第9話

 気づいたことが有れば話に来い、と言った頼れる幼馴染は、部室の鍵を返却するらしく、部室の前で別れた。

 喜兵のおかげで、俺の頭はオアフ島のビーチの如くクリアになっていた。というか喜兵は一年生のくせにどうして我が物顔で部室を占領できるのだろう。今度暇なときに聞いてみよう。

 部室を出ると、部活を終えた生徒達で廊下が賑わっていた。ここ文化部棟は、吹奏楽部や美術部、調理部といった特別教室を利用する生徒達の部室含め、すべての文化系部活動の部室が存在する。

 正面玄関へと向かう生徒達の流れに身を任せる中、身体とは反対に、俺はこのまま帰ったものかと思案した。

 宵待深月に関する情報は、どうやら学校には無いようだが、出来る限り他に異質な存在が無いか。調べた方が好いのではないか。

 しかし、誰かが宵待の記憶を持っている俺を狙っているのだとしたら、生徒が減った学校でうろうろと彷徨っているのは格好の餌食になってしまう気もする。

 俺が思案にくれていると、帰宅する生徒たちの賑やかな声に交じって、哀愁を感じさせる音楽が流れだした。

「生徒会より、お知らせします」

 音楽に交じって、穏やかな女子生徒の声でアナウンスが流れる。

 おや、と思った。

 いつもは放送部による戸締り消灯云々という母親のようなお小言を頂戴してくれるので、生徒会からのアナウンスは聞き覚えが無い。そしてどうやら、上級生にとってもこういったアナウンスは例外的であるようだった。

 前を歩く生徒たちは、会話もそぞろになって、上を向くようにしてアナウンスに耳を傾けている。

「一年四組、九夜志渡さん。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します。一年四組、九夜志渡さん。至急、生徒会室まで来てください」

 心臓が跳ね上がった。

「だれ?」

「さぁ」

 直後に、放送部からの完全下校のアナウンスが流れた。周囲の生徒は先ほどのアナウンスなど最初から無かったかのように、お喋りに戻っていく。

 生徒達の中で一人、俺はその場で立ち尽くしてしまった。

 俺の名前を呼んだそのアナウンスの声に聴き覚えがあったからだ。

 宵待の席に座っていたあの女子生徒のものに、よく似ている。

 女子生徒の名前は、真帆に聞いた。念のため座席表でもクラスの全員の名前を確認した。うろ覚えの名前も多い中で、その名前だけは、全く聞き馴染みが無かった。

 名前は、日之出朝陽。

 こんな現代版天照大神みたいな名前、いくら俺でも一度聴いたら絶対に覚えている。

 どうする。

 朝陽の記憶の中では、俺は昨日、生徒会を手伝っていたらしかった。今般、俺が手伝ったことで失態が発覚し、修正作業のために呼び出されたとも想像できる。記憶もない汚名を返上しないといけないのは腹に据えかねるが、致し方ないだろう。

 しかしだ。

 喜兵との会話を踏まえても、最も疑念な存在は朝陽だ。ノコノコと顔を出して敵の陣地で一騎打ち、では敗北必死だ。

 無視するか。今から取って返して喜兵を連れてくるか。

 立ち止まっている俺の横を複数の生徒たちが横切っていく。

 俺は再び、その生徒たちの流れに沿って、歩き始めた。


 生徒会室は、普通の教室と変わらないほどの広さだった。ロの字型に並べられた机で、生徒会員で会議をするのだろう。今その席に座っている生徒は、誰もいない。

 その少女は、窓の外を見て立っていたが、扉の閉まる音で振り返った。口元に、僅かな笑みを浮かべている。

「九夜くん、来てくれてありがとう」

 そう言って、日之出朝陽は僅かに頭を下げた。その所作は無駄の無い洗練されたものだった。

「急に驚いたよ。生徒会に呼び出されるなんて」

「あら。わたしは生徒会ではありませんわ」

 俺の頭には疑問符が無限増殖した。

「……ここは生徒会室じゃないか」

「生徒会以外が、生徒会室を使ってはいけないというルールはないでしょう。音楽室も美術室も、皆のものです。私は個人的な用事で、九夜くんを呼び出したにすぎませんわ」

 放送設備の私的利用など、太い神経をお持ちである。

 俺が黙っていると、朝陽は穏やかな笑顔を崩さぬままに言った。

「クッキー、美味しかったですか」

「小食なものでね。また後で頂くとするよ」

 朝陽は、そうですか、と呟いた。

「こちらへ」

 そういうと、朝陽はロの字型になっている机のうち、一つの椅子を引いた。座れ、ということだろう。

「いやここでいい。もう下校時間だ、長い話でもないんだろ?」

「いいから座りなさい」

 その冷水のような、温度を失った声に、俺の身体は一瞬にして硬直した。朝陽の表情は、張りつけたような笑顔のままだった。

「いやだね」

「……あなたのように言うことを聞かない人は初めて。消してしまいたいくらい」


 俺は強気に出た。

 ただの物騒な言葉が口癖なおっとりとした女の子、であれば俺の心配はただの杞憂になる。しかし、もしこの日之出朝陽、という人間が、今日起きた出来事に何らかの関与があるならば、俺はこの女相手に、弱みを見せずに立ち回らなければならない。

