白雲は月まで昇りて

香久山 ゆみ

#1

 ――はぁ。

 は溜息を吐いて、手元の本を投げ出した。退屈である。

 この山里に越してきてようやく半年が過ぎたところだが、早くも限界だ。

 ある日突然、夫が仕事を辞めて田舎暮らしをしたいとのたまった。それまで数十年も夫の宮仕えの俸給でそれなり安定した生活をしていたというのに。夫が切り出した時、確かにまりも「そうですか。今まで頑張ってこられましたものね」とかなんとか返事をした。けれど、だって、あの時すでに夫は退官の手続きをすっかり済ませてしまっていたのだ。今更何を言ったって仕方ないではないか。

 田舎での住まいは、広いだけが取り柄の茅屋だ。

 なーんにもすることがない。都会であれこれと毎日忙しくしていたのが嘘のように、なんにも。見渡す限りの山野で、お隣の家まで山一つ越えねばならぬ有様。いい齢してこんな山の中に暮らし始めて、頼りになる近所付合いもなく、ましてや医者の当てさえあらず、まりはただただ不安しかない。

 一体なんのためにわざわざこんな辺境暮らしを決めたのか。夫は何か新しい生業を始めるでもなく、毎朝早くからいそいそ山に入っていく。山中でひとり焚き火を熾こして、鹿肉を焼いたり、昼寝したり一日空を眺めたり、集めた木の枝や竹で細工をしたりと、満喫しているようだ。日も暮れてからのたり帰ってきて、薪やら柴やら役に立つんだか立たないんだか分からぬようなくだらない土産を差し出すのが、いっそう癇に障る。礼も言わずにむすっと黙って受け取るが、そんな自分にまた嫌気がさす。

 二人だけの生活なのに、会話もない。はじめのうちは夫も山での出来事を嬉々として語っていた気もするが、愛想ない妻に辟易したのか、最近は口数も少ない。

 市街に住んでいた頃はこんなじゃなかったのに。

 いや、あの頃は娘も一緒に暮らしていた。賑やかな都会暮らしでは夫婦二人きりの時間などそもそもほとんどなかった。

 夫は家族の糧のために仕事に精を出し家を空けることも屡々しばしばだった。その間、まりは細々と家を守った。甘ったれの一人娘はいつまでも手が掛かったし、娘が長じてからも寂しいと感じる暇などなかった。都会は様々なもので溢れているから。家の中にモノを増やしては、整理して、また増やして。氾濫する情報を飢えたように貪って。稽古事もしたし、立寄るべき先も多かった。

 まりは何かに追い立てられるように空隙を埋めた。

 夫婦は男の子に恵まれなかった。姑からは男児の誕生を何度となく催促された。夫は口には出さないものの、息子を望んでいるであろうことを端々から感じた。

 だから、仕事の帰りが遅い時などは浮気を疑った。ある日突然よそで生ませた子を連れ帰ってきたらどうしよう。そう考えると気が気ではなく、つい短気を起こして幼い娘に当たってしまうこともあった。

 それでも、娘の嫁入りとともに、ようやく諦観の境地に至り、これからは心穏やかに暮らそうと決意した途端に、振って湧いた田舎暮らしである。

 都会で生まれ育ったまりは山里の生活に少しも魅力は感じなかったが、それでも子も巣立ち、夫婦水入らずでやり直すにはちょうどよい機会かもしれないと思わないでもなかった。なのに、夫はひとり山中に遊び、帰ってこない。

 趣味の読書をのんびり愉しんでいたのもはじめのうちだけで、この深い山里では新しい書物も手に入らず、街から持ってきた行李いっぱいの書物を読み返すのにも飽きてしまった。

 小さなずれが、今や大きな隔たりとなって立ちはだかっている。まるで目の前を流れる川のようだ、と思う。

 一人きりの広い家もなぜだか窮屈で、いつの頃からか森へ出てぼんやりと川の流れを眺めるようになった。さらさらとかたちのない水はただ目の前を通り過ぎてゆく。私は、こんな場所で生涯を終えるのだろうか。誰からも必要とされず、独りぼっちで。嫁に出た娘はいっこう顔を見せにも来ない。都暮らしであればまた違ったであろうか、と思うにつけて夫が妬ましい。結局いまの自分には何があるのだろうか、何もない。何者にもなれず、この世に何も残せないまま。こんな場所で満足そうに過ごしている夫がまるで理解できない。都に残した後悔ばかりが募る。私も働きに出ていればよかった、手に職を付けておくべきだった、娘時代には皆から歌の才能を褒められたりもしたものだった、本当に夫と結婚して間違いじゃなかったのだろうか。そんなどうしようもないことばかり考えて溜息を吐く。淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例しなし。私は。もうとうに人生の折り返しを過ぎ、いつ幕が下ろされてもおかしくない。いいのか、このままここで消えてしまって。

 振り返れば、生活のあちこちに不満が見え隠れする。今や、夫の些細な行動が憎らしくて仕方ない。私が洗濯するのが当然だとばかりに平気で洗濯物を汚してくるところ、食事中にチッチッと舌を鳴らすところ、寸足らずの下着、枕のにおい、能天気な笑顔。

 川面に映った自分の影。ずいぶんひどい顔をしている。あの人もよくもまあこんな婆さんと一緒にいるもんだ。泣けてくる。娘時代に愛嬌があって可愛いといわれた相貌はどこへ消えてしまったのか。なんでこんな面になるまで放っておいたのだろう。自分を大事にできず、夫も幸せにできず。なんにもなりゃしない。

 さらさらとゆく川の流れは都へ続いているのだろうか。

 今からだって。せめて自分自身を大切にすることくらいできるのじゃないか。いや、してやらなくちゃ。でなきゃこの世に生を享けた甲斐がない。よし、都へ出て、ひとり生き直してみよう。

 ――なんてね。

 読本の主人公ならきっとそうするだろう。けれど、自分はそうではない。

 まりは、立ち上がってうんと背伸びをした。洗い終えた洗濯物を持って帰路に着く。この山里で、夫の浮気の心配をせずに済むようになっただけでもましだと思うしかない。

 よっこいしょと夕飯の支度をしようとした頃合いに夫が帰ってきた。いつもより早いお帰りだ。なにやら玄関でこそこそとして、なかなか上がってこない。どうしたのかと見に行くと、夫の腕には小さな赤子が抱かれていた。

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