第4話

 テーブルに上半身を預けるようにして座っている飾利は水の入ったコップを片手に、素人の不慣れなヘッドバンギングの如く、頭を右に左に揺らしていた。

「それでねー、新入社員の歓迎会。新しい子がぁ、これまた強くって。だからぁ、ちょーーっとろみすぎちゃってねー、へへへっ」

 呂律の回らない飾利は、隣に座っている深月の肩に手を回して抱き、

「しょしたらねー、帰り道で九夜さん、大丈夫ですか、って。誰かなー、と思ったら、美人さんだったの、ふへへ」

「宵待深月です」

 人当たりのいい微笑を浮かべた宵待は、セクハラ上司のような母を意に介する様子はなく、驚くほど簡単な自己紹介をした。

「そうそう、深月ちゃん。しぃちゃんの、高校の同級生?あたしはぁ、覚えてなかったんだけど、深月ちゃんが覚えてたんだよねー?」

「入学式でお見掛けしたので」

「すっごいよねえ‼あっはっは」

 突然笑いだすし、スキンシップは著しいし、母ながら部下にどう思われているか気が気ではない。会社ではうまくやっていると祈りたい。

 すると、飾利は突然神妙な面持ちになった。

「深月ちゃんねえ、一人暮らしなんだって。それでぇ、家の水道を工事してるから、住むところ探してるんだぁ。寂しいだろうしねえ、それならウチに来い‼って言ってあげたのー」

 はあ。今なんと。

「だからぁ。工事が終わるまでウチに居ていいよーって。いいでしょー?母さんは、君たちを薄情者に育てた覚えはないぞー?」

 俺は隣で困った顔をしている紗那絵と、それとなく顔を見合わせた。

 酔っぱらいの戯言と言ってしまえばそれまでだが、どう考えても異常な事態だ。かといって宵待の事情を根掘り葉掘りほじくり返して疑ってかかるのは、紳士的ではない。

 正直なところは正体不明の宵待をそれとなく追い返したいのだが、顔も身分も知っている一介の女子高校生を、一抹の不安という理由だけで放り出すのは余りに非人道的に思う。

「やっぱりご迷惑ですから、私はこれで」

 俺と紗那絵の間の僅かな沈黙を察してか、そう言って席を立とうとした宵待を、飾利は抱き留めた。

「やだ‼もうこんな時間だよー⁉」

「でも……」

 様々な思いを交錯させながら、俺は気になっていることを聞いた。

「宵待……ご両親の許可とかは」

「……両親は海外。だから特に許可は要らない」

 その目つきは相変わらず厳しい気がするが、いつもと違って自然と会話できている。なんだかもの凄く新鮮だ。

「私は、別にいいけど」

 紗那絵にも言われたら、ここで俺が断ればどう考えても一人悪者になっちまう。俺は一瞬の逡巡の末、選択を宵待に委ねることにした。

「宵待が、それでいいなら」

「やったぁ!さすが我が子たち‼記念に乾杯だぁー」

 飾利はそう言うと、手に持っていたコップの水を一気に飲み干して、猫のように鳴いたかと思うとテーブルに倒れ伏した。それきり、すぅすぅと寝息を立て始めた。



 酔っぱらいを寝室まで担ぎ上げたあと、さっさと風呂を出た俺が目にしたのは、テーブルで和気あいあいと紗那絵に勉強を教えている宵待の姿だった。

「この連立方程式は、この項を移項させて式全体を減算してあげると」

「ほんとだ、すぐ解けた!」

「でしょう?」

「深月さん、教えるの上手い。志渡はこういうの下手くそなんだよね。何言ってるか分かんないし」

 うるせえ。教えてあげるだけ感謝してくれ。

「紗那絵、あんまり迷惑かけんなよ」

 と、兄らしく釘を刺しておく。一応、宵待はお客様でもあるわけだし。

「あ、しぃちゃん風呂出てたんだ」

「別に迷惑ではないわ。誰かに教えるのは、教える側にも明確な理解が必要だから、私にもいい勉強になるし。知識を自分の言葉に置き換えるのは、記憶の定着にも効果があるのよ」

「へぇ、そうなんだ!じゃあ次、この問題とか」

「まずは自分で考えてみることも大切」

「はーい」

 いつのまにか随分と仲良くなったようだ。

 学校では真帆たちと一緒に居ることは無いから、これだけよく喋る宵待は初めて見る。真帆を偉そうに品評できる身分ではないが、あいつには人を見る目があるから、むしろこの宵待の姿こそが、本来の彼女なのかもしれない。

