stage5 大浴場

 昇降機エレベーターのゴンドラに乗り込んでドアを閉めたジェーンは、最上階を目指してハンドルを回し始める。

 次第にゴンドラと釣り合いを取っている重りが落ちて、ゴンドラが持ち上がっていく。徐々にその速度は上がっていき、まもなく最上階に到着・・・・・・と、ジェーンが思ったのもつかの間、ハンドルがどんどんと重くなっていき、ついに動かなくなってしまった。


「止まっちゃったわね」


 ドアの上部の階層表示を見るに、まだ最上階まで距離があるというのに、うんともすんとも言わない昇降機に業を煮やし、ジェーンはゴンドラから下りることにした。

 ゴンドラのドアを開いた瞬間、外部から流れ込んできたのは卵っぽい臭いが混じった熱気だった。


「うっ! ここは・・・・・・お風呂、かしら」


 そう、そこは時計塔内に設置された大浴場だった。これも時計塔へやってくる周辺住民へ開放された施設である。

 おそるおそる足を踏み出したジェーンは、驚き半分、知的好奇心半分で辺りを見る。伯爵令嬢のジェーンはこういった公衆浴場を見るのははじめてのことだった。それにしても、この熱気はなんということだろう。


「こんなに暑くてよくのぼせないわね。私はもっと温いほうが好きだけど」


 デカパイに溜まった汗が深い谷間に流れ落ちて、ぼろ切れになりかかっているドレスに染みを残す。

 足を踏み入れると、浴場と脱衣場の仕切の先から声が響いてくる。


「いやぁ、先に一風呂貰っちゃって、王子に悪いね」

「バカ言うんじゃあないよ。王子がこんな場末の風呂場に来るわけないだろ」

「そんなことはないさ。俺の友達が言うには、王子はしょっちゅう下町の風呂場にやってきて、風呂に入ったり、カード賭博に参加したりしてるってさ」

「へぇ、気安い方だね」

「その王子が一仕事するから手伝ってくれというんだから、こっちも身が入るってものよ」


 返す返すも、いったいどこからそんなものが出てくるのかと思うくらい、ウルフ王子の人望は計り知れないものがある。

 ジェーンは体を反らせて堂々と浴場側へ足を踏み入れた。出し抜けに現れた、デカパイ美人(ただし何故だかボロいドレスを着ている)に浴場で湯船に使ったり頭や体を洗っていた男たちは大騒ぎになった。


「うわあ! なんだあんた!?」

「落ち着きなさい。あと、そのを隠しなさい!」

「なんだと、急に入ってきて物色とは失礼な女だ!」

「そうだそうだ!」

「出て行け!」


 ばしゃばしゃと湯を叩いて抗議するほとんど裸の男たちの勢いに、じりじりと後ずさりするジェーン。ボロのドレスの薄布が塗れて肌がうっすらと透けるのを隠しながら、彼女は反駁した。


「用が済んだらさっさと出て行くわよ! さっきまで昇降機に乗っていたんだけど、この階で止まってしまったのよ。どうしてだか分かる人はいない?」

「あんたそりゃ、上の階で操作してる奴が止めたのさ」


 湯船に首まで使っている赤ら顔の男が答えた。


「ここの昇降機は細かい操作を人力でやってるからな。操作室の奴が止めたんだろう」

「まったく、ひどいことだわ。これから最上階に逃げた王子を追いかけなきゃ行けないのに」

「なにっ! 王子を追いかけるだと!?」


「ええ、そうよ」ジェーンは堂々と答えた。盛り上がったものがぷるぷると震えた。


「あっ! もしかしてあんた、王子が捕まえておいたジェーンて女か!」

「なにっ、ジェーン!? マクレーン伯爵令嬢の!?」

「胸のでかくて生意気な、あの!?」

「お転婆が過ぎてすぐ物を壊すことで有名な!?」

「うるさいわね! 狭いお風呂で大きな声で話さないでよ」


 浴場によく響く男たちの声にジェーンは悲鳴を上げた。


「そうと知っちゃこのままにしておけねぇ! 王子のところに行かせるわけにはいかないからな!」


 ざばぁ、と一斉に浴槽に使っていた男たちが立ち上がった。ご丁寧に、下半身には手ぬぐいがしっかり巻かれていた。


「王子と違っては隠させて貰ったぜ。これで文句はあるめぇよ」

「バカね、ウルフ王子とはまだそんな仲じゃないわ」

「えっ? そうなの?」

「そうよ。ま、まだ、キ、キス、しか、許してないわ」


 そっぽを向いて、顔を真っ赤にしてジェーンは答えた。血の気が浴場の蒸気で湿った肌に上っている。


「意外とウブなお嬢さんだな」

「王子もすげぇな、このデカパイを前にしてキスだけで済ませてるのか」


 感心する男たちの、気が抜けた顔を前に、ジェーンははっと、部屋の隅に向かって走った。

 そこには浴場の床を磨くためのモップがひっかけてあったのだ。すかさずそれを掴み取り、ぐいっと前に構える。


「これ以上近づくと泣くほど辛いことになるわよ!」

「はっ! 泣くのはそっちだ。やっちまえー!」


 

