姉ちゃんとのある日常⑥(弟視点)


「お花を買ってきたよ」


姉ちゃんが少し大きめのビニール袋を携えて家に帰ってきた。一輪の菊と一輪挿しの花瓶が袋の中から少しだけ顔を出している。


「何で急に花?」


ソファに座って今日学校でもらった進路票に目を通しながら俺は聞いた。


「部屋にお花が飾ってあったら少しだけ毎日が明るくなるかなって」


「……そっか」


前向きなのか後ろ向きなのかよくわからない発言に俺は何も言えなくなった。姉ちゃんは着ていたベージュのカーディガンをソファの背もたれに掛け、まっすぐキッチンに向かった。花瓶に水を入れて、ソファの前に来て、菊を挿した花瓶をテーブルに置いた。肘をついてじっくり味わうように眺めたあと、


「ユウタ、私たちの家にお花があるよ」


と言ってにっこりする。


「うん。なんか新鮮だね」


と返事してしばらく黄色い菊を観察した。


「花屋ってさ、他にも花あるよね?なんで菊にしたの?ちょっと地味じゃない?」


「うん。そこがいいなって思ったの。見ていて落ち着くでしょ?他の花は主張が強くて選ぶ気にならなかったんだよね」


俺の座っている位置から一人分スペースを開けて姉ちゃんがソファに座った。ほんの少しだけ、石鹸の優しい香りがこちらに漂ってくる。姉ちゃんが使っているシャンプーの匂いだ。


「なんか、姉ちゃんって感じ」


それ褒めてる?と姉ちゃんが笑いながら聞いてくるので、褒めてるよと素直に返した。だって菊の花からは確かに見ていて安心する不思議な力を感じたから。ちょっと姉ちゃんみたいだと思ったのだ。



気を取り直して、俺は持っていた進路票をテーブルに置いて進路について考える。


「進路希望調査?」


「うん」


「そっか。ユウタももうそんな時期か」


そう言って姉ちゃんは天井を見上げる。


「進学にするのは決まってるんだけど、どの大学を目指そうか悩んでたところ」


「どこか行きたいところはないの?」


んー、と俺が腕を組んでいると、


「いっそ、東京の大学とか行っちゃうのもありかもね。東京ってなんか楽しそうだし」


と姉ちゃんが言った。


「でも、東京は遠いし、今のところは地元で考えてるけど」


「え!そうなの?ユウタ頭いいのに……。もったいないなあ」


姉ちゃんが眉を下げる。その表情に少しだけもやっとした。


「姉ちゃんは、俺に東京に行ってほしい?」


「……私はユウタに幸せになってほしいかな」


姉ちゃんがとてもきれいに微笑む。じっと見つめていたら、目をそらされた。


「それは提出期限いつなの?」


「えっと、10月7日だったかな」


「じゃあまだ二週間くらい余裕があるんだ。ゆっくり考えなよ」


そう言って姉ちゃんは俺の頭を撫でようとする。けれど、頭の近くまで手を伸ばして、すぐに引っ込めてしまった。


「……それよりもゲームやらない?」


何か誤魔化すように姉ちゃんが言った。


「……うん。やる」


俺はテレビ台へ手を伸ばして、置かれているゲーム機を手に取った。



 理由はわからないが、最近姉ちゃんに距離を取られている。前まであんなにしていたキスをしなくなったし、ソファに一緒に座る時も俺の隣を避けて少し離れたところに座るし、目もあまり合わせてくれない。明らかに体が触れる回数も減った。普通の兄妹の距離感に戻ったと言えなくもないのだが、俺は少し寂しさを感じていた。


 ゲームをしながら、頭の片隅で進路について考える。別に遠くの大学に行ってまでやりたいことなんて俺にはなかった。それよりも、このアパートの近くの大学に通って高校を卒業した後も姉ちゃんと暮らしたい。それが俺の本音だった。けれど、その考えは姉ちゃんには迷惑なのかもしれない。これから高校を卒業して、大学に入って、大学も卒業して、就職して、社会人になって。その過程で、俺と姉ちゃんの関係はどうなっていくんだろう。少しずつ接点が減っていって、そのうち赤の他人のようになってしまうのだろうか。そう思うと、きゅっと胸が切なくなった。

 

