梅林止渇

 年が明け、季節は瞬く間に過ぎて行った。


 建安二年西暦一九七年四月某日。


 司空府にて、政務を行っていた曹操の下に急報が齎された。


「なにっ、張繍が劉表の援助を受けて宛県に攻め込んで来ただとっ」


「はっ。宛県は陥落。張繍はその地にて軍備を増強しているとの事です」


 部下の報告を聞いた曹操よりも、家臣達の方が驚いていた。


「これは一大事ですぞ。殿」


「張繍は、劉表の力を借りて我等とまた戦をするつもりですぞ」


「如何なさいますか。殿っ」


 家臣達が思い思いに話す中、曹操は深く息を吐いた。


「……方針を述べる前に、皆に一言言おう。以前宛県にて私は張繍に敗れた」


 曹操がそう述べるのを聞いた家臣達はざわつき始めた。


「殿。負けたと言うのは些か自嘲し過ぎでは? 奇襲を受けて、多くの兵を失いまいたが、南陽郡の北部を手中に治める事が出来たのですから」


 その時に従軍した夏候惇がそう言うが、曹操は首を振る。


「領地こそは手に入れたが、私の油断で可愛い甥を失った。その上、首を取らなければならない張繍を討ち取る事が出来なかったのだ。目的を達成する事が出来なかった戦は負け戦と同じよ」


 曹操が淡々とそう告げると、皆口を出せなかった。


「だが、このまましてやられていては、私の沽券に係わる。ここらで張繍の驕りを叩き潰してくれる」


 曹操はそう言うなり、座より立ち上がり居並ぶ家臣達に告げた。


「張繍を討つ。全軍に戦の準備を!」


「「「はっ」」」


 曹操が張繍討伐に赴くと宣言すると、家臣達は一礼し準備の為にその場から離れて行った。


 そして、曹操は曹昂、荀彧、荀攸、郭嘉、程昱を呼び寄せた。


「お呼びとの事で参りました」


 五人は一礼し、荀彧が曹操に訊ねた。


「おお、来たか。話は聞いているか?」


「はい。張繍が劉表と同盟を結んだと」


 荀彧がそう返事すると、曹操はその通りとばかりに頷いた。


「此処で張繍を叩かねば、後々の禍となるであろう。征伐に向かう。その前にお主らに訊ねたい。此度の戦は短期で終えるか。それとも、長期戦を行うか。どうするべきだと思う?」 


 曹操がそう訊ねると、郭嘉が先に答えた。


「今回は短期で決めるが宜しいかと。長期戦となれば、徐州の呂布、冀州の袁紹、袁術めが、殿の不在を知るなり攻め込んで来るでしょう」


「郭嘉殿の言う通りです。殿」


 程昱も郭嘉の意見と同じようであった。


 二人の意見を聞いた曹操は次に荀攸を見た。


「公達よ。お主はどう思う?」


 訊ねられた荀攸は少し考えた後、答えた。


「二人の意見には概ね賛成です。ですが、張繍は劉表と同盟を結んだと聞いています。であれば、兵糧に困る事は無いでしょう。ですので、此処はまずは兵糧を断ち、それから戦を仕掛ければ、我等が負ける事は無いでしょう」


 荀攸はまず、劉表に兵糧を供給させないようにすべきと進言した。


「兵糧を断つか。しかし、それでは時間が掛かる。そのような事をするよりも、さっさと張繍を叩き潰せば良いだろう」


 曹操は其処まで時間は掛けられないと、荀攸の進言を取り合おうとしなかったが。


「父上。その様な考えでは、また敗れますよ」


 曹昂がそう指摘すると、曹操は睨みつけた。


「子脩よ。私が同じ相手に負けると言うのか?」


「打てる手があるのに打ちもしないで、敵を侮れば先の宛県の戦の二の舞でしょう」


 曹昂は、あの時の負けを悔しいと思っている曹操にそう述べた。


「其処まで言うのであれば、お前も何か策があるのであろうなっ」


「勿論」


 曹操が怒声交じりに訊ねると、曹昂は頷いた。


「我が方の協力者である桓階に命じて、荊州南部で反乱を起こさせるのです」


「ああ、あやつがいたな。反乱は起こす事が出来るのか?」


 曹昂の話でそういう者が居ると聞いていたが、話に出て来るまで忘れていた曹操。


 本当に反乱を起こせるのかどうか気になり訊ねた。


「長沙郡太守である張羨に働き掛け、長沙郡だけではなく、零陵郡、桂陽郡の二郡もその反乱に同調するそうです」


「うむ。南部で反乱が起これば、劉表も張繍の支援が出来ぬな。だが州牧と郡の太守であれば、その内敗れるのではないか」


 州牧の劉表と太守の張羨。どちらが動員できる兵が多いかと言うと、劉表の方が多いと見るべきであった。


 朝廷が正式に州牧に認められた劉表に対して、張羨はその劉表に対して反乱を起こした。


 どちらが賊かと言われれば、間違いなく張羨が賊と言えるだろう。


 そんな者に従う者はそう多いとは思えなかった。


 曹操はその内、敗れるだろうと言うが、曹昂は首を振る。


「其処で交州の州牧となった士燮に文を送り、こう命じるのです。張羨を影から支援しろと。さすれば、反乱は長引くでしょう」


 この頃、交州を支配していた士燮は朝廷に貢納をして、曹操と誼を通じていた。


「ふん、成程な。しかし、士燮は支援するのか?」


 士燮からしたら支援する意味が無いと思う曹操。


 曹昂は、その考えは違うと言わんばかりに首を振る。


「士燮からしたら朝廷に恩を売るには絶好の機会です。加えて、その送る文にこう書けば良いのです。劉表が交州への進出を図っていると。さすれば、士燮は支援してくれるでしょう」