「ふん。口ほどにもないわね」

「ぎぇー! く、くそ、まちやがれ!」


 男たちが、股間を押さえてぴょんぴょん跳ねながら追いかけてくるのを悠々振り切って、ジェーンは浴場の向こう側にあった戸口にたどり着いた。

 戸口を開くと、その先は一転して真っ暗で、僅かな非常灯の赤黒い光だけが転々と灯っている。


「お、おまえ、そっちはボイラー室だ! 危ないから近づくんじゃねぇ!」


 ぴょんぴょん跳ねる手下たちが追いついてきて、ジェーンの背後からボイラー室に入ってきたのを見て、ジェーンはどんどん奥へと踏み込んだ。


「ちょうどいいわ。きっとこっちから別の出入り口があって、最上階へ出られる道がある気がするわ」


 逃げるジェーンを追いかけて手下たちもどんどんボイラー室の奥へ奥へと踏み込んでいった。細い通路のあちらこちらから太いパイプが伸びており、ハンドルが取り付けられていた。

 それらパイプのすべてが繋がっている巨大な金属の固まりの前にたどり着いた時、ジェーンは自分の考えが間違っていることに気付いた。ボイラー室は行き止まりで、壁一面を埋める機械がごんごんと唸っている。


「追いついたぜ。さぁ袋の鼠よ、大人しく捕まってしまえや」


 暗い部屋の乏しい光の中に見える、手ぬぐい一丁姿の手下たちの怪しさといったらない。


「冗談ではないわ!」


 ジェーンのモップが唸りをあげて手下たちの足を払った。続く動きでモップの先は、部屋の左右から延びるパイプにくっついているハンドルを打った。


「ぎぇー! なにを!?」


 手を伸ばそうとする男たちを追い散らしながら、ジェーンはなんどもハンドルを叩く。すると、バキン、と小気味いい音を立ててハンドルの軸が折れ飛ぶ。瞬間、ハンドルのねじが飛んでパイプの穴から高圧蒸気が光線のように吹き出て、足を払われて転がっていた手下たちを襲う。


「ぎぇー!」


 のたうち回る手下たちを後目に、ジェーンは次々にパイプを叩く。叩く度に、どこかの留め金が飛び、ハンドルやバルブが外れ、あちらこちらから蒸気が飛び出す。


「ぎぇー! やめてくれー!」

「てぬぐい一丁じゃまずい! 服を取りに行くぞ!」


 方々の体で男たちがボイラー室から逃げていく。ジェーンはつかの間の勝利に満足したものの、はたと気づいた。


「いけないわ。ボイラーの栓を閉めなきゃ私も出られないわね。えーっと・・・・・・」


 やおらジェーンはボイラータンクに取り付けられたボタンやバルブ、ハンドルに手を出したものの、どれをどう動かせばいいか見当もつかなかった。とはいえ、なにもしないなどという選択はジェーンの頭にはない。行動あるのみである。


 というわけで、思いつくままにボイラーを操作する。ハンドルを目一杯に動かし、ボタンを軽やかに乱打し、バルブを締める。


 その途端、ボイラータンクの正面に並ぶメーターが一斉に振り切れ、パイプの継ぎ目から蒸気が吹き出し、金属が歪む気持ち悪い音が辺りに響いた。熱気のただ中にあってジェーンの胸元を冷や汗が流れた。


「あら、間違っちゃった?」


 そう思った次の瞬間、ジェーンは一目散に逃げた。そして、それが幸いに、彼女の危機を救うことになった。

 ボイラータンクは無茶な運転を強いられたことで限界を越え、轟音とともに爆発した。辺り一帯に超高温の蒸気の奔流が津波のように広がって、壁を、床を、天井を貫通破壊し、その先にいた者たちをも巻き込んで、時計塔クロックタワーの一角を襲った。


「ぎぇー!」

「ぎぇー!」

「ぎぇー!」


 服を着てジェーンを捕まえに戻ろうとした矢先のことで、手下たちはまったく無防備にこれらを浴び、そして、吹き飛んでいった。


 大惨事の後、辺りはしんと静まり返り、奥で稼働している昇降機の、鎖を巻き上げる音ばかりが聞こえる。そんな残骸の園から、むくりと起きあがった陰があった。


 ジェーンである。さしものジェーンもボイラー爆発の衝撃でつかのま気を失い、その場に倒れていたのだ。幸いにも床に突っ伏していたおかげで怪我らしい怪我もない。


 ただし、その身に纏っていたドレスは完全にその機能を失っていた。肩のほつれを払おうと動かした瞬間、ぷっつりと縫い目が切れて、僅かに残っていた布地が宙を舞った。


 後に残るのは、伯爵令嬢にふさわしいランジェリー姿である。スパイダーシルクでできたカップに包まれたデカパイは白くむっちりと自己主張しており、細いくびれの下で同じ生地で縫製されたショーツで乙女の操はしっかりガードされている。肉感がありながら太すぎない太股から下はやはりスパイダーシルクのストッキングで覆われていた。


 だが、その首から上に目を転ずれば、爆破で巻き上がった煤で顔が汚れ、熱波に撫でられた髪は毛先がちりちりに巻き上がっている。

 ただ静かに、ジェーンの血の気が胸元にうっすら浮かぶ血管から上に上っていった。血の巡りのよくなった頭皮に引っ張られて髪が左右に広がる。見る人が身れば、古代の鬼女か何かかと思うかもしれない。


 そんな威容を発散しながら、ジェーンはぐるりと辺りをみた。残骸で埋められ、見えているのは柱と壁ばかりだが、一カ所、壁に人の通れるくらいの大穴が開いていた。


「必ず、必ず王子にお仕置きしてやるわ。亡くなったドレスの為にもね」


 努めて冷静に、自分に言い聞かせるように言うと、ジェーンはその大穴を通った。

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