第5話 立て、勇者よ
1
オーランドと第二騎士団、それに何人かの神官を城の守りに残し、それ以外は街へ出て魔物と応戦せよと命令が下った。
慌ただしく出ていく騎士たちに混ざり、イトリの三人も城外へと駆け出す。
「いいんすか」
ウォレスがちらりと見た先は、街ではなく、特別牢へ続く道。
「今じゃない」
躊躇いもなくそう言って、ミルバは更に走る速度を上げる。二人の部下もそれ以上何も言わずに後ろをついてきた。
街は逃げ惑う人々で溢れていた。城へ避難をと騎士が必死に呼びかけているが、パニックを起こして指示が届いていない。城へ逃げる者、とにかく走る者、どこかの建物へ入ろうとする者と、バラバラに逃げ惑っている。横を馬に乗った騎士たちが走り抜け、それが更に動線を無秩序にしていた。
これは誰かがしっかりと統制をとらないと、そのうち市民同士で事故が起こってしまう。だがそれは名声のないイトリでは力になれない。
ミルバたちは逃げ惑う人々とすれ違いながら門の方へと走っていく。門は数か所あるが、まずは被害が多そうな正門へと急いだ。外に近づけば近づくほど、悲鳴と叫び声、それに血の匂いが強くなる。ミルバが生きた三十九年間で、コナルガルフがこれほどの危機に瀕したのは初めてだった。眉根をしかめつつ剣を抜き、大通りに繋がる角を曲がる。
血溜まりが広がっていた。何人もの罪なき市民が地面に横たわり、その顔を歪め苦痛に声を上げている。
狼に似た魔物以外にも見たこともない魔物が数多、街中を跋扈していた。人よりも大きい二足歩行のトカゲ、動く骸、腕が鳥の羽と一体化している女、人の形をした土塊。それらが人を襲い、建物を壊し、火を吐き、突風を起こし、蹂躙の限りを尽くしている。騎士は少なく見ても一個団は丸々いそうな数だというのに、魔物に押されろくな連携もとれていなかった。
凄惨な光景に、ミルバはその場に立ち尽くし言葉を失った。動きを止めてしまったミルバというマトへ、人の胴体ほどもある蜂が羽音を響かせ襲い掛かる。だがその強大な針がミルバに突き刺さることはなく、蜂はウォレスによって横一直線に真っ二つになっていた。
ミルバは舌打ち一つ、一瞬でも戦場から意識を逸らしたことを恥じる。そうだ、絶望している暇などない。一人でも多くの人を救い、一体でも多くの魔物を倒さなければ。
絶望に止まりかけた足を無理矢理鼓舞して動かす。震える手で剣を強く握りしめる。恐怖にわななく唇を引き締め言葉を捻りだす。
「ウォレス、アーク。……死ぬなよ」
「隊長こそ」
「ウォレス」
こんな状況下でもウォレスはへらへらと失礼な軽口を叩き、アークレナはいつものじっとりとした目で幼馴染の頭を叩いた。それにはミルバも思わず笑ってしまう。事実ついさっき死にかけたのだから、まったく笑えない冗談だ。
続けざまに襲い来る三体の狼に似た魔物を、三人はそれぞれ切り伏せて前へ進む。ウォレスを先頭に、三人が付かず離れずの距離感を保つ。魔物の数が多いのなら、一番避けたい状況は挟み込まれることだ。三人で周囲を警戒しつつ進めば、少なくとも三方向はカバーできる。
だがミルバはその塊から一歩飛び出した。視界の先でカラスのような魔物と戦っている騎士がいたからだ。足を怪我したのか尻餅をつき、それでも剣を振って魔物と対峙しているが、動きが制限されればそれだけ不利になる。ミルバは一気に距離を詰めると、魔物を後ろから袈裟切りに切り捨てた。どちゃりと魔物が羽を広げて落下し、安堵の表情を浮かべた騎士を視線が合う。彼には見覚えがあった。第三騎士団だ。
