第5話
何やら顔にこそばゆいものを感じて、俺は目を開いた。
部屋は暗く眼前には何も見えない。少しでも電気をつけていると眠りが悪いので、真っ暗にして寝ているのだが、今日は何かが違った。
思わず全身が粟立つ。寒気からではない。
なにかが、いる。
真っ暗な部屋の中で、眼前の闇には何かが蠢いていた。
あっ、と声を上げるより早く、布のようなものが口に強くあてがわれ、俺の声はかき消えてしまう。
「静かにして」
聞き違うことはない、それは宵待の声だった。
闇に慣れてきた目は、ようやく事態を理解した。宵待の顔が、俺の顔に覆いかぶさるようにして、手を伸ばせば届くほどの眼前に迫っている。長い髪の毛先は顔に触れていたのだ。
その眼鏡の奥の瞳は、深淵の奥底より深くから俺を覗き込んでいた。
血の気が引く思いがして、俺は押し黙った。夜這いなんてラブロマンス的な要素は微塵もない。彼女の口元には一片の感情も存在せず、その瞳は俺の内部まで見透かそうと言わんばかりに、冷たく見開かれている。
時計の針の音と、小さな呼吸音だけが聞こえる。
どれくらいそうしていただろう、五分も経った頃か、随分と長い時間のように感じたその拮抗は、突如として終わった。
宵待は、俺の口元を抑えるのをやめて、ベッドからゆっくりと降りた。俺は呼吸と身体の自由を得てもなお、狂ったように脈打つ心臓のせいで平静を得られず、自由になった口から大きく息を吐いた。
「付いてきて」
宵待はそう言うと、部屋から出ていった。
本当は宵待が部屋を出たのを見計らって、バリケードを築き侵入不可能の砦を自室に形成することも考えたのだが、彼女に俺を害するつもりがない事は、その行動から分かっていた。だから、素直に彼女に従って、俺は階下へと降りた。
紗那絵と談笑していたテーブルにかけた宵待に習って、その対面に俺は座った。
宵待は相変わらずの仏頂面だったが、その目からはこれまでのように鬼気迫るものはすっかり消え失せていた。
先ほどの突然の行為に肝を冷やしていた俺だったが、部屋を出て冷静さを取り戻すと、驚愕の感情は次第に怒りに変わっていた。
宵待の様子の変わりようを見て、宵待が常々俺を凝視していた理由は、今の行為のためにあったのではないかと勘繰ったからだ。
「宵待、お前何をした?」
俺は、できるだけ感情を押し込めて、宵待を問いただした。
「何も。あなたやあなたの家族の経済、身体、精神に害を及ぼすことは一つとして」
「質問を変える。何がしたかったんだ」
俺はその含意に、今回のことだけでなく、これまでのすべての宵待による行為を意図した。
「わざわざ夜這いするために、母さんを懐柔したのか」
俺は、その声がおよそ同年代の女子にかける言葉ではないほどの冷徹さを帯びていることを自覚していた。
彼女の意図が、俺への接近で会ったのだとしたら。
酔っ払って歩いていた飾利に付け入り、さも偶然を装って介抱しながら自宅まで送り届け、飾利の善意にかこつけて我が家へと侵入する。
飾利だけでなく、紗那絵をも懐柔して、俺の部屋の隣に待機する。
そして、俺が寝たのを見計らって、俺の部屋へと侵入する。
俺が何をされようと、それは俺の責任をもって俺の感情が処理をする。しかし、そのために母親が、妹が、宵待にとって都合のいい手段として道具のように扱われたのは、はっきり言って気に入らない。
彼女たちの善意を食い物にしたこの女が、気に食わない。
やはり俺は、俺だけでも悪者になるべきだった。宵待を知っている俺だけが、あの場で反旗を翻すことが出来たのに。
俺は、宵待への警戒を怠った自分を、強く後悔した。
「そうよ。でもあなたのせいでもある」
「は?」
宵待の瞳は、しっかりと俺の目と交錯した。その瞳が、勢いを増して燃焼する炎のように、僅かに揺らいだ。
「あなたが、図書室のベランダで、素直に私の話に応じていればこんなことをせずに済んだ。あなたが、私の言いつけ通りに理科準備室に来ていれば、こんな回りくどいことをしなくてもよかった」
その時、初めて宵待深月は自分から、目を伏せた。
「……あなたと話をしたかっただけなの」
「意味が分からない。何がしたかったのか、と聞いた。余計な質問を繰り返させるな。その本意は行為ではなく、宵待の目的は何だったのか、聞いている」
頭は冷え切っている。言葉はその冷え切った頭から押し出され、氷の礫のように口を衝いて出た。
俺はなぜ、これほどまで苛立っているのか。母さんや紗那絵のためだけじゃない。それは奸計を看過できなかったことへの俺自身への苛立ちと失望であり。そして他ならぬ、信頼が裏切りという行為をもって返報されることに対する、予てからの憎悪だった。
「それは……たぶん話しても分からない」
「話にならん」
俺は席を立った。
「謝る気が無いなら首を垂れるな。話す気が無いのなら口を開かず、今すぐこの家を出ていけ。そして金輪際、話しかけるな」
夜中だとかどうとか、知ったことではない。礼を欠く行いに、返す礼など存在しないのだ。
依然として、宵待は目を伏せたまま口元を固く結び、テーブルを見つめていた。
「聞こえなかったか?話すつもりが無いなら帰れと言ったんだ」
俺はゆっくりと、語気を強めて同じ言葉を繰り返した。
びくりと肩を震わせた宵待は、席を立つと俺の前を通って、玄関へ向かった。
寝間着姿のままローファーを履いた宵待の姿は異質だった。それでも、俺の中に彼女への同情は微塵も存在しなかった。
宵待は、玄関扉のドアノブに手をかけると、こちらをおずおずと振り向いた。
「ごめんなさい。迷惑をかけて」
伏し目がちな彼女の表情は、今まで見たどのような彼女よりも弱弱しく、日頃その目に宿っている強固な意志は霧消していた。
俺は、その謝罪に無言をもって答えた。
迷惑とやらが許されるとすれば、それ相応の納得できる理由が伴っていなければならない。今、その理由は披露されておらず、したがって俺はその迷惑を許容できる寛容さを、持ち合わせなかった。
だから俺はただ、黙って彼女の姿を見ていた。
宵待は扉を開け、僅かな街頭に照らされた深夜の闇の中へ、溶け込むように遠ざかっていった。
そして彼女は。
翌日、姿を消した。
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