1.憧れ、≠ ?(2)

 だれもいない資料室。

 上司に「ついでに、」と、頼まれた他社の資料は、いちばん上の棚に鎮座している。


 あと、少し。


 限界まで伸ばした指先が、ファイルに触れる。

 うまく背表紙の縁に指を引っかけて、そのまま引き出そうと、した。

 しかし思いの外重たいそれが、私の手に収まることなく。バランスを崩して落ちてくる、かと、思った。


「あ、っぶな、」


 瞬間、そんな声とともに頭上でファイルを押し戻す音がした。

 それが、思ったよりも大きな音で。

 近いところで鳴ってしまったものだから、私の体がびくりと跳ねる。


 頬を平手打ちされたときに似ている、その音に。

 近くで聞こえた、男のひとの声に。

 無意識に、足の力が抜ける。


 こわい、


「だいじょうぶ、」


 座り込んでしまったまま見上げると、こちらを気にかける表情を浮かべる綿谷さんと目が合った。

 大丈夫? たぶん、そう私に訊きたかったのだろう彼は、大きく目を見開く。


「みなみちゃん!?」


 はじめは、どうして綿谷さんがそんなに驚いているのか理解できなかった。

 焦る綿谷さんを見ていて、自分の頬に涙が伝っていることに気がついた。


 …あ。


 やってしまった、と、思った。

 今さら、こんなことで。


「どっか痛い? ケガとか、」


 目の前でわかりやすくオロオロとする綿谷さんに、私は首を横に振る。


「だい、じょうぶ、です。」


 腰、抜けたまま立てないし。

 涙も止まらないけれど。


「ちょっと、…びっくりしただけ、なので、」


 それでも、こんなところ綿谷さんに見られていることの方が嫌だった。

 はやく、いなくなってほしかった。


 なのに。


「ちょっと待ってて。」


 そう言った綿谷さんは、全力ダッシュで資料室を出て行く。

 私が呆気に取られていると、彼は数分後に再び全力ダッシュで資料室に駆け込んできた。


 片手には、私の好きなカフェオレ。


「少し落ち着いた?」


 ちょっとだけ距離をとって、綿谷さんは私の隣に腰を下ろす。

 幸いにも他の棚で死角になって、資料室の外からこの場所は見えない。

 涙も、これ以上は出てこなそうだ。


「ごめんね、びっくりさせて。」


 そう言いながら、綿谷さんは買ってきたばかりのカフェオレを私に差し出してくる。


「…いえ、私こそ、」


 缶を受け取りながら、私は応えた。

 おそらく、いちばんびっくりしているのは綿谷さんだと思う。


 膝を抱えたままカフェオレの缶を手で弄びつつ、ちらりと隣にいる綿谷さんを見遣った。

 …いつまでいるんだろう。


「あのさ、」

「…あの、」


 もう大丈夫ですよ。

 そう言って、綿谷さんには仕事に戻ってもらうつもりだったのに。

 ほぼ同時に口を開いた綿谷さんと、言葉がかぶる。


 きょとんとした表情でこちらを見た綿谷さんが、ふわりとした笑顔を浮かべたあと私に続きを促した。


「…いえ、先どうぞ、」


 なにか用事があるなら聞いてしまおうと冷静になった頭で考えて、私は発言を隣の彼に譲る。

 大したことじゃないんだけど、と、綿谷さんはひとつ前置きをして話しはじめる。


「仕事終わってから、空いてる?」

「え、」

「ごはん、食べ行こ。」

「な、んで…、」


 急に、は、びっくりしすぎて声にならなかった。

 と、いうか。空いてる、とか、私は返事をしていない。

 …いや、予定はないのだけれど。


「泣かせちゃったお詫び。奢るよ。」

「いえ…、ほんとに、大丈夫…、」

「…嫌?」

「…う、…え、と…、」


 そう言われると、嫌、な、わけじゃない。

 けれど、私と行ったって綿谷さんは絶対に楽しくない。


 そんなことを思って、答えに詰まる。


 …ああ、でも、お詫びだから。

 べつに綿谷さんは、楽しさを求めているわけじゃないのか。


「…少しだけ、なら。」


 それで綿谷さんの気が、済むなら。


 そこまでしてもらわなくても、わざわざ買ってきてくれたカフェオレだけで充分だった。

 こんな風に、綿谷さんと少しでも話せただけで充分だった。


 …なのに。


「やった。」


 って、綿谷さんが嬉しそうに笑うから。


 私の頭の中は、すっかりクエスチョンマークでいっぱいだった。

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