 俺の操作していたキャラが敵に集中砲火を受けて死んだ。


「ユウタ?大丈夫?」


気持ちが沈んでいるのが態度に出ていたのか、姉ちゃんは心配そうに聞いてきた。


「ごめん。今日はちょっとゲームする気分じゃないかも」


「具合悪いの?」


「ううん。そういうことじゃない」


「そっか……。ならいいんだけど」


俺はゲーム機の電源を消してテレビ台の上に戻した。


「今日は先に寝る。ごめんね」


「う、うん。別にいいよ。ユウタ、具合悪いときはちゃんと言ってね。嘘ついちゃだめだからね」


「わかった。ありがとう。姉ちゃん」


具合が悪くないことを証明するために、姉ちゃんに笑顔を向けてから自分の部屋に入った。



4

 その夜、ベッドの中で辛抱強く目を閉じていたのになかなか寝付けなかった。意識を失うまでの間、頭は勝手にいろいろなことを考えた。姉ちゃんが少し素っ気ないこととか、姉ちゃんといつか離れ離れになることとか。夏が終わり、だんだんと夜の気温は下がってきているはずなのに、横になっていると汗が出てきた。そのうちにうなされながらもなんとか眠りにつくことができたが、目覚まし時計のアラームが鳴る二時間も前に目が覚めてしまった。しょうがないので起き上がり、キッチンで水を飲んだ。寝不足のぼんやりした頭で思ったことは、姉ちゃんがこのまま素っ気ないのは嫌だ、頑張って俺から歩み寄ろう、というものだった。



5

 二度寝する気にならなかったので、テレビをつけてソファに座りながら朝のニュース番組を見ていた。テレビ画面ではニュースキャスターが今日の天気予報を読み上げている。どうやら今日は朝から雨が降るらしい。窓をみると確かに厚い雲が空を覆っていた。


 30分後、姉ちゃんが部屋から出てきた。眠そうに手櫛で寝癖を梳かしながらリビングにやってくる。キッチンまで来て、俺がソファに座っていることに気付き、うわあ、と声を上げた。


「お、おはよう。今日は起きるの早いね」


と姉ちゃんが言う。時計は6時半を差している。いつも決まった時間に起きるから気付かなかったけど、姉ちゃんはこんな早くに起きていたんだ、と俺は少し驚いた。多分弁当を作るために早起きをしているんだろう。仕事もあるのに大変だろうな、と思う。


「……偶然、目が覚めちゃって。よかったら姉ちゃんの弁当作り手伝わせてくれない?」


「え、キッチン狭いし。一人でやった方が楽だから、気を使わなくて大丈夫だよ」


「じゃあ、作り終わったあとの後片付けは俺がやってもいい?」


「……う、うん。それじゃ、やってもらおうかな」


と姉ちゃんが少し複雑そうな顔でうなづいた。よし、と俺は思った。姉ちゃんがどうして俺と距離を取っているのか、原因はわからなかったが、こんな感じに姉ちゃんのことを思いやっていればそのうち元どおりになるかもしれない。この調子で頑張ろうと俺は思った。



6

皿洗いが終わると、俺と姉ちゃんは久しぶりに一緒の朝食を取っていた。


「姉ちゃん、最近仕事はどう?辛くなったりしてない?」


焼いたトーストにバターを塗りながら聞いた。


「うん。最近は普通だよ。職場の人たちも優しくしてくれるし」


チクリと胸がうずいた。姉ちゃんの仕事がうまくいっているのはいいことのはずなのに、どうしてか良いと思えなかった。言葉に詰まって「そっか」とだけ返事をする。


「ユウタは最近どう?学校は楽しい?」


「……楽しいよ。なんだかんだ友達に恵まれてると思うし」


俺はアツヤやシュウジを頭に思い浮かべて言った。こんなにノリの悪い俺を受け入れてくれる人間なんてそうそういない。アツヤとシュウジがクラスにいることは俺にとってかなり運がいいことだろう。


