#2

「――仔犬?」

 まりが頓狂な声を上げると、夫はうふふと笑う。その腕の中で、小さき生き物がきゅるんとつぶらな瞳をまりに向けた。

 うっ。

 いや、これは犬ではない。神の御使いだ。こんなに愛らしいなんて。

「この犬、竹藪で拾ってきた」

 夫が言う。

「母犬が捜しているんじゃないですか」

「いや、おれもそう思って半日様子を見ていたんだが、仔犬がきゅんきゅん鳴いても親は現れなかったよ。日も暮れて獣や野禽に襲われでもしたら可哀相なので連れてきた」

「はあ、そうですか」

 まりは淡白な返事をしたけれど、内心興奮していた。可愛いものと美味しいものには目がないのだ。

 夫は竹細工で犬の寝床となる籠を用意し、まりは煮立てて柔らかくした汁物を出してやった。

 床の上に下ろされた仔犬は、ろくに椀に口も付けず、部屋の隅に蹲っている。夜、籠の中に手拭いを掛けて寝床を作ってやった。夫婦が部屋を引上げて寝静まると、途端に「くーん、くーん」と切ない鳴き声が響く。あまり畜生を甘やかすのもよくないと放っておくと、いつまでも鳴いている。うるさいので抱き上げると大人しくなる。仕方がないので布団に入れてやると、体をぴたりとひっつけてようやくすうすう眠りに就いた。仔犬の体はとても温かく、まりは久々にぐっすりと眠った。

 翌日は、仔犬は家中をとことこ探検して回った。狭い隙間にも鼻をつっこんであちこちくんくんとにおいを嗅いでいる。その様子から仔犬は「や」と名付けられた。

 生活は一変した。

 毎日仔犬の世話でてんやわんや。好奇心旺盛でどこにでも鼻をつっこむものだから、おちおち目も離せない。夫婦とも家にいる時間が増えたし、話題には事欠かない。余計なことを悶々と考える暇もなくなった。ようやく娘も巣立ち一息ついたとこだったのに、今度は仔犬の世話なんて、困ったもんだ。

 口ではそう言いながらも、明らかに夫婦二人きりだった時よりも充実している。私は誰かの世話を焼いているのが天分なのかもしれない。不本意だけれどと、まりは苦笑混じりに嘆息した。

 三月みつき程で、掌に収まるくらい小さかった仔犬はすっかり大きくなった。

「けれど、この子は本当に犬なのかしら」

「うーん」

 夫婦は揃って首を傾げた。

 成長とともに、かぐはにょきにょきと胴が長くなった。少し鼻先が長くて、胴長短足。未だかつてこのような姿の「犬」は見たことがなかった。けれど、その鳴き声も、振舞いも、食べる物も、やはり犬には違いないようだ。

 心配した夫が旅僧に相談すると、「むむ、これは龍神の御使いに違いなかろう」と仰られた。夫婦はいっそう犬を愛でた。お転婆なかぐの愛らしい姿に、目を細めた。毎日撫でられて、その体は艶やかな毛並みに光っていた。

 ある日、見知らぬ男が家を訪ねてきた。

「その珍しき犬を譲ってほしい」

 男は、都の豪商の使いだと名乗った。山奥育ちのかぐは立派な人見知りに成長し、来客中ずっと庭先でわんわん吠えていた。

「この子はうちの大事な家族ですから」

 食い扶持に困っているわけでもなし、当然断った。

 けれど、次から次から。かぐを所望する声はあとを絶たない。先の旅僧が都ででも吹聴したのやもしれぬ。大店、豪農、町役人、お武家……。物騒な連中もいるものだから、かぐは家の中に上げることにした。仔犬の時分以来の室内に、しっぽを振って喜ぶ。夫婦の後をとことこついて回る。寄り添って寝る。安心しきって眠る背中をそっと撫でてやる。柔らかくて温かい。こんな愛らしい子を手放しようもない、まりはかぐを抱くようにして眠った。

「なあ。立派な家で飼われた方が、毎日上手い飯を食わせてもらえるだろうし、この子も幸せなのではないか」

 ある日、夫が言った。

 さる御大臣から「犬を譲れば、十分な金子と、都での安定した生活を約束する」と消息が来たのだ。

「何を馬鹿なことを!」

 まりは夫の提案を一蹴したものの、久々に腹の虫が収まらない。まったくあの人は、自ら田舎に引っ込んだくせに、まあだ都に未練があるのか。

 翌朝になっても怒りは収まらず、まりはかぐを連れて家を出た。

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