屈辱の和睦
沛県を占領した曹昂は楼閣から東の方を見ていた。
その方向には徐州があった。
(今頃、呂布殿は下邳を手に入れて、其処から徐州を制圧している頃か。そんな時に沛県を奪われて親族も捕まったと聞いたら、激怒するだろうな)
呂布が激怒する姿を思い浮かばせながら、そっちも似た事をしたのでお相子にして欲しいと思う曹昂。
「こんな所に居たのか、探したぜ」
曹昂が東の方を見ながら物思いに耽っていると、孫策が声を掛けて来た。
「何かあったのかな?」
楼閣には護衛の兵も居るので一人では無いが、城を陥落させたばかりなので不用心だと言いたいのかと思い訊ねる曹昂。
「いや、捕まえた。呂布の親族をどうするか聞こうと思ってな」
「ああ、そういう事」
孫策が理由を話すと、曹昂は納得した。
「……う~ん。どうしようか?」
捕まえた呂布の親族は、娘達であった。
呂布の妻は探したが見つからなかったので、城が陥落する前に逃げる事が出来たのだろうと予想する曹昂。
曹昂が様子を伺いに二人の娘に会いに行くと、まだ十歳にも満たない娘達が居た。
二人の内、一人がもう一人を守る様に前に出て両手を広げてプルプルと震えながら、曹昂を睨んでいた。
もう一人の子は、曹昂達をジッと警戒している目で見ていた。
二人を見て、警戒している子猫みたいだなと思えた。
とりあえず、二人を落ち着かせる為、懐から水飴を煮詰めて作った飴玉を取り出した。
毒見の為、曹昂が食べて毒が無い事を確認させた後、二人に渡した。
曹昂が食べたのを見ても、睨んでいる子は手を伸ばそうとしなかったが、もう一人の子は躊躇なく手を伸ばして口の中に入れた。
その子はその飴玉を舐めていると、その味に顔を綻ばせていた。
その子の顔を見た睨んでいる子はオズオズと手を伸ばして、飴玉を口の中に入れ顔を綻ばせた。
二人の気が緩んだのを見て曹昂は二人の名前を尋ねた。
二人は互いの顔を見て、教えても良いかと思い名乗った。
最初に飴玉に手を伸ばした子は
「大丈夫か? 沛県を奪われた事に加えて、娘を捕まえた事に激怒した呂布が兵を送り込んでこないか?」
孫策がソワソワしながら、訊ねて来た。
それを聞いた曹昂は、孫策が自分を探している本当の理由が分かった。
要は呂布が攻め込んで来るかも知れないので、早く援軍が来るのを待っているのだと。
(後に小覇王と呼ばれる孫策でも、呂布と戦うのは避けたい様だな)
城を守る兵が少ないからか、それとも呂布の勇猛さを恐れているのかは分からなかったが、そんな孫策を落ち着かせる様に話し出す曹昂。
「大丈夫だよ。呂布は今下邳を手に入れて、其処から徐州を制圧している頃だから、そんな時に沛県を取り返す為に攻め込むなんてしないさ。仮に頭に血が上って攻め込むと言い出したとしても、部下達が止めるよ」
呂布軍の軍師をしている陳宮は優れた智謀の持ち主、と曹操が言っていた。
そんな男が沛県を取り返すという愚行は、させないだろうと予想していあ。
「兵を割いて送り込むとかしないか?」
「戦力を分散させれば、その分、徐州の制圧が遅れるからね。誰かしら止めるよ。それに父上に文を送ると共に、岳父殿の元に、ある情報が伝わるようにしたから」
「岳父って言うと、袁術か?」
「そう。『呂布が反乱を起こして、徐州を制圧した』とか『徐州を手に入れた勢いで、劉備へ攻め込む準備をしている』という情報を流したからね。岳父殿はこれ幸いとばかりに劉備に攻め込んでくるさ。岳父殿が劉備を撃退して、そのまま撤退するか分からないし、呂布は警戒する為の兵を送る筈だから、こちらに構う余裕も無くなるよ」
「成程な。じゃあ、呂布は攻め込む事は無いって事か」
「少なくとも当分は無いね」
曹昂の話を聞いて、安心したのか孫策は安堵していた。
一方。袁術はというと。
寿春に流れている噂の真偽を調べさせていた。
そして、徐州に潜り込ませている密偵が戻って来た。
「来たか。それで、真相はどうであった?」
袁術が問い掛けると、その密偵は跪きつつ答えた。
「はっ。徐州は呂布が掌握しつつあります」
