第8話
ただでさえ狭い教室の両脇に、これでもかと詰め込まれた本棚たちに圧迫感を覚える文芸部室。
俺は、目の前に座って本を読んでいる、ちょんまげの男子生徒の言葉を待った。切れ長の瞳は、研磨された刃物のように鋭く、静かに、本の文字を追っている。
「なあ、どう思うよ」
俺はもう一度、その風変わりな見た目をした少年、西極喜兵をせっついた。古く厳めしい名前をしたこの男は、真帆と同じく俺の数少ない幼馴染だ。
喜兵の目線はそれからほんの少しページの上を動いてから、ぴたりと止まった。喜兵は本を閉じると、ようやくこちらを見た。
「二つほど考えた。お前は夢をまるで本当にあった出来事のように語っているか、あるいは今こそが夢か、だ」
「なるほど。後者なら、それはそれで別の問題がある。もう今日という夢を十時間近く見せられているが、一向に冷める気配が無いんだぜ」
「夢の中の時間は、実時間にすれば一瞬にすぎん。お前は今頃、家のベッドで涎を垂らして寝ている頃だろうよ」
「そんならば、俺を起こしてやってほしい」
「そいつは無理な注文だな」
喜兵は口を真一文字に結んで口角を上げるという奇怪な表情を作って、にやついた。
「モーニングコールを真帆にお願いするといい。喜んでお前の部屋まで駆けつけてくれるだろう」
「真帆に任せたら一時の夢が永遠の夢になっちまうさ」
「是非も無し」
「あるわい」
俺はこの喜兵に、これまでの宵待深月に関わる出来事と、そして今日あった出来事を全て話していた。昼休みの時間を利用して、真帆や教師陣にそれとなく、宵待の所在を確認したその結果も含めて。
答えは、どこにもなかった。
宵待深月、という少女は一年四組に存在しないどころか、この学校に入学した形跡すらなかった。彼女の存在証明は、霞か蜃気楼の如く、塵一つ残さず消滅していた。
「本当に困ってるんだ。何が何だか全く……。正直、何を相談したらいいのかも、分かってない」
絞り出した声は、居場所を無くしたように上ずっていた。それは今まさに、頼るものが無く移ろいつつある自分自身に重なって思えた。
「到底、頭を働かせるには現実離れした絵空事のようにも思えるが……そう恐れるない。まずは一つ一つ、お前の記憶を正として、事実を明らかにしようじゃないか」
喜兵はそう言うと、テーブルの上に散らばっている紙の一枚を引っ張り出して横向きにし、目の前に広げた。ペン立てから一本の鉛筆を取り出して、ちょうど紙の真ん中に長い縦線を引く。
「右側が昨日以前、左側は今日だ。昨日以前には、宵待深月という人間が一年四組に存在していた。真帆は宵待と友人関係にあったし、入学式でも宵待の姿をお前は確認しているな」
紙の右側に、喜兵は丸を三つ書いて、それぞれの丸の中に、志渡、真帆、宵待、と書き入れた。そして、志渡と真帆から、宵待に向けて矢印を引いた。
俺は頷き、そして尋ねた
「喜兵はどうなんだ。宵待の入学式の挨拶のこと、覚えてないか」
「知らんね。俺がそんなもの、聞いていると思うか」
「だろうと思ったよ」
相変わらず、この男は自分の興味がない事柄に対しては、一切の注意を払わない。
喜兵は、続いて紙の左側に鉛筆を走らせた。
「志渡、お前は今日の未明、宵待と口論をしている。そして宵待は、お前の家を出て以降、消息が不明である」
紙の右側に書き込んだ宵待の丸印から、左側へと線を引き、その途中でバツ印を描いた。
「お前以外の人間が、宵待の姿を確認していた最後は……紗那絵ちゃんか。ならば少なくとも、宵待の存在が確実性を失ったのは、それ以降と整理できる。考えるべきは、この状況が偶発的に発生したという仮説と、意図され必然的に発生したという仮説だ。両者の仮説に、お前だけが宵待深月という存在を記憶している、というイレギュラーな事実を踏まえて、今後の展開を予想してみようじゃないか」
喜兵は、バツ印の個所に何重にも丸を描いた。
「これが偶発的な出来事だとしよう。偶然にも、宵待深月という人間が消失してしまった。そしてまた、偶然にも、お前だけ記憶が残っている状況。この状況では、お前は何者からの外力を受ける立場にはない。静観し、ただ事態の行く末を見守っていれば、いずれはお前の中からも宵待の記憶が無くなっていくか、あるいは記憶の齟齬を抱えながらも、現在の生活を続けていくことが出来るだろう。問題は」
喜兵はかつかつと鉛筆の先で紙面を叩きながら、俺を見た。
