を近づけてきた。思わず俺は、座ったまま後ずさって距離をとる。
「いいから先を話してくれ」
「ええ。私は、異形を引き付けやすいって言ったわよね。だから、出来るだけ私の周りに近づいてくる異形が、他の人たちの迷惑にならないように、排除するか、あるいは周りの人たちを守りたいと思ってる。さっき見せた様に、私は異形を見るたり感じたりするだけじゃなくて、干渉することだってできる。だから、つまりは九夜くんの手助けをして、九夜くんを助けたいって、そう思ってる」
「具体的には?」
「それは……見てみないとなんとも、分からないわ。手で取り除けるような物なら、簡単なんだけど」
なんだそりゃ。妖怪退治ならお任せあれという異形の専門家ではないのか。
「別に専門家じゃない。誰かに習ったとかでもないし。ただどうにかしたいと思っているだけ」
これでは、役に立つのか立たないのかさっぱりわからない。
「でも、九夜くんの損にはならないと思うけど」
「……わかった。ぶっちゃけ、俺は困っている。戦力は多いほど、戦略の幅が広がる。戦術の選択肢も増えるしな。力になってほしい」
俺は頭を下げた。
「よかった」
顔を上げた俺は、肩を落としてほっとした表情の宵待を見た。そして、そのままぽつりと、呟いた。
「昨日、九夜くんの家から追い出されたときは、びっくりしたけど、でも九夜くんのことも心配だったから……手伝えてうれしい」
「ところで」
俺は、宵待との会話の中でずっと引っかかっていたことが有った。
「理解を正確にしておきたいんだが、宵待の言う昨日、ってのは、今日の未明の事か。それとも、昨日の未明の事か」
宵待は不思議そうに口を閉じて、それから予想通りのことを言った。
「九夜くんの家に行ったのは昨日の夜だし、正確を期すなら、私が家を出たのは今日の未明ってことになるわね」
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