「そうか。ご苦労、下がって良いぞっ」
密偵の報告を聞いた袁術は手を叩いた。
密偵を下がらせると、周りに居る部下に訊ねた。
「劉備は最早、進退窮まる無様な状態となった。これは好機だ。前線の紀霊に命じて総攻撃を掛けさせろ‼」
袁術が総攻撃を命じると、呂範が止めた。
「お待ち下さい。劉備軍は我が軍の半分にも満たない戦力だというのに、我等と互角に戦っております。その様な敵とまともに当たれば、我が軍は甚大な被害が出ましょう」
「では、どうするのだ?」
袁術も言われてみると一理あると思ったのか、呂範に何か策があるのか訊ねた。
「此処は徐州を手に入れる事が出来た呂布を使いましょう。呂布も徐州を確実に手に入れる為には劉備が邪魔です。我が軍の勝利に貢献すれば、お礼の品物を送ると文を書けば、呂布はこの話に乗って来るでしょう」
「うむ。そうだな。それでいこう」
呂範の提案に袁術は賛同し、呂布の元に使者が送られた。
徐州を手に入れた呂布は当初沛県を奪い返す為に兵を送り込もうとしたが、陳宮を含めた部下達が止めた。
今は徐州を制するが肝要と言われては、呂布は何も言えなかった。
しかし、内心では怒りが渦巻いていた。
そんな折に、袁術から使者がやって来た。
使者から手紙を渡された呂布は直ぐに兵を整えさせた。陳宮も反対を述べなかった。
暫くすると、高順率いる軍勢が劉備軍が居る州境へ向かった。
その頃、劉備はというと。
州境にて軍を展開し、数が多い袁術軍を相手に優勢であった。
そんな折に、下邳県を守っている筈の張飛がやって来た。
最初、その報告を聞いた時は陣中見舞いかと思い、関羽を伴い作戦会議を行っていた天幕を出た。
そうして見た義弟の張飛の姿に、劉備達はギョッとした。
落ち込んだ表情に加え鎧を纏わない出で立ち。護衛の兵達も纏っている鎧がボロボロであった。
「兄者。すまん」
張飛は劉備達を見るなり、泣きそうな顔で額が地面に付かんばかりに頭を下げた。
劉備達は何事かと思い張飛に訳を訊ねた。
「なにっ⁉ お前は兄上との約束を破り酒を飲んで酔っ払い、呂布に下邳を奪われたというのか?」
張飛から話を聞いた関羽の声には怒りが混じっていた。
あれだけ、念を押して約束したのに破った事を怒っている様であった。
「ああ、曹豹が呂布に寝返って、城門を開けて呂布を迎え入れたんだ・・・・・・」
「そうか。だが、とりあえずお前が無事で良かった」
劉備は下邳を奪われた事に怒る事もせず、張飛が無事である事を喜んだ。
「では、盧植先生はどうした? 奥方様等と御母堂様は?」
関羽が矢継ぎ早に訊ねると、張飛は一瞬言いづらそうな顔をした後、口を開いた。
「生き残った部下達の報告だと、盧植先生は曹豹に殺され、奥方様等は呂布の強襲で助ける暇も無く、城の中に……」
報告する張飛の目から、涙が零れていた。
「「何だとっ⁉」」
張飛の報告を聞いた劉備達は、同時に驚きの声を上げた。
「すると、お前は敵の策略で酒を飲んで酔っ払い、城を奪われた上に兄上の恩師である盧植先生を殺され、奥方様等と御母堂様を敵に奪われ逃げて来たと言うのか⁉」
関羽の怒鳴り声は陣中に響いた。
それを聞いた兵達は、小声で下邳が呂布に奪われた事を話していた。
「兄者。全ては俺の落ち度だ。俺の命で許してくれっ!」
張飛は腰に佩いている剣を抜いて、自分の首を斬ろうとしたが、慌てて関羽と劉備が止めた。
剣を取り上げると、劉備は桃園で誓った事を忘れたのかと言い、張飛の咎を責める事もせず許した。
許された張飛は、劉備の情け深さに涙を流した。
下邳が奪われた事で、これからどうするか劉備達は話し合ったが、何の対策も決まらなかった。
その日の夜。劉備軍の兵達は夜陰に紛れて逃げ出した。
如何に徳高い主君とは言え、恩賞に有りつけぬと分かるなり見限ったのだ。
夜が明けると、全軍の一割の姿が無かった。
その数日後。
高順率いる呂布軍が劉備達が陣を構えている所から、十数里ほど離れた所まで来た。
呂布軍が迫っているという報告が齎された後、驚くべき情報が劉備に齎された。