「立てるか?」
手を差し出せば、ミルバに引っ張られながら騎士は何とか立ち上がった。ウォレスとアークレナも小走りでそばまで来る。
「すみません、助かりました」
「怪我が酷いなら一度下がれ。アーク、付き添ってやれ」
「いえ、一人で大丈夫です。それより、団長の加勢をお願いします」
団長とは勿論、ゼンのことだ。あの男は後衛で指示を出すタイプではない。誰よりも先陣を切って進むタイプだ。そしてここでも、最前線で戦っているらしい。
団長を頼みます。騎士はミルバにそう願うと、怪我をした足を庇いつつ城の方へと下がっていった。
「行くぞ」
ミルバは足を進める。ゼンとは昨日の晩の食事以降、私的な話はしてない。あいつは騎士団長まで上り詰めるほどの男だ。そう安々とは死にはしない。自分に言い聞かせて、ミルバは先を急いだ。
迫る魔物を斬り伏せ、汚れた剣をローブで拭き、更に別の魔物を刺し、顔に飛び散った血を乱暴に擦り取る。
そうして進んだ先に、正門は見えてこなかった。跡形もなく無残に壊れていたからだ。あれでは到底魔物を防げるはずもなく、何人かの騎士が門のあった場所で奮闘しているが、その脇をすり抜け大量の魔物がなだれ込んでいた。
まさか、と思いミルバは魔物をせき止めている騎士たちの元へと走る。そこで先頭に立ち、騎士たちを鼓舞しながら戦っているのは見覚えのある男。
ゼンは正面から来る魔物を斬り、倒れた騎士に手を貸し、檄を飛ばし続けていた。全身が血と汚れに塗れているが、その様子だと重傷を負っていなさそうだ。
ふっとミルバが安堵に小さく息をつく。ゼンもミルバの存在に気づき、こちらを向いてほんの少しだけ表情を柔らかくした。その彼の奥。ゼンへ直進してくる狼に似た魔物が、咆哮と共に大きく顎を開いた。
「後ろだ!」
ミルバが大股に足を踏み出す。ゼンが振り向く。剣が魔物の胴体を突き刺す。だが同時に、魔物の牙は白銀の鎧ごとゼンの左腕を噛み砕いた。
ひゅっ、と吸い込み損ねた息が、ミルバの喉元で掠れた音を立てる。
「ゼンッ!」
魔物ともつれ合ったまま、ゼンは倒れるように座り込んだ。ミルバは脇目も振らずゼンに駆け寄ると、剣を捨て魔物の頭を掴む。上顎と下顎を持って口を開けさせ、ゼンの腕から外すと、息絶えた狼の体を放り投げる。
狼の頭がなくなったことで露わになったゼンの左腕は、無惨なものだった。左腕の鎧は砕け、インナーを着た腕が血塗れになっている。酷い箇所は骨すら見えており、そしてそれがおかしな方向へ曲がっているのも目視できた。
それでも、ゼンは生きている。昨日のことを話したかったが、今ではない。今は生きてくれているだけでいい。
ミルバはウォレスたちを呼び、ゼンの体を抱えて最前線から遠ざけた。ある程度安全なところまで下がれば、ウォレスたちはまた前線へと戻っていく。
「ッ、ぐ」
ゼンは痛みに顔をしかめ、青ざめた顔で冷や汗をかいている。ミルバは辺りを見回したが、治癒術が使える神官の姿は見えなかった。
次に探したのは第三騎士団の騎士。いくら利き腕でないとはいえ、この傷では満足に戦えない。誰か護衛をつけて一度下がらせるべきだ。
「誰かゼンを――」
その時、くんと腕がひかれる。振り向けば、ゼンが縋るような目でミルバを見ていた。
「大丈夫だ……まだ、私は、戦える」
「馬鹿言うな。無理に決まってるだろ」