「そっか。それなら良かった」


そう言うと姉ちゃんは立ち上がった。いつの間にか焼いたトーストを姉ちゃんはすべて平らげていた。


「先に洗面台使わせてもらうよ」


姉ちゃんが洗面台に向かって歩いていく。


「うん。わかった」


俺も急いでトーストを食べた。



7

朝の支度を終えいつも通り玄関の扉を開けようとする。


「ユウタ。弁当忘れてる」


姉ちゃんが弁当を入れた巾着袋を持って、くせっ毛の髪を揺らしながら走ってくる。


「ああ、ごめん」


寝不足のせいでぼーっとしていて、弁当の存在をすっかり忘れていた。姉ちゃんから弁当を受け取ろうと手を伸ばす。


「……あ」


俺の手と姉ちゃんの手が触れそうになって、姉ちゃんが反射的に手を引っ込めた。弁当がバランスを崩して俺の手から滑り落ちる。ドン、という鈍い音が響いた。


「ご、ごめん」


と言いながらも姉ちゃんは一歩引き下がる。俺は冷静に、何も感じていないような素振りで床に落ちた弁当を拾ってカバンに入れた。内心はかなり傷ついていた。少し手が触れそうになっただけでなんでこんなに拒絶されなければいけないんだろう、と思った。前まで姉ちゃんの方からべたべたくっついてきていたのに。姉ちゃんは勝手だ。むくむくと心の中に怒りが湧き上がってきたが、それを姉ちゃんに悟られないように俺はニコッと笑った。


「それじゃ、いってきます」


玄関の扉を開ける。


「いってらっしゃい」


姉ちゃんが手を振る姿が見ながら、俺は玄関を出た。


 学校へ向かう途中、ぽつぽつと雨が降ってきた。折り畳み傘を差したが、結構大降りだったのでズボンの裾が徐々に濡れていった。そのせいか、登校中はずっと寒気がした。



8

夜の10時。家で姉ちゃんの帰りを待っていると、


「たらいま~」


と言ってふらふらのふにゃふにゃな状態で姉ちゃんが帰ってきた。靴を脱ぐなりすぐ玄関に横になってしまう。


「ちょ、ちょっと姉ちゃんどうしたの?」


と言いながら姉ちゃんのそばへ慌てて向かう。顔はそこまで赤くないが、吐く息が酒臭い。


「お酒のんできた~。えっへっへっへっ」


陽気な声で返答された。


「え!誰と?」


反射的に質問していた。


「ひとりで」


「……なんだ」


俺はひとまず安堵する。ん?なんで安堵してるんだ?と一瞬疑問に思ったが、すぐに考えるのをやめた。そんなことよりもまず姉ちゃんの介抱をしなくちゃいけない。姉ちゃんのカーディガンの裾を引っ張る。


「姉ちゃん。とりあえずベッドで横になろう?ここだと風邪ひくよ?」


「え~。いいよ。ここで」


動きたくありません、と言わんばかりに姉ちゃんはうずくまった。しょうがないので俺は姉ちゃんを運ぶことにした。姉ちゃんの両膝の裏と腰辺りに手をまわして、渾身の力を込める。思った以上にあっさりと体が持ち上がり拍子抜けした。こんなに軽かったのか、と思いながらお姫様抱っこで姉ちゃんを部屋まで運ぶ。ベッドにゆっくり降ろしたところで、はあーと深いため息を吐いた。ベッドの側を背もたれにして床に座って少し休憩する。少し落ち着いたところで俺は疑問に思った。姉ちゃんが外で飲んできたのは多分、今日が初めてだ。しかもこんなに酔っ払うまで飲むことは今まで一度もなかった。何かあったんだろうか。


「う、うう。気持ち悪い。頭痛い」


姉ちゃんのうめくような声が聞こえてきて、思考を中断する。


「大丈夫?」


立ち上がって、姉ちゃんの様子を見る。顔が青ざめていて、呼吸が少し荒い。悪い夢にうなされている子供のようだった。見るに見かねて、おそるおそる頭に触れてみた。姉ちゃんが嫌がらないので、そのまま頭を撫でてみると、次第にうめき声が小さくなっていった。


「ユウタの手、気持ちいい」


姉ちゃんが気持ちよさそうに目を細めて言う。その姿が子供のようでかわいらしく、俺はにやけてしまう。


キス、したい。


不意にそんな考えが頭をよぎった。今なら受け入れてくれるかもしれない。それにこれだけ酔っているなら、キスしてもきれいさっぱり忘れてくれそうな気もする。姉ちゃんだっていつも一方的に俺にキスをしていたんだから、一回ぐらい俺が身勝手にキスをしたって許されるんじゃないか。頭の中でたくさんの理由をつけて、俺はゆっくり姉ちゃんに顔を近づけていく。しかし、あと少しでキスができる、という距離まで近づくと、姉ちゃんが俺の口に手の平を置いて押し返してきた。