「問題は誰かが宵待深月という人間の消失を意図していた場合だ。その計画は現時点で概ね成功しつつあるが、僅かなエラーが紛れ込んでしまっている。無論お前だ、志渡。何故だか分からないが、宵待深月は存在そのものが霧散し、誰の記憶の中にも存在していないというのに、お前だけ記憶が残っている。それは、宵待深月という人間を消したかった存在にとって、予期せぬ出来事であり、看過できない状況であるはずなのだ。すなわち今後想定されるのは、その何者かが――。志渡。お前の記憶、あるいはお前そのものをを排除するであろうということだ」
息をするのも忘れていた俺は、その時ようやく、苦しさに喘いで大きく息を吸い込んだ。それなのに、淀んだ空気は寧ろ俺を蝕むように、胸に一抹の息苦しさを植え付けた。
たまったものではない。何者かが俺を狙うだと。
喜兵は俺の様子を見て、口元を結んだまま、手にした鉛筆を両手で弄び始めた。
「現状が意図的なものであるという前提で、もう一つ思考実験をしてみよう。仮に俺がこの事態を企んだ存在Xだとする。繰り返すが、何の憂いも無く事態を思い通りに終息させるためには、例外など作る必要はなかった。お前からも記憶を奪ってしまえばよかった。そうしなかった理由は、出来なかったからに他ならない。では、なぜできなかったのか。そしてなぜ今、同じことをして記憶を奪わないのか。推測ではあるが、Xはそれほど自由自在に行動できないのだろう。何らかの制約があるのだ。時間なのか、場所なのか、道具なのか、それは分からない。だがその自在性に着目するならば、制約とは不可逆な時間であるとか、あるいは道具、そのアイテムは消耗品であったのかもしれない。その二点が見えると、お前の記憶が残っていることには一つの仮説を導くことが出来る。お前を制約の例外規定の範囲に誘導しエラーを生じさせたのは、エラーを好ましいと思う存在に他ならない。自らを覚えておいてもらうため、つまりは宵待深月その人だ」
俺は、喜兵の説明を聞き終えて長く、ゆっくりと息を吐いた。
こいつの頭と口の回転には相変わらず驚かされる。俺は喜兵の話が、それなりに説得力があるものに思えた。
「とまあ、これがお前の経験に基づいて構築した、あくまで俺の妄想だ。それで、お前はどうするつもりだ」
喜兵はそう言うと、じっと、眼光鋭く俺を見た。
「元々、俺には拠り所が何もなかったんだ。一つ、喜兵の豊かなの妄想をいただきたい。そのうえで、俺は」
これが夢なのだとしたら。何をしたところで、目が覚めれば綺麗さっぱり元通りだ。
これが夢でないのだとしたら。喜兵の言う通り、何者かの作為であることを仮定した方が、出遅れずに済む。
そしてあるいは。喜兵が言わなかった第三の解。
おかしくなったのは外部環境ではなく内部環境、つまり俺自身だったとしたら。
俺はどうしたらいい。俺は。
「コギト、エルゴ、スム」
喜兵の突然の言葉に、俺は思考を中断して喜兵を見た。
喜兵は文芸部室の唯一の窓から、外の様子を眺めて呟いた。
「誰あろう、デカルトの言葉だ。日本語で言えば、我思う、故に我有りというやつだ。デカルトは方法的懐疑により、あらゆるものを疑い、最後には疑っている自分自身の存在の絶対性を論証するに至ったわけだが……俺はこの言葉を懐疑していてね。ここに有るとする我、が一点の不純もない純粋な我であるとすれば、当然、想像する我もまた、純粋であるに違いない。しかし実際はどうだ、人間は無意識に嘘を吐く。無意識を意識できないからだ。想像する我が、なんらかの無意識によって歪められた偽りの我であれば、ここに有るとする我は、果たして真なる我と言えるのか、とね。この点、因果律を、真実ではなく観測者の個々の連想を結合した物でしかないと断じたヒュームや、真なる世界は不可知であるとしたカントの方が、徹底的懐疑の姿勢として、俺は好ましく思う」
それきり、喜兵は押し黙った。俺は、思わず苦笑いした。
「お前は俺の思考が手に取るように分かってるみたいだ。決めたよ。まずはリスクを回避するために動く。そのうえで、おのずと自らの経験が真なものか、偽りだったのか分かってくると思う」
喜兵は良いとも悪いとも言わなかった。
いつものように自らの思考の世界に入っていったのだろう、と思ったのも束の間、喜兵はおもむろに立ち上がると机の上の本を手に取って、部屋の脇に置いた通学鞄に詰め込んだ。
「今日は店じまいだ」
その言葉と、下校時刻を告げるチャイムが鳴ったのは、ほとんど同時だった。
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