「申し上げます。紀霊率いる軍勢がこちらに進軍を開始しましたっ」
呂布軍が迫る中で袁術軍も迫って来るという報告を聞いた劉備は至急、軍議を開き武将達を集めた。
「兄者。俺に五千の兵をくれ。呂布軍を叩き潰してやるっ」
軍議を開き、先程齎された報告を言うなり、張飛は恥を雪ごうと兵を与えてくれと頼んだ。
「馬鹿者。袁術軍も迫っているのだぞ。お前が戦っている間に袁術軍に攻め込まれれば、我が軍は全滅だ」
関羽は猛っている張飛に冷静に状況を告げる。
「じゃあ、どうするんだよっ!」
張飛が関羽と劉備に、怒り混じりの声で訊ねた。
劉備は暫し黙り込んだ後、自分の考えを述べた。
「今の我が軍の状況では、戦うも守る事も難しい。此処は広陵郡へ逃げる」
劉備の決断に、張飛は渋い顔をした。
「兄者、それはつまり敵に背を向けて逃げるって事かよっ」
「張飛。命あればこそ機会を狙う事が出来るのだ。今は悔しいが、此処は耐えるのだ」
劉備にそう諭された張飛は、不承不承ながら従う事にした。
元はと言えば、自分が下邳を守る事が出来なかった事が原因であった事に加えて、この状況を打開する為の作戦など自分の頭では思いつかない以上、劉備の命令に従うしかなかった。
逃げる事を決めた劉備軍は、風の如く広陵郡へと逃亡した。
その逃亡の最中でも、劉備に従っていた兵は密かに劉備から離れて行った。
劉備が広陵へ着いた頃には、従っている兵は五百人弱しか居なかった。
これが領地を失った流浪の将の姿かと劉備は嘆いた。
劉備が逃亡している中。
高順が劉備軍に迫っている途中で、斥候に放っていた兵は劉備軍が逃亡したという報告をした。
その報告を聞いた高順は、憤る事も嘆く事もしなかった。
出陣する前に陳宮から、劉備軍とは積極的に戦うなと命じられていた。
それは、兵の損失を避ける為であった。
今は劉備を討つよりも、自分達の足場を固めるのが最優先と考える陳宮。
呂布もそれが分かっているからか、自分と互角に戦う事が出来る程の武勇を持っている張飛と関羽が居る劉備軍に対して、自分ではなく腹心の高順を大将にして差し向けた。
二人の意向を察した高順は積極的に戦わないつもりであったが、劉備が逃亡したと聞いて、これでとりあえず向こうの約束は守ったなと思い、袁術軍の元へ向かった。
呂布軍と袁術軍の両軍が向かい合う中、両軍の総大将が出て来た。
「……呂布軍総大将、高順」
ボソリと高くもない声で名乗る高順。
「私は袁術軍総大将の紀霊だ。援軍に来ていただき感謝する」
紀霊は高順に礼を述べると、高順は頷いた後、側に居る副官を顎でしゃくった。
「劉備軍は逃亡した。これは勝利した事に相違なし。何時頃、約束の物は頂けるのでしょうか?」
副官が紀霊に訊ねると、紀霊は首を傾げた。そして、隣にいる自分の副官を見た。
「お前、聞いているか?」
「いえ、聞いておりません」
紀霊も副官も約束の物と言われても、何の事か分からなかった。
「何と、袁術殿は勝利に貢献すれば、莫大な贈り物をくれるという約束をしたのですぞ!」
副官は約束を守らないつもりなのかと咎めると、紀霊は鼻を鳴らした。
「それは、我等が主と呂布殿の約束。我等は聞いておらん。その証拠に贈り物など持って来ておらん」
「約定を破るおつもりかっ⁉」
副官が叫ぶが高順が手で制した。
「……では、袁術殿に問い合わせを」
「承知した」
「それでは失礼する……」
高順は紀霊に一礼し、率いて来た軍を連れて呂布が居る下邳へと帰還した。
高順が帰還して十数日後。
呂布の元に、袁術から手紙が送られて来た。
手紙の内容は劉備の首が無いのでは約定は果たしたとは言えない。劉備の首を持って来れば約束の物を贈ると書いてあった。
その手紙を読んだ呂布は怒りに任せて、文を破り捨てた。
「おのれ、袁術。向こうから話を持ってきて約束を守らず反故にするとは!」
破り捨てた文を怒りに任せて踏みつける呂布。
「殿。落ち着いて下さい」
怒る呂布を陳宮が宥める。
「これが落ち着いていられるかっ。袁術め、あいつの面を叩きのめしてくれる‼」