「だめだよ。ユウタ」


「だめ、なの?」


「うん。だって私、ユウタとキスしないって決めてるし」


姉ちゃんはニコニコしながら言った。


「……なんで?」


無意識に不機嫌な声が出た。酔っているからどうせちゃんとした回答なんて返ってこないんだろうと思っていたが、意外にも姉ちゃんはちゃんと考える素振りをしてから、話し始めた。


「えっとね、それはユウタが……」


俺は身を乗り出して次の言葉を待った。


「その……、えーっと、あのー、うーんと……」


けれど、姉ちゃんの声は明確の言葉を出さずにどんどん萎んでいって、最終的に無言になった。俺はがっくりと首を下ろした。まあ、しょうがないかと思って立ち上がる。きっとそのうち眠り始めるだろうと思い部屋を出て行こうとした時だった。ぐすっと湿っぽい音が姉ちゃんの方から聞こえた。それが姉ちゃんの鼻をすする音だと少し間を置いて気がついた。姉ちゃんは泣いていたのだ。


「え、なんで?どうしたの?大丈夫?」


俺はしゃがんで、また姉ちゃんの顔を見る。なんとなく背中をさすってあげると、姉ちゃんはうずくまって、うえーんうえーんと子供のように泣き始めた。その泣き方があまりに激しいので、俺は狼狽して、何度も大丈夫?どこか痛いの?と聞いた。答えなんて返ってくるはずもないのに何度も何度も聞いた。気付いたら俺は、言葉をかけることも背中をさすることもできなくなっていた。なぜか俺もつられて泣いていたからだ。姉ちゃんが泣いているのを見続けていたら、よくわからないけど悲しくなった。悲しくて悲しくてしょうがなかった。


泣くだけ泣いて、泣きつかれると、姉ちゃんは眠ってしまった。眠っている姉ちゃんを見届けて、俺も自分の部屋に戻って眠った。



9

 うなされて、目覚まし時計が鳴る1時間前に目が覚めた。昨日よりさらに頭がぼーっとするが、二度寝する気にはならず、起きることにした。部屋を出るとキッチンに姉ちゃんがいた。


