#3

 家出の当ては一箇所しかない。都に一人暮らしする娘の長屋を目指した。

 さすがに歩いて行くわけにもいかず、途中で駕籠に乗ったが、おくるみを巻いたかぐをちらりと一瞥した人足は「ヤヤ子ですかい」と、あまり揺れぬように道を行ってくれた。

 商家に嫁いだ娘のは、数ヶ月前婚家と離縁したらしい。手紙で事後報告で知らされた。まったく誰に似たのだか。本来なら実家に出戻るところだが、如何せん山奥に引っ込んでしまっていたため、娘は都で一人暮らしている。娘から顔を見せに来ることもなく、こちらから伺う機会もなかった。これだから田舎暮らしは嫌だったんだ。そっと嘆息したまりの頬を、かぐが濡れた鼻でつんと突いた。

 ゆみの家は大路から少し外れた長屋の一軒で、お世辞にも広いとはいえないが、存外きれいに整頓されており、女一人で住まうには十分だ。

「嫁ぐ前はあんなに部屋を散らかしていたのにねえ」

 娘の散らかす部屋をせっせと片付けていたのが懐かしい。「別れた時にほとんど何も持たずに婚家を出てきたし、女一人で何かあった時のためになるべく物を増やさないようにしているからね」一丁前のことを言って、ゆみがふふんと鼻を鳴らす。

 かぐは、ゆみに手毬を投げさせては咥えて戻りまた投げさせてを繰り返している。人見知りする子なのに、こんなにすぐ懐くなんて、やはり血縁を感じるのかしら。まりは不思議な思いでふたりの娘を眺めた。

「ふたりとも家の中で遊ぶのはおよしなさいな。そんな騒いで、隣近所から文句付けられても知らないよ」

「大丈夫、大丈夫。ここは年寄りが多いから、誰も気にしないよ」

 まりの心配をよそに、ゆみが悪びれずにまた手毬を放る。確かに、まりも年齢を重ねて少し耳が遠くなった。それに、この都では平素より町の声が賑やかだから、犬一匹くらい紛れ込んでも平気なのかもしれない。

 ゆみの着物はかぐと遊んでいることを差引いても着崩れている。頭も、せっかく髪結いがあるのに、解けたのを自分で結い直したのであろう、ぴんぴんとあほ毛が立っている。今長旅を終えたばかりのまりの方が着物の袷せもしっかりしている。

「あんた、もっと身なりに気を遣った方がいいんじゃないの」

「今忙しいからねえ」

 母の心配をよそに娘は暢気なもんだ。

「忙しいったって……」

 そういえば、この子は何を生業にしているのだろう。昔から料理も裁縫も苦手だし、愛嬌があるわけでもない。縁談がまとまったのも奇跡だと思っていたのだ。

 狭い部屋には小さい文机があり、脇に紙の束が積んである。

「代書屋をしてる」とゆみが言う。なるほど、まりも合点した。生家の近所には書家が住んでおり、ゆみは幼い頃から読み書きを習いに行った。嫁ぐまで長らくまめに顔を出していて、親馬鹿ながら娘はまあまあ良い字を書くと思う。それに、ここは年寄りが多いという。年寄りの平民では読み書きが出来ない者も多いから、なかなか重宝される仕事かもしれない。娘がなんとかやっていっていると知り、まず一安心だ。遊び疲れたかぐはゆみの膝の上で丸くなっている。ゆみの方でも着物に毛が付こうがお構いなしで、膝の上の小さな頭を撫でている。

「ところであんた、好い相手はいないのかい」

「ははっ。いない、いない。言ったじゃない、ここは年寄りばかりだし、私も家からほとんど出ないもの。なあんにもないわよ」

 それより母さんこそ、田舎暮らしはどうなの。と、軽くいなされる。けれど、まりの方でも山中では愚痴を聞いてくれる相手がおらず、溜まっていたのだ。ここぞとばかりに、不満を並べ立てる。ゆみが買ってきてくれた大判焼きを頬張る。あんこが美味しい。山中じゃあこんな甘いものさえままならない。食べ物のにおいに目を覚ましたかぐがくんくんと愛らしい視線を向けておねだりする。まりとゆみから一欠片ずつ貰って満足そうにしている。

「山中では新刊の読本も手に入らないからずっと同じ本を繰返し読んでいるんだから」

 一番の不満を述べると、「そうだ、これ母さんに」と娘が行李からごそごそと何やら取り出す。十冊程の読本を目の前に並べられて、まりは興奮した。田舎へ越す前に読んでいた戯作の続き物。昔手に入れたかったけれど、版元が潰れて手に入らなかった一冊。贔屓の作者の新作……。

「これ、どうしたの」

 若い娘っ子みたいに瞳を輝かせるまりに、ゆみは微笑んだ。

「母さんが喜ぶかなと思って」

「けど、これとかこれとか、なかなか手に入らないでしょうに」

「知り合いから貰ったり、長屋のご隠居が亡くなった際に譲ってもらったりしたのよ」

 へーえ。まりは早くもぱらぱらと紙を繰っている。

「全部は持って帰れないだろうから、あとから飛脚で送るわ」

 とはいえ、ちゃんと届くか信用できないし、何冊かは手荷物で持って帰ろう。それともここにいる間にいったん全部読み切ってしまおうか。そんなまりの興奮を知ってか知らずか、ゆみがさらに一言くれた。

「母さん、せっかくだし町をぶらぶらしてきたら。かぐのことなら私が見てるし」

 かぐは長い胴を器用に丸めてゆみの膝に収まっている。言葉に甘えて、まりは町に出ることにした。

 どうせ送ってもらうのだからと、読本屋で何冊か新刊を購入し、昔馴染みに顔を出す。茶屋で一服して団子を頬張る。軒から見上げる空は抜けるように青い。

 ふと先程ゆみに掛けた言葉を思い出す。「好い相手はいないのか」なんて、年寄り染みたことを言ってしまった。「男の児はまだか」とせっつく姑の顔が浮かんだ。分かってる、悪気はない。ただ、我が子が心配なだけなのだ。「ゆみ」という名は、良い夫婦を築けるようにと付けた。矢と弓でひとつがい。けれど、あの子は弓というよりむしろ矢のように育ってしまったな。

 けれど、一人でもなんとかやっているようで安心した。入手困難な読本を譲ってくれる知り合いもいるようだし、親も知らぬ一面をしっかり持っているのねえ。それとも、私のために無理してわざわざ手に入れてくれたのかしら。いずれにせよ都に来てゆみの様子を見られてよかった。

 大路を往く人々は忙しない。これならかぐを連れて歩いても誰も気に留めないかしら。いやいや油断は禁物ね。田舎の方がのんびりと書物を読み進められそうだ、先程買ったばかりの本を閉じてまりは床几から腰を上げた。

 と、ゆみの長屋へ足を向けるまりの元へ、一つの影が忍び寄る。

 帰路、ゆみの嫁ぎ先の店の前を通ると、元亭主の隣には若い娘が睦まじく寄添っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る