 だが、喜兵と共に想像したとおりであることに、安堵する。

 朝陽は、どういう理由かは分からないが、俺に手出しはできない。

「あなたは何者なの?」

 指先を顎に当てて、首を小さく傾けた朝陽の仕草は、一介の男子高校生から見れば見蕩れてしまうような可愛らしさだろうが、今の俺にとっては不気味さしか感じ得なかった。

「……お前が答えるなら、答えてやるよ」

「ではご希望にこたえて。私はただの高校一年生、日之出朝陽ですわ。血液型はAB型、好きなものは紅茶にシュークリーム。嫌いなものは特にありません。趣味でピアノを少々。あなたはどうかしら」

「九夜志渡。好きなものは煮物、趣味は料理。嫌いなものは、背信だ。役に立ったか?」

「ええ、とても」

 朝陽はそう言うと、心から嬉しそうな顔をして笑った。

「あなたの嫌いなものを、増やしてあげられそうだから」

 目の前に、ぽとり、と天井から何かが落ちた。俺は目線を朝陽に据えたまま、落ちてきたものをちらりと見る。それは十センチほどの大きさで、黒い紐のように見えた。その紐は、ぐねぐねとのたうち回ってから、まっすぐになって動き始めた。

 百足だ。

「そうそう、私の好きなもの。一つ忘れていましたわ。人間を宝物のように、丁寧に丁寧に丁寧に。――虐めてあげることです」

 うっとりとした表情で、頬を落陽で染めている少女。

 彼女へ向けていた俺の視線は、視界で動きまわる何かのために、すぐ天井へと奪われた。

 天井に、無数の黒い何かが蠢いている。それはコップに満たされた水のように、ぽとり、ぽとりと、天井から零れ落ちて生徒会室の床に転がる。それはしばらくのたうち回ってから、人が歩くような速度で、こちらに向かってくる。

 俺が教室の出入り口に駆け出そうとした時には、全てが遅かった。

 天上から落ちた百足の洪水が、俺と俺の周りを一瞬で埋め尽くした。

「――――っ‼」

 全身が総気立ち、俺は気が狂ったように飛び跳ねながら、身体から百足を振るい落とそうとした。しかし天上から湯水のように百足が零れ落ちる中では全くの無駄で、見る見るうちに足元に小山ができ、俺の身体は上からも下からも百足に覆われた。

 身体に纏わりつく、ずしりとした重み。やがて服の中にまで侵入した百足は、脛を、腿を、腹を、背中を、這いずり回る。俺は絶叫して転がりまわった。

「怖がらなくても大丈夫です。その子たちは、私の言うことを聞く、いい子だから。噛んだりしませんわ。でも、困ったことに、狭いところが好きなの」

 咄嗟に、手を大きく開いて鼻と耳の穴をふさぎ、口を閉じた。

 無数の百足は容赦なく、顔の上を這っていく。

 俺は絶叫することもできず、目を閉じて、癇癪を起した子供のように床を暴れまわった。背中や腹が、百足を押し潰す気味の悪い感触を伝えてくる。全身が幾千本もの足によって撫でまわされている。

 そのおぞましい感覚が、脛から頭のてっぺんに至るまで、俺を支配している。

「はい、おしまい」

 そう言ったように聞こえた。続いて柏手が聞こえたかと思うと、身体に纏わりついていたおぞましい感覚は一瞬にして無くなった。

 地面に転がった俺は、荒々しい呼吸のままに恐る恐る目を開く。

 そこには、入ってきた時と変わりない、夕暮れに染められた生徒会室が広がっていた。

「おま……え……」

 顔が濡れているのが分かる。知らず知らずのうちに唾液やら鼻水やらをまき散らしていた。体を起こすと、服が体と擦れてあの感触が反射的にフラッシュバックし、思わず身体がびくりと反応してしまう。

「小生意気なお客様への、全身マッサージです。お代はサービス、ということで。お気に入りでしたら、いつでもリピート可能ですわ」

「……サディスト変態女め」

「嫌いなもの、増えました?」

「……たった今な。テメェだよ、日之出朝陽」

 身体がようやく平生の感覚を取り戻すと同時に、恐怖はふつふつと怒りへ変わった。

「悲しいですわ。私は九夜くんのこと、お慕いしておりますのに」

「冗談は存在だけにしてくれ」

「あら、冗談ではなくってよ。この世界のすべては、私の好意をもってこそ、実在するのですから。例外はありません。もちろん、九夜くんも」

「は。思い通りにならなくてもか」

「ええ。私は私の世界のすべてを愛していますから。草木一本に至るまでね。でも」

 朝陽はそこで、言葉を切った。彼女は優しげな瞳を細めた。

「思い通りになるに越したことはありません。何事も。だから私は、あなたが私の思い通りになりたいと思うまで、丁寧に虐めて差し上げます。壊れないように、狂わないように」

「糞ったれめ」

 俺は、震える足を握りしめながら、ようやく立ち上がることができた。心臓が脈打ち、頬が熱くなってくるのが分かる。制服の袖で、濡れた顔を拭った。身体全身にいきわたる血液が、足に、腕に力をもたらしてくれる。

「話はそれだけか?言っておくが俺は、お前の言いなりになんてなったりしない。俺の自由意思は、俺だけのものだ」

「ご自由になさるとよろしいかと。また明日、学校で会いましょう。楽しい高校生活は始まったばかりですわ。では、ごきげんよう」

 恭しくお辞儀をした朝陽を尻目に、俺は踵を返して生徒会室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る