「おはよう。今日も早いね」


と姉ちゃんが言う。


「姉ちゃんこそよく起きれたね。おはよう」


あいさつを返して、キッチンに向かう。今日も姉ちゃんは弁当を作っている。けれど、弁当箱は一つしかない。ついに俺の分の弁当は作ってくれなくなったのだろうか。


「……今日は弁当一つなんだね」


「うん。だって今日は有給取ってるし」


「え?」


状況が飲めず変な声が出る。


「じゃあこの弁当は……」


「ユウタの分だよ」


「……そっか。なんか悪いね。せっかくの休みなのに」


「いいよ。ユウタの弁当作るの好きだから」


不思議だな、と思う。弁当を作るのってすごい手間がかかりそうなのに、それが好きだなんて。でも俺は嬉しくて笑ってしまう。


「ありがとね。姉ちゃん」


と言うと、姉ちゃんが気持ちよさそうに、


「うん」


と答えた。



10

「ねえ、昨日の記憶があんまりないんだけど、私変なことしてなかった?」


一緒に朝ご飯を食べていると姉ちゃんが不安そうに聞いてきた。


「変なこと……か」


トーストにバターを塗る手を止めて考える。昨日のあれは変なことに入るだろうか。ちょっと迷いつつ、


「玄関に入ったなりすぐに横になっちゃったから、俺がベッドまで運んだけど」


と言った。


「姉ちゃんはどこから記憶がないの?」


「玄関を開けたところから。……そっか。それで私いつの間にかベッドで寝てたんだ。納得」


「うん」


キスしようとしたことや、姉ちゃんが泣いていたことは秘密にしてトーストをかじった。姉ちゃんも納得しているようでそれ以上は聞いてこなかった。



11

 姉ちゃんがトースト2枚を平らげて、洗面所に向かう。その時にはっと顔を上げてこちらに振り返った。


「ユウタ、弁当はそこに置いておいたからね。忘れないでね」


と念押しされる。


「……わかった」


と返事すると姉ちゃんは洗面所に入っていった。



12

朝の支度が済んで靴を履いて玄関に立つ。


「弁当は持った?忘れ物はしてない?」


と姉ちゃんが小さく首を傾げて聞いてくる。最近姉ちゃんは俺に触れてこない分、よく世話を焼くようになった気がする。


「大丈夫。ありがとう。じゃあ」


と言って俺が手をあげると、姉ちゃんは眉尻を下げて悲しそうにする。その顔を見ていたら、どうしてか、昨日姉ちゃんが泣いていたときの映像が頭の中で再生された。


「……姉ちゃん」


「どうしたの?」


「悩んでいることがあったら、何でも言ってね」


姉ちゃんが困ったように笑った。


「うん。そうする。ありがとう。ユウタ」


「うん。じゃあ、いってきます」


「いってらっしゃい」


お互いに手を振りあって、俺は玄関を出た。



13

 朝の陽射しがいつもより眩しく感じてくらくらしたのは、寝不足だからだろうか。俺はあくびをしながらうつらうつらと歩く。歩きながら姉ちゃんが子供のように泣いていた姿を思い出す。姉ちゃんが、また何か悩んでいる。もしかしたら、今回の悩みの原因は俺なのかもしれない。俺と距離を取っているのも実は俺が悪いのかもしれない。姉ちゃんは俺の何が嫌なんだろう。俺は一体何をしてしまったんだろう。答えはわからず、学校に着くまでの間ぐるぐると何度もそんなことを考えてはため息を吐いた。



14

「おお、ユウタ。ちょうどいいところに来たな」


昼休み、し忘れていた古文の宿題を提出しに職員室に入ると、英語の先生にそう言われた。


「この前、みんなに提出してもらった英語のノート、返しといてくれないか?」


先生が指を差した先に40人分のノートが積まれている。あからさまに俺は嫌な顔をした。すると先生は両手を合わせて


「お願いだ。俺、腰が痛くて重いもの持てないんだよぉ」


と懇願してきた。俺は断ることができなかった。



15

 渋々40冊のノートを持って職員室を出る。万全の状態ならなんてことないのだが、寝不足の今は40冊のノートは体に少し堪えた。ああ、運が悪いなあと思いながら人気の少ない職員室前の廊下を歩いていく。すると、


「ユウタ君?何してるの?」


と聞き覚えのある声に話しかけられた。


「見ての通り、先生に雑用を任されたところ。ハギワラさんは何してるの?」


目の前にいたハギワラさんは、冷めた目で窓の方を向き


「ひとりで昼ご飯を食べて、教室に戻るところ」


と言った。


「どうせだから手伝うわ。半分よこして」


ハギワラさんは俺の抱えているノートを半分持とうとする。ちょうど一人じゃきついと思っていたところなので、遠慮せずにハギワラさんに持ってもらうことにした。


「顔、死人みたいに青ざめてるわよ。具合悪いんじゃないの?」


ノートを半分持つとハギワラさんは言った。


「ああ、ちょっと寝不足なだけだよ」


と答えると、へえ、と興味深そうに相槌を打たれた。


「眠れないような嫌なことがあったの?」


「……いや、別に」


ハギワラさんに話すのが嫌で、俺は嘘をついた。ハギワラさんは以前に何の前触れもなく俺にキスをしてきたことがある。彼女自身は妹のことが好きなのにだ。正直何を考えているのかよくわからなくて、信頼できなかった。


「……この前の話だけどさ、ハギワラさんは結局なんで俺にキスしてきたの?」


話題を変えようと思い、考えていたことをそのまま口に出した。


「あら、まだわからないの?」


淡々とハギワラさんが言う。


「……わかるわけないじゃん」


「……そう」


俺の少し前を歩いていたかと思うと、彼女は急に振り返った。


「ただ単純にイライラしただけよ」


「イライラ?」


「そうよ。だって私より恵まれた環境にいるのに悠長なことばかり言っていたから。だから、自覚させて苦しめたかったの」


「自覚させるって何を?」


「ユウタ君。お姉さんが好きでしょ?恋愛的な意味で」


またその話か、と俺は思った。けれど今日は頭が上手く働いていないせいか、この前のように否定の言葉が出てこなかった。


「そう……なのかな……」


と言って力無くうつむく。


「私とキスしたときどんな気持ちだった?」


「なんか、すごい嫌だった」


「不思議ね。これでも私、この学校で一位二位を争う美女なんだけど」


何のためらいもなく、平然と彼女が言う。


「嫌だったのは、お姉さん以外の人とキスをしたくなかったからでしょう?それって家族愛かしら?」


「……」


ハギワラさんの話を聞いていると目の前が少しぼやけてきた。体が熱い。少し、息苦しい。どうして体がこうなるんだろう。姉ちゃんが好き、という言葉に動揺しているんだろうか。