「成程な。では、そうしようか。荀彧」


「はっ」


「今の話を聞いたな。士燮にその旨を書いた文を送るのだ」


「承知しました」


「子脩。お前は桓階に命じて、荊州南部で反乱を起こさせろ」


「はい。後、今回は私が開発した兵器を連れて行きますか?」


 寿春での戦いの時は「袁術程度の奴に、お前が作った兵器などを用いずとも勝てるっ」と豪語して出陣していった。


 それで、曹操が最前線を駆けるという事をしたので、曹昂はそうならない様に持っていくべきではと思い言う。


 曹操は暫し考えた後、首を振った。


「いや、必要ない。此度の戦は攻城戦が主であろうから『帝虎』と『竜皇』は使えん。『飛鳳』もいらん」


「『帝虎』と『竜皇』は分かりますが、『飛鳳』はどうしてですか?」


 あの兵器は攻城戦となれば、素晴らしい働きをするので、要らない理由が曹昂には分からなかった。


「これから進軍の準備をするとなると、出陣する頃には夏になっているであろう。雨も多い時期だ。火薬がしけるかもしれん」


 曹操は理由を述べると、曹昂は納得した。


「言われてみればそうですね」


「分かれば良い。では、子脩と荀彧の二人は許昌に残り留守居を任せる。残りは私に付いて来るのだっ」


「「「はっ」」」


 曹操の命に従い、皆準備に走った。



 一月後。



 曹操は二十万の兵と共に張繍が居る宛県へと向かった。


 予想通り、季節は夏に入ろうとしていた。


 そして、この年の夏は例年に比べても暑かった。


 曹操軍の兵士達はそんな猛暑の中を行軍していた。


 想定していた時よりも、暑い為、水は直ぐに飲み尽くしてしまった。


 その猛烈な暑さで、川の水も涸れてしまい、大地も乾いていた。


「水、水を……」


「何処かに無いか……」


 兵達はその暑さにより倒れる者まで出て来た。


 これでは、戦の勝敗に係わると思った曹操は思考を巡らした。


「……皆の者、もう少し頑張るのだっ。黄巾党討伐の折り、この道を通りかかった際、林があった。其処は確か、梅の林だっ」


 曹操がそう大声で宣言すると兵達は驚きながら訊いた。


「其処で暫し休憩する。好きなだけ、梅の実を食べて喉を潤すがいい」


 曹操が休憩する上に梅の実を好きなだけ食べて良いと言うのを聞いた兵達は、其処まで行けば喉を潤す事が出来ると思い、最後の力を振り絞って立ち上がり行軍を続けた。


 兵達は歩きながら、梅の味を思い出したのか想像の中で酸っぱい味を思い出していた。


 その酸っぱさを想像した事で、自然と口の中に唾が溜まり喉を潤していった。


 後にこの故事を『梅林止渇』と言われる様になった。


 なお、この話には余談があった。


 如何に唾で喉を潤したと言っても、それは一時的な事であった。


 どれだけ進めども、梅の林など見つかりはしなかった。


 動く事で唾も出なくなり、また喉が渇くようになった。


 そもそも梅の林と言うが、曹操は思いついて言っただけなので、ある筈が無かった。


 兵達も騙されたのでは?と思い、曹操に対して不信感を抱き始めた。


 このままでは、反乱が起こるのではと思われた。


 そんな時に、空が曇り始めた。


 皆、何事かと思い顔を上げると、黒い雲が青い空と太陽を覆い隠し始めた。


 黒い雲が空を覆うと同時に、ポツリポツリと水滴が降り注いだ。


 やがて、大雨となった。


 曹操達はその雨水により、喉を潤す事が出来た。


 だが、その雨は通り雨であった様で、黒い雲は直ぐに晴れてしまい、また強い日差しを持った太陽が姿を見せた。


 少しの間であったが、雨水により喉を潤す事が出来た幸福に曹操軍の将兵は喜んだ。


 更に、行軍先の道に、涸れていない川を見つける事が出来た。


 そのお陰で曹操軍は水を確保する事が出来た。


「うむ。これだけの水があれば、梅を食う必要は無いな」


 曹操は内心で川があるという幸運に喜びつつそう述べた。


 兵達も喉を潤す事が出来たので、梅の林の事などどうでも良いのか、誰もその事について追及しなかった。


 水を十分に確保した曹操軍は改めて、宛県へと進軍した。

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