第7話

《二章》


 女性教師が黒板に文字を書き、教室はチョークと黒板のぶつかり合うカッ、カッという音と、三十人近い初々しい生徒たちのシャープペンをノートに走らせる音ばかり。

 俺は机の上の教科書を捲る動作で、恐る恐る後方の席を見た。

 皆一様に、教師の速記に追いつこうと板書をノートに写している。

 ある生徒に目が留まった途端、まるで一瞬時間が止まったような錯覚に陥り、多足生物が背中を這いずる如き悪寒に襲われて、俺はすぐに黒板に向き直った。心臓が、早鐘を打っている。

 何度見ても、見間違いではない。

 ――あいつは、誰だ。

 入学早々でクラスメイトですら名前と顔が一致しないが、彼女の名前は、よく覚えている。嫌でも覚えさせられたのだ。入学者代表の挨拶を淀みなく、威風堂々とこなしていた少女。

 そして突如として同級生の家に押し入り、事もあろうに寝所にまで侵入した少女。

 宵待深月。

 しかし今、宵待の席に座っている生徒は俺の知る彼女ではなかった。

 肩ほどまで伸ばした黒髪、目尻の下がった、おっとりとした顔つきの少女。眼鏡はかけていない。

 その女は、自らがそこに在ることが当然のように振る舞っている。宵待深月の椅子に座り、宵待深月の机にノートと教科書を広げて。そして、宵待深月の如く、クラスに溶け込んでいる。

 朝から、何かの歯車が狂っていた。


 気怠いような不快さで普段より早く目覚めた俺は、寝転びながら、宵待を夜半のうちに着の身着のまま家から追い出した事態の家族向けの説明を考えていた。

 宵待に寝込みを襲われたとは言えず、それはつまり宵待が止むにやまれぬ事情からではなく意図して母と紗那絵を騙し、この家に潜入したことを話すこととなる。俺にはその行為が、家族の危機意識を高めるメリットを上回って、自身が騙されていたのだという衝撃と共に、二人を傷つけることになる損失を含んでいるように思えた。

 そう、全てを懐疑するのは俺だけでいい。

 注意深く疑うことは素晴らしい知識を授けてくれる。危機を回避し、利益をもたらす。しかし同時に、懐疑に溢れた世界はまた、決して陽の差すことの無い、肌を刺すような寒風の吹き荒れる、荒涼とした大地でもある。その世界は誰かに害されることの無い代わりに、誰かと寄り添うことも許されない。

 母と紗那絵には、二人の善良なぬくもりのある世界を、居心地が良く誰もが共にありたいと思う世界を培ってほしい。

 それこそが、この三人だけの家族で俺が果たすべき役割なのだと思っている。だから、それを害する恐れのあるものに対して、俺は徹底的に敵対し、抗い、叩き伏せるべきなのだ。

 俺は体を起こしてベッドから降りると、部屋を出て階下へ向かった。

 道筋は固まった。あとは平然として、何か問われれば二人にその事実を語り聞かせるだけだ。

 リビングのテーブルでは、スーツ姿の飾利と、寝巻のままの紗那絵が朝食を食べながらテレビを見ていた。

「おはよ」

「おはよう」

 飾利の眠そうな声に、俺はいつものように挨拶を返した。

 朝食の置かれている席に座って、合掌し箸をとる。ご飯茶碗を手に持ちながら、ごく自然に、宵待が居なくなった理由の報告を開始した。

「そういや、宵待……昨日来た女の子だけど。急に夜中に宵待の携帯に電話がかかってきて、家庭の事情って言って慌てて帰っていった。紗那絵、お前の部屋に宵待の荷物あるだろ?今度学校で会った時に返しとくから、飯の後で俺に渡してくれ」

 飾利と紗那絵は、顔を見合わせている。

 女子高校生の荷物を俺に預けることに意義があるのかもしれないが、そこは息子であり兄である俺を信頼して欲しい。

「誰か来てたの?しぃちゃんの友達?女の子とお泊りなんて、いくら家でも母さん感心しないなあ。相手のご両親は良いって言ってたの?」

 飾利は眉を寄せて言った。この酔っ払いめ。

「母さんが連れてきたんだろうが。酒飲みもそこそこにしないと、いつか痛い目を見るぞ」

 俺は溜息を吐いて言った。宵待と紗那絵に手伝って貰ったとはいえ、俺があんたを二階まで担いだんだぜ。感謝こそすれ、非難される筋合いは無いはずだ。

「……そうだっけ」

  飾利は気まずそうに苦笑いして、黙々と食事を続けている紗那絵に問いかけた。どうやらアルコールを推進燃料にして昨日の記憶を第三宇宙速度で太陽系の彼方まで葬り去ったようである。好都合だ。

「さぁ?お母さんが知らないなら私も知らないけど」

「紗那絵の部屋で二人で寝てただろ」

「朝から何?しぃちゃん作り話下手すぎ。そんな話、今時小学生でも怖がらないって」

 紗那絵はそう言って、鼻で笑った。

 何故だか分からないが、紗那絵は昨日のイベントを無かった事にしてくれるらしい。良い妹ちゃん効果、万々歳である。

 俺は、具沢山の味噌汁をすすりながら、思考を巡らせた。

 よもや紗那絵は、飾利の否定的な反応を見て、昨晩の出来事を、兄を強請る格好の材料と考え付いたのではないか。

 母上様、実はこの不届き者は、泥酔した母親をこれ幸いと、同級生の女子を家に招き入れ、懇ろにしておりました、これがその証拠でごぜいます、と宵待の荷物ともども告発するタイミングを虎視眈々と狙っている。告発されたくなければ、これから毎日ケーキを献上せよ、などと……その鬼畜の所業には舌を巻くが、流石に考えすぎか。