息も絶え絶えに言われたところで、説得力は皆無だ。今もミルバたちの周りでは騎士が魔物と戦っている。熾烈を極め、一瞬動きが鈍るだけで致命傷になりかねない。この傷とて、ミルバの方を振り向いてなければ負っていなかった。
団長の負傷に気づいた騎士たちが何人か集まってくる。それでも、ゼンは歯を食いしばりながら剣を掴もうとする。
「ゼン団長!」
「ゼン。俺がもし同じ怪我を負ったら、お前何て言う?」
ゼンの動きが止まった。それが何よりの答えだ。
「後ろに下がって避難の指揮を執ってくれ。それは俺よりお前の方が向いている」
「……だが、私が……」
「ミルバ隊長、はっきり言ってやるといい。足手まといだと」
蹄の音と共に、頭上から聞こえた低い声。見上げた先にはヤシヴドが馬上からこちらを見下ろしていた。後ろから幾人もの第五騎士団の騎兵が続き、機動力で魔物を蹴散らしていく。ヤシヴドは馬から降りると、手綱を近くにいた第三騎士団の騎士に渡した。
「さっさとこの足手まといを連れていけ」
言葉は冷たくぶっきらぼうだったが、ゼンの体を案じての発言だということはこの場の誰もが分かっていた。ミルバとヤシヴド、共にただゼンが頷くのを待っている。二人の視線を受け、ゼンは青白い顔で薄く笑った。
「……きみたちは、こんな時ばかり、息が合うんだな」
ヤシヴドから譲り受けた馬が、ミルバと騎士を乗せて遠ざかっていく。ミルバは地面に捨てていた剣を拾い上げ、ヤシヴドを見上げた。
「息が合う、だとよ」
「無駄口を叩く暇があったら、黙って働いたらどうだ」
そう吐き捨てて、ヤシヴドは第五騎士団たちの方へと歩いていく。今度のは心配など一切ない、ただの暴言である。普段なら皮肉を返すところだが、確かにヤシヴドの言う通り今はそんな暇などない。
ミルバも前線へと戻り、苦戦していたアークレナへと加勢する。魔物を一体を切り捨てれば、アークレナが顔を伝う汗を拭いつつ呼吸を整えた。
「隊長、ゼン団長は?」
「後ろへ下がらせた。それよりこっちはどうなっている」
「駄目です、一向に数が減りません」
剣を振る腕も流石に疲労がたまってくる。ウォレスやアークレナのように若くはないのだ。それなりに鍛えているとはいえ、ここまで戦い続きだったことなどない。いや、それはウォレスたちも、ここにいる騎士たちもほとんどが経験していないことだ。
一体なぜ、これほどまでの数の魔物が急に攻め込んできたのか。疑問はあれど答えが出るはずもなく、ミルバに今出来るのは剣をふるうことだけだった。
そんな中、騎士たちにざわめきが広がる。遠くから悲鳴と叫び声に混ざり、鈍器を振るう鈍い音。ミルバはアークレナと顔を見合わせ、音の方へと走った。
ゆうに三メートルはありそうな、一つ目の巨人がそこにいた。成人男性ほどの大きな棍棒を片手で振り回し、騎士たちを思うがまま薙ぎ払っている。あんな魔物に街の中で暴れられるわけにはいかない。
アークレナに右から攻めろと手で指示を出し、ミルバは左へと走り出す。目が一つしかない分、逆に視野が測れないが、真反対からの攻撃を同時には防げないはずだ。
真正面から斬りかかった騎士が吹き飛ばされる。それを囮にして、アイコンタクトを取ったアークレナと左右から同時に斬りかかった。ミルバの一撃は巨人の左腕を切り飛ばし、アークレナの一撃は巨人の腹を抉る。いや駄目だ、致命傷ではない。
「退け!」
後ろへ飛んで巨人の棍棒を躱すが、右側にいたアークレナは避けきれずに胴体に掠ってしまう。直撃したわけではないというのに、アークレナの体が後方へと転がった。