 俺の視線に気が付いたのか、宵待は眉を寄せてじとっとした不機嫌な目つきでこちらを見た。

「何かしら」

「いや、良かったらお風呂でもどうか、と」

 宵待は一拍、顎に手を当てて考えるような顔つきをすると、

「では、お言葉に甘えて」

 と言って、手持ち鞄を持ち風呂場の方へ行った。風呂場のドアの閉じる音を確認した俺は、それとなく紗那絵のそばに行って問いかけた。

「で、どう?」

「どうって、何が」

「宵待の様子だよ」

「そんなこと、志渡の方が詳しいでしょ。私初対面だよ?」

「詳しいって、俺もほとんど話したことないんだぜ」

 唯一の会話が罵倒だったことは、兄の名誉のために触れないでおく。

「そうなの⁉てっきり爛れた関係かと。それか、押しかけ女房?」

 家族のいるタイミングをわざわざ見計らって女子を呼び込むとは、太閤秀吉並みに色好みな兄貴だな。

「つまり俺は高校入学一週間にして、爛れた関係を構築したプレイボーイというわけだ」

「……冗談に決まってるでしょ。本気にしないでよ。キモ」

 据わった目つきで吐き捨てる紗那絵。昨今の十代女子の間では人を罵倒するのが流行しているようで、普通に傷つく。

「まあ、最初はびっくりしたけど良い人じゃない。頭もよさそう」

 一見、そう見える。しかしこれまでの宵待の様子を俺はありありと覚えている。俺の前で宵待が良い人ムーブをしたことは一度としてなかった。

 むしろ俺は、ひしひしと殺意を感じていた。だから妹にもこうして感触を聞いているわけで、自分の判断材料に他人の直感を加え入れたかった。

 真帆評と紗那絵評を信ずるならば、そしてまた俺の感覚を信ずるならば、三評を整合するに宵待深月という人間は、男の子を前にすると素直になれないの、だって、女の子だもん。と、気恥ずかしさのせいで好きな男子に暴力的行為を働く、石器時代の二次元女子ということになる。ただしそこは現実をわきまえ、あくまで暴力という手段に訴えるではなく、それ以外のありとあらゆるものを以てして、男子を虐げる系女子。

 それは余りにも、身の毛のよだつ属性だ。

 宵待深月とはいったいどういう人間なのか、俺は思考を巡らしていた。ふと紗那絵の方を見ると、何を思ったのか、にやにやと含み笑いをしていた。

「ってか、早く言ってよね。ほんと。なんだかんだ言いながらさ、しぃちゃんにも高校で新しい友人が出来そうで安心したよ。もしかしたら恋人なのかもしれないけど」

「アホか。名前しか知らないで恋人になれるなら、今頃俺は何人の嫁がいるかわからん」

「ま、これが第一歩だって。恋人はありえないかもしれないけど、友人くらいにはなってもらえるんじゃない?志渡でもさ。仲良くなりたかったら、私も協力する」

 こいつは兄貴に対して失礼過ぎないだろうか。

「自分の友人くらい、自分で選ぶさ。お前にそんな迷惑もかけられん」

「まぁちゃんと喜兵さんくらいしか友達いない方が迷惑なんですけど?」

 本当に、口の減らない妹だ。

「私もさ、良い妹ちゃんになって、好感度あげとくから。ちゃんと志渡も頑張ってよね」

 何を頑張るのかさっぱり分からないが、良い妹ちゃん、とやらが品行方正で兄貴を慕ってくれる妹であることを、俺は強く願った。


 


 風呂上がりの宵待は束ねていた髪を解いており、薄いピンク色をした寝巻に着替えていて年相応に可愛らしかった。

 寝巻という物は、かなりプライベートなものだと個人的に思うのだが、同級生にそれを見られるということに恥じらいは無いのだろうか。

 じっと見つめていると、また棘のような視線で貫かれかねないので、俺は紳士的に視線を逸らす。

 俺は、宵待にどこで寝てもらうかという問題を完全に失念していたせいで、紗那絵に相談をするのも忘れていた。

 咄嗟の判断で、宵待には、申し訳ないがリビングのソファで寝てもらうことにした。俺が部屋を明け渡すなど色々な意味で以ての外だし、かといって紗那絵の部屋で寝てもらう訳にもいかないと思ったからだ。妹も、今日会った人を自室に招き入れるほど、図太い神経を持ち合わせてはいないだろう。

 ということで、俺はそのあたり色々と気を回しながら、俺の部屋は踏み場が無いし、紗那絵の部屋は狭くて汚いなどと理屈をこねて、宵待にリビングでの就寝を勧めた。

「ちょっと、汚いって何。うちの部屋入ったことあんの?」

「いや、無いけど。たぶんそうだろうと」

 兄の配慮を無にしないでくれ。

「私は別に、深月さんと一緒の部屋で寝てもいいけど」

 妹は存外、図太い神経を持ち合わせていた。というより、気前がいいとか、心優しい、という言葉が適切かもしれない。偏屈な兄とは違って立派に育っているようで、感無量である。これが、良い妹ちゃんというやつの顕現なのだろうか。

 兄にも、もう少しその優しさを気前よく振りまいてほしい。

「いいの?私、リビングでも全然構わないけれど」

 宵待は困ったような顔をして言った。

「大丈夫です。……修学旅行みたいでなんか楽しいし」

 紗那絵はそう言って、照れ臭そうに笑った。

「……ふふ、ありがとう」

 ふっと微笑んで目を細めた宵待は、純真そのものに見えた。

 話が付いたので、俺はさっさと自室に引っ込んだ。あとのことは、若い二人にお任せしよう。

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