 俺は味噌汁のお椀をテーブルに置いた。

「いいだろ偶には冗談くらい。夏に向けて怪談話の練習でもしておこうかと思ってな」

「センスなし。って言うかしぃちゃん、怪談話するような相手いないっしょ。たまには可愛いお姉さんとか、イケメンの友達連れてきてよねぇ」

 憎らしく口元を歪める紗那絵。

「ま、そういう友達をつくるためっていうなら、しぃちゃんの下手な怪談話にも付き合ってあげなくもないけどね。あ、でも高校卒業するまでに間に合うのかな」

 失礼にもほどがある。俺にだって怪談話をできるような幼馴染が二人ぐらい居る。

「まぁちゃんはカウントしないからね」

 紗那絵の言うまぁちゃんというのは、古郡真帆のことである。一人っ子の真帆は家も近く、紗那絵を妹のように可愛がっている。紗那絵も紗那絵で、真帆には随分と懐いている。

「じゃあ、それ以外の友人にでも、話すとしよう」

 宵待の話題は、それきりになった。


 朝食後、制服に着替えるために自室へ引き返そうとした紗那絵を、飾利に気付かれないようにこっそりと呼び止めた。

「なあ、さっき話してた宵待の荷物なんだけどさ、宵待に返しておきたいから渡してくれないか」

「まだ言ってんの。しつこいよ」

 紗那絵は半笑いで答えた。

 あしらわれそうになるが、ここで引き下がるわけにはいかない。宵待の行為を許したわけではないが、同級生女子の衣服やら何やらを機に乗じて猫ババするのは、行為に対する報復の一線を越えている気がする。変態などと謗りを受けかねない。

「条件は?」

「はぁ?」

「頼む。さすがに毎日ケーキは難しいから、月一くらいなら奢ってやらんことも無い」

 俺は精いっぱい譲歩した条件を出したつもりだった。

「わけわかんない。いい加減、しいちゃんうざい!」

 眉を吊り上げた紗那絵は、どたどたと音を立てて階段を上がって、自室へ籠ってしまった。

 かくして、紗那絵は俺が出発するまで自室での籠城を選んだらしく、俺は泣く泣く家を出た。

 荷物を預かっている、という後ろめたさから、警戒しつつ教室に入ったのだが、いつも――といっても宵待深月の生態情報は、一週間程度のデータベースしかない――早く来て熱心に机に向かっているはずの宵待の姿は、どこにもなかった。

 これ幸いと自席に流れるように着席した俺は、鞄から教科書を引っ張り出しているところで、肩を叩かれた。

「九夜くん」

 反射的に振り返った俺は、思わず固まった。

 名前が出て来ないのである。そこに居たのは、肩ほどまで伸ばした黒髪の、垂れ目に泣き黒子が愛らしい顔つきの少女だった。

 相手が自分の名前を知っているというのに、自分が相手を知らないというのはどうにもバツが悪い。

「あぁ、おはよう」

 俺は相手の名前を聞き返すでもなく、ふにゃふにゃした愛想笑いを浮かべながら言った。名前を聞くのが憚られたからだ。

「昨日は感謝申し上げます。生徒会室、おかげで助かりました」

 ……はて。なんのことかしら。

「これ、お礼です」

 そうして少女は、穏やかな笑みを浮かべながら、可愛らしいラッピング袋に入った一口大のクッキーたちを手渡してきた。

 名も知らぬお嬢さん。俺をどこかの誰かと間違えていやしませんか、などと問うことは簡単だった。

「全然。そんな」

 そうして、適当に誤魔化して煙に巻く作戦。

 軽薄なこの作戦は、いともたやすく突破された。おっとり少女は存外頑固で武闘派なようで、笑顔のままおもむろに俺の腕を掴むと手の中にクッキー袋を握らせて、

「貰ってください」

 と、走り去っていった。

 その強引な手口に、レジスターを強盗に襲われたコンビニ店員のように声も出せないまま、彼女の同行をただ見つめていた。

 彼女は教室の後方の席に座った。

 いや、おかしい。

 その席は――他でもない、宵待深月の席である。

 俺がなおも少女を凝視していると、そのことに気付いた少女は、恥ずかしそうに少しだけ俯いて、こちらに小さく手を振った。

 少女の両隣は空席だった。誰かと話すためにその席を陣取ったわけではないのだ。少女はそして、机の中から教科書を引っ張り出した。

 あたかも初めから、それは彼女のものであるように。

 心の中でどす黒い靄が充満し膨張し、そして圧迫した。

 理解できていない。

 彼女は誰で、何故俺にクッキーを渡し、そして何故、宵待深月の席を我が物顔で占領するか。宵待へのいじめ。

 授業前の予鈴が鳴った。生徒たちは急かされるように各々の席に着く。俺は、教室の出入り口を睨んでいた。

 ガラ、と教室の前方の扉が開いた。女性教師が教材を抱えて、入室してきた。授業は何事もなく開始された。

 教室をそれとなく見回し、ようやく気が付いた。

 この一年四組の教室の席は、そのすべてが埋まっている。

 そして授業の間、遅れて入室する者は、誰一人としていなかった。

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