「アーク!」
「うおらぁあっ!」
雄叫びは巨人の後ろから。壊れた建物を踏み台にしたウォレスが、巨人よりも高く飛ぶ。空中で剣を真横に振り抜けば、巨人の首が胴体から離れてぼとりと地面に落ちた。
緑の髪をたなびかせ、ウォレスは危うげなく着地する。顔についた血を拭い、ミルバへ笑みを見せる余裕すらあった。
「怪我はないすか、隊長」
「ああ」
「アークー! 生きてっかー!」
「……生きてるよ」
アークレナは咳込みながらよろよろと立ち上がる。肩を大きく上下させているが、そこまでの重症は負っていないようだ。世話が焼けるな、なんて様子でアークレナに駆け寄るウォレスが、急にバランスを崩した。なぜか。右太ももに太い矢が突き刺さったからだ。
「ぐあっ!」
痛みに顔をしかめふらつきつつも、ウォレスは矢が飛んできた方へ視線を向ける。覚束ない足取りでなんとか第二射をかわし、続けざまに射られた第三射はアークレナがウォレスを押す形で避けた。地面に転がった二人の前にミルバが体を滑り込ます。第四射をミルバが剣で弾けば、矢の雨は一度そこで止んだ。
「くそ、ってぇな……」
アークレナは無言で、ウォレスを遮蔽物のある場所まで引きずっていく。遠目に見ればアークレナの冷静な行動は普段通りに見えただろう。だが一番近くにいるウォレスは気づいている。幼馴染が不安げに強く眉間にしわを寄せていることも、反対に感情を抑え込むように唇をキュッと引き締めていることも。
「ばか、これぐらいで、死にゃしねえって……」
「黙ってろ」
部下が逃げていくのを背中で感じながら、ミルバは矢を打った相手を探す。大体の方角は分かったが、この間に移動している可能性もある。無理に進むよりも、ここで部下が逃げ切るまで囮になっているべきか。そんな思考は物理的な存在により中断された。
ぶん、と振り下ろされた斧を横に転がって避ける。先ほど倒した一つ目の巨人と同じような魔物がミルバに襲い掛かった。ただし、この巨人の武器は棍棒ではなく大斧である。もはや射手を探す余裕などない。
ミルバ一人でこの巨人を倒せないことはさっきの戦いで分かっている。不意をつくならともかく、こうして真正面から対峙してしまった時点で勝ち目は薄い。剣を構え、ミルバは巨人の出方を伺う。巨人はぎょろりと動かした一つ目でミルバを捉えると、またもや力任せに斧を振り下ろす。それを避け、ミルバはさりげなく部下たちのいる方から離れた。
防戦一方であるが、巨人の攻撃が酷く単調であることには気づけた。立ち回りを工夫すれば、あるいは。だがミルバの思考はまた物理的な衝撃により中断された。鋭く風を切る音と共に飛んできた、一本の矢によって。
ジッ、と摩擦で脛が熱くなり、直後に薄く削られた痛みが押し寄せる。ウォレスのように直撃したわけではなく、かすっただけだ。だがミルバの行動を一瞬妨げるには十分だった。
「ッ!」
斧を避け損ねて、咄嗟に剣でそれを受ける。しかし巨人とミルバでは何もかもが違い過ぎた。大斧は圧倒的な力と重さで容易く剣を砕き、ミルバの肩にずぶりとめり込んだ。ぐりっと引き抜かれれば右肩から血が吹き出し、先ほどの矢とは比べ物にならない熱さと痛みがミルバを襲う。
「ああぁ!」
視界が揺らぎ、足元がふらついた。傷口を手で押さえたところで、肩から溢れる血は止まらない。早鐘を打つ心臓、誰かの悲鳴、怒号、鳴き声に咆哮、足音に蹄の音、乱れた息と自分を呼ぶ声。一つ一つを上手く処理できず、混ざり合って頭の中でうるさく響く。