「俺、最近おかしいんだ」


ぼんやりした頭で言葉を探す。


「姉ちゃんはいつも通り優しいのに、ちょっと拒絶されただけですごく辛くなるんだ。こんな風になるのも姉ちゃんに恋愛感情を持っているからなのかな。……でも、それはどうでもいいよ。今はそれどころじゃないんだ」


頭がふらふらする。呼吸が、荒くなる。


「姉ちゃんに嫌われてるかもしれない。姉ちゃんにだけは嫌われたくないのに。嫌われてたら、俺……どうしよう……」


床と天井がぐにゃりと歪む。床が傾いて、左半身に衝撃が走った。


「え?ちょ、ちょっと!」


ハギワラさんの声が聞こえてくる。ノートが散らばっている。いつの間にか俺は倒れていた。目が回って気持ちが悪い。ゆっくりと俺は目を閉じた。



16

 ……誰かが俺を抱えている。俺が重たいからか、抱えている人からは「うー」と辛そうな声が漏れている。その人からは優しい石鹸の匂いがした。ずっと嗅いでいたいような、落ち着く匂いだ。柔らかい何かの上に乗せられて、直感でそれがベッドであることを察した。その人が疲れたように「ふー」と息を吐いて、ベッドの端に顔を預けたのがわかった。そこで休んでいるのかもしれない。

目を開けて、天井を見上げる。


「あれ……」


頭に痛みを感じながらも、何とか上体を起こして周りを見る。俺は自分の部屋のベッドにいた。倒れてからのことはよく思い出せないが、多分、気を失っている間に、俺は早退させられたのだろう。

ベッドの横にいた姉ちゃんが俺が動いたことに気が付いて顔を上げた。


「ユウタ、目が覚めたの?」


と聞かれる。


「うん」


と言う間もなく、姉ちゃんは抱きついてきた。


「私、言ったよね?具合悪いときはちゃんと言えって。なんで黙ってたの?隠さないでよ」


「か、隠してたわけじゃ……」


と俺は弁解した。実際、倒れるくらい具合が悪かったなんて自分でも気づかなかったのだ。だって、それ以外にもっと考えなきゃいけないことがあったから。俺は姉ちゃんの両肩に手を置いた。


「ねえ、そういう姉ちゃんは、俺に何か隠してない?」


「……え?」


顔を離して姉ちゃんが俺を見た。大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。……なんとなく、言うなら今しかないような気がした。俺はごくりと唾をのむ。


「……何で姉ちゃんは、俺にキスしてくれなくなったの?」


「……」


「俺のせいなの?俺が何かしちゃったの?」


「……」


姉ちゃんは何も言ってくれなかった。


「……俺のこと、嫌いになっちゃった?」


そこまで言って、自分の目に涙が溜まっていくのがわかった。泣かないために目を閉じようとしたのに、涙は押し出されて出ていってしまった。一粒、二粒、結局俺は泣いていた。


「お、俺、何でもするよ。本当に何でも。嫌いなところがあるなら言ってよ。直すから。姉ちゃんのためならいくらでも自分を変えられるよ。だから嫌いにならないでよ」


洗いざらい吐いて自己嫌悪に陥りそうになっていると、姉ちゃんは俺の右手を優しく握った。


「ユウタ、こっち向いて」


そう言うと、姉ちゃんは俺にキスをした。息が続く限りずっと唇をくっつけあって、顔を離すとぎゅっと俺を優しく抱きしめた。


「バカだな。私がユウタのことを嫌いになるわけないでしょ?」


と姉ちゃんが耳元でささやく。グスっと鼻をすする音が聞こえる。姉ちゃんはまた泣いているようだった。


「ねえ、ユウタ」


姉ちゃんの抱きしめる手にぎゅっと力がこもる。


「お願い。もう学校に行かないで」


消え入りそうな声で姉ちゃんはそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る