#4

「父さんも心配してると思うから、早く帰ってあげなよ」

 ゆみに急かされるようにして、山奥へ帰ることにした。まりとしてはもう少しゆっくりしていってもよかったのだけれど。かぐが夫を探してきゅうきゅう鳴くので仕方ない。娘というのは男親に甘いんだから、母としては少し面白くない。

 帰り支度をして、お包みを巻いたかぐの姿に、ゆみは「かわいい、かわいい」となかなか離れない。かぐも娘を誘うようにくうくう切ない声を出している。「また絶対会いに行くからね」なんて言っているが、これで本当に田舎まで足を向けるようになるなら、この小さな犬は大したものだ。

 帰りも駕籠を使った。慣れない環境にくたびれたのか、かぐはすうすう寝息を立てている。

 駕籠に揺られながら、まりはそっと胸に手を当てる。

 その懐には一通の手紙を忍ばせている。団子屋から出たところで、使者からそっと渡された。――宮様からの御文だ。いまだ私のことを覚えてくださっていたことが有難い。

 結婚前、まりがまだ十代の頃だ。仕事で御所に出入りしていた時に、目を掛けていただいた。書物が繋いでくれたご縁だ。読書家の宮様は漢籍から歌集、類聚まで何でもお読みになった。当然専門的な内容については博士達が詳しい相談相手になる。けれど、読本や戯作まで読み込んでいるものは多くなかった。また、殿上人が堂々と庶民の読物を愉しんでいると公言できる時代でもなかった。ひょんなきっかけで知己となった。まりは読むのも速く、宮様は面白がり、多くの書物を貸してくださった。お蔭でまりは、通常では目を通すことのできない程たくさんの書物を娘時代に読む僥倖に恵まれた。使者を介しての手紙のやりとりがほとんどだったが、趣味の合う者と感想を述べ合うのは非常に楽しく、まりが薦めた本の感想を戴いた時などはひとしおだった。宮様の手紙はいつも良い匂いがして流麗な筆跡で、まりは自らの悪筆を恥じた。いつか子を生した時には書を習わせようと決めたのだった。

 当時の宮様のお手紙は結婚の折に全部燃やしてしまった。やましい関係があったわけではない。宮様が庶民の書物を読んでいると、万一手紙から露見してお立場を危うくするようなことがあってはならない。少女は真剣にそう考えたのだ。よもや三十年足らずで御所の人々が堂々と戯作をお読みになるようになるとは想像もしなかった。世の中は変わるものだ。

 宮様はまりより一つ年若だったから、今年五十になるはずだ。まりが今更追いつかぬくらいたくさんの書物をお読みになったろうか。それとも、政治に忙しくてそのような暇もないだろうか。

「月の巡りとともに、星の数ほどの物語が生み出される。その中で、後の世まで語り継がれるものはいくらあるだろうか。ああ、すべての星を手にできればよいのに」

 そう書かれた麗しい筆跡は今でも鮮明に思い出される。

 当時に比べて、物語の書き手も増えた。その分、一度発行されたきりで姿を消していく物語も多い。この世のすべての物語を享受するくらい十分な時間が欲しいと思うけれど、月日は百代の過客にして容赦なく巡っていく。隣に眠る小さき命も、数年の儚いものだと思うといっそう愛おしい。

 数十年ぶりというのに、都に戻った時機にわざわざ手紙を託してくださるとは、お耳が早い。いまだに気に掛けてくださっていたのだろうか。ちらりと覗いた宮様の筆跡は当時と変わらず麗しい。まりは、読まずにその手紙を畳み直して懐に戻した。

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