逃げなければ。剣はもう使い物にならず、ミルバには攻撃手段がない。縺れそうになる足を必死で動かそうとして、矢が左太ももの肉を深く抉っていく。
「ぁぐ……」
ミルバはついに膝をつく。見上げれば、巨人が大斧を振りかぶっていた。まっすぐ、自分の頭をかち割るために。
空気を切る鋭い音が頭上から聞こえる。ミルバは反射的に目を瞑った。
けれどいつまで経っても衝撃は襲ってこず、ミルバの頭が半分になることも胴体から離れることもなかった。代わりに聞こえたのは、金属が弾かれる鈍い音。
「ミルバさん!」
聞き覚えのある声に瞼を開ける。眼前に飛び込んできたのは、夕陽を浴びる黒いシルエット。それがあまりにも眩しくて、ミルバは一度開けた瞼を閉じかけてしまった。逆光の中、ゆっくりと目が慣れて細部が見えてくる。黒かったのは影になっていたからではない。彼の髪は元々真っ黒だ。
「全部思い出したんた。おれ、女神様に会ってたんだよ」
手には見覚えのない剣を持っていた。全体が錆びて赤茶色になっているが、鍔についた黒翡翠の宝玉だけが今も光り輝いている。目の前の男も、宝石に負けず劣らずの黒い瞳でまっすぐにこちらを見ていた。そして純粋無垢な笑みを浮かべて、声高に叫ぶのだ。
「ミルバさん。おれ、勇者だ!」
ショウの言葉は驚くほどすとんと腑に落ちた。今まで何度も彼の意味不明な言動に頭を悩ませてきた。その最上たる突拍子もなさだというのに、ミルバはその言葉を迷いなく受け入れた。
返転の儀式でニホンに帰れなかったのも、異常な幸運で牢屋から抜け出したのも、すべてはショウ・クボタが勇者だから。この世界で為すべきことを為せと、女神の意思が強く世界に干渉していたのだと。
痛む右肩も足も忘れ、ただショウを見上げていた。夕陽を全身に受けて煌めく姿は、おとぎ話の挿絵によく似ている。
「ショウ……?」
ようやく出た言葉は、ただ彼の名前を呼んだだけ。それでもショウは、黒い目を細めて嬉しそうに笑う。
「これでやっと、ミルバさんに恩を返せるね」
ショウはくるりと体を反転させた。剣をしっかりと握りしめ、魔物の群れへと歩いていく。よく見れば、一つ目の巨人はその場に倒れ込んでいた。倒したというのか。剣の持ち方すら知らなかったあのショウが。
力の抜けたミルバはぺたんと地面に座り込む。もう何が起こっているのか分からない。自分の名前を呼ばれている気がしたが、そちらを振り向く気力はなかった。
血を流しすぎて、頭がぼんやりとしてくる。だんだんと呼吸すら辛くなっていく。視界が歪み、そしてミルバの体はぐらりと大きく揺れた。
「ミルバ! 酷い傷じゃないか!」
ミルバの背中に当たったのは固い地面ではなく、誰かの手だった。鎧に包まれた大きな手が、ミルバの背中に優しく添えられる。うつろな瞳を動かせば、心配そうに覗き込むゼンがそこにいた。
「ゼン……? なんで、ここに」
「何でって、誰がここまで勇者様を道案内したと思ってるんだい?」
ミルバの右肩を柔らかな光が包む。肩の痛みが和らぎ、呼吸が楽になっていく。そのおかげで辺りを見る余裕も生まれた。さっきまでいなかったはずの、騎兵や神官たちが動き回っている。どうやらゼンは援軍を連れて戻ってきたらしい。噛み砕かれた左肩に鎧はなく、包帯の巻かれた腕が剝き出しになっている。
「すまないが、応急手当だけだ」
神官はミルバの傷をある程度塞ぐと、他の負傷者の方へと駆けていく。足の方はほとんど直っていないが、視界も頭もしっかりしてきたから今はこれで十分だ。
「隊長!」
どたばたとうるさい足音が二人分。ウォレスとアークレナは見たことがないほど焦った顔で、ミルバへ突っ込んできた。
「隊長が死にかけてどうすんすか!」
「貴方が仰ったんでしょう、死ぬなって!」
「わ、悪かったよ」
二人の勢いに圧され、ミルバはたじたじになりながら謝る。そんなに怒鳴らなくてもいいだろうと思いつつ、二人の気持ちが少しこそばゆくも感じた。そして誰からともなく、三人はショウの背中へと顔を向ける。
じっとりと浮かぶ額の汗を拭うことも忘れ、ショウを見つめていた。ショウの前には魔物の大群がいて、けれど一歩も引いていない。それどころか、一体一体確実に仕留めている。いや違う。あの魔物たちはすべて気絶しているだけだ。ショウは最初の巨人からずっと、魔物を一体たりとも殺していなかった。錆びて斬れない剣を鈍器のように使い、片っ端から気絶させていく。
到底ショウとは思えないあの身のこなしも、女神の加護か、あるいは伝説の剣に引っ張られているのか。
次から次へと剣を振るう勢いに、流石の魔物たちも無闇矢鱈に攻撃をしなくなった。じりじりと間合いを図る魔物へ、ショウは強く一歩を踏み出し、錆びた剣をまっすぐ向ける。多数の魔物と一人の勇者が睨み合い、我慢できなくなったのは一体の魔物だった。
鱗に覆われた二足歩行のトカゲが、太い刃を構えて突進してくる。ショウは逃げもせずにその刃を真正面から受け止め、そして力ではじき返した。バランスの崩れたトカゲに対して、ショウは更に一歩距離を詰める。前に出した軸足に体重を乗せ、魔物の懐めがけて剣を叩き込んだ。
たった一撃で崩れ落ちる魔物。ショウはちらりと下を見てから、また前を向いた。すらりと伸びた背中が、あまりにも頼もしく見える。
「……すごい、な」
そんなガキのような感想しか出てこない。後ろから羨望のまなざしを向けることしかできないのが口惜しく、けれどそれが自分とショウの正しい位置なのだとも思う。だって彼は、勇者なのだから。
魔物たちは一体、また一体と逃げ帰っていく。あるものはわき目も降らず、あるものは気絶した仲間を担ぎ。土煙を上げながら魔物たちは次々と撤退していく。やがてショウの前に残ったのは静かな夕焼け空だけだった。
ショウはくるりと振り返る。勇者誕生を祝福するように赤い夕陽が彼を照らし出す。この場にいる誰もが口を噤み、ショウを見つめていた。戦いの喧騒は消え失せ、数分前には考えられなかった静寂が満ちていた。
がしゃり、と白銀の鎧の擦れる音が静寂を破る。転生者嫌いのヤシヴドが、ショウへ向けて片膝を付き頭を垂れた。ふっと穏やかに笑ったゼンがそれに続く。がしゃ、がしゃと騎士たちが次々と片膝をつき、神官は両膝をついて両手を組んだ。
アークレナが黒のローブをさばき片膝をついた。ウォレスも同じく頭を垂れる。気が付けば最後に残されていたミルバも、足の痛みなど気にもせずに片膝をついた。ああそういえば、こうして騎士の作法で誰かに跪くのは随分と久しぶりだ。ミルバは頭を垂れた下で、うっすらと微笑んだ。
すぅ、とショウが息を吸い込む。
「おれの名前はショウ・クボタ。女神アリアミレスの導きのもと、この世界へ転生した勇者である」
力強く高らかに名乗りを上げたショウだが、実はそのあと照れたように笑ったことを、騎士たちは誰も知らなかった。
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