呂布が兵を集める様に命じる前に、陳宮が止めた。
「殿。我が軍は徐州の制圧が出来ていません。その上、我が軍よりも兵数が多い袁術軍と戦うのは得策ではありません」
「ふんっ、袁術如きに敗れる私ではないわっ!!」
呂布は負ける事など有り得ないと叫ぶが、陳宮は首を振る。
「殿が袁術と戦っている間に、劉備が兵を挙げて我等の後背を襲えば、我が軍は容易に敗れますよ」
陳宮の説明を聞いて、呂布は間が抜けた顔をした。
「……確かにそうかもしれんな」
呂布は黙り込んだ。
自分もそうして徐州を手に入れたので、劉備も同じような事をしないとは言い切れなかった。
「しかし、袁術を許す事が出来ん」
呂布は袁術の行いを許す事が出来ないと言うと、陳宮は提案した。
「では、劉備と和睦するのは如何でしょうか。そうすれば、袁術と戦う事となっても後背を襲われる事はありませんぞ。義理堅い劉備の事です。和睦すれば、我等を襲う事は無いでしょう」
「なにっ……しかし、劉備は私と和睦するか?」
呂布の疑問に陳宮は問題無いと答える。
「劉備の夫人方と母親は殿の手元に居るのです。劉備も和睦を断る事は出来ないでしょう」
「ふむ……そうだな。それでいこう」
陳宮の提案を聞いた呂布は劉備と和睦する事にした。
数日後。
劉備の下に呂布から派遣された使者がやって来た。
今後の事を話したいので、下邳に来られたしと使者が告げた。
張飛はそれを聞いて行くべきではないと言うが、劉備は行く事にした。
呂布の元には夫人と母親が居るので、呂布の元に置いておけないという事で出向く事にした。
残った兵と関羽と張飛を伴い、劉備は下邳へと向かった。
数日ほど進んだところ、劉備達は下邳へ辿り着いた。
下邳の城外には呂布を含めた多くの家臣が劉備を出迎える為に待ち受けていた。
呂布を見るなり張飛は得物を握る手に力が入ったが、関羽が小声で「堪えろ」と言い大人しくさせた。
劉備は馬から降りて、呂布の元まで歩いた。
「呂布殿。わざわざのお出迎え、痛み入ります」
「なんの。貴殿の御帰りを待っていたのですぞ」
劉備が頭を下げると、呂布は笑いながら劉備の帰還を喜んでいた。
一頻り笑った後、呂布は真顔になった。
「劉備殿。私は貴殿から徐州を奪うつもりは無い。この下邳に居るのも、張飛殿が曹豹と揉めて戦になるかもしれぬと聞いて、仲裁役として出向いただけなのだ。高順をそちらに差し向けたのは、貴殿の軍が苦戦していると聞いて援軍として向かわせたのだ」
敵対する意思は無いと告げる呂布。
それを聞いた張飛は心中で嘘をつくなと思ったが、声を出す事が出来なかった。
「そういう訳で、貴殿にこの徐州を返すつもりだ」
呂布は徐州を返すと告げると、劉備は首を振った。
「いやいや、こうなったのも天命というものでしょう。此処はこのまま呂布殿が治めるのが道理でしょう」
劉備は周りを見た。
呂布と主だった武将は武装していないが、周りの兵達は完全武装していた。
数も、自分が連れて来た兵より多く居た。
如何に張飛と関羽が居るといえども、襲われればひとたまりもないと判断した。
加えて、呂布達の後ろには馬車があった。
傘だけが付いている馬車で誰が乗っているのか直ぐに分かった。乗っているのは、劉備の夫人達と母親であった。
もし、呂布軍に襲われれば母親達の命は無いと分かった。
それを理解した劉備は呂布に州牧の地位を譲るしかなかった。
「ほぅ、私に治めよと言うのか。本当に宜しいので?」
「問題無いと思います」
呂布が確認の為に訊ねると、劉備は問題ないと頷いた。
「そうかそうか。では、お言葉に甘えて、州牧の地位を承ろうぞ」
呂布は劉備の返答に満足そうに頷いた。
「では、和睦をした記念の祝宴をしようではないか」
呂布は劉備を伴い城内に入って行った。
その姿を張飛は歯噛みしながら見ていた。
後日。
呂布は行く宛てが無いのでは心苦しいと言って、下邳国の東成県に駐屯するように促した。
劉備もその言葉に従い東成県に赴任する事にした。
「何かあれば、下邳国の太守の曹豹に申しつけ下され」
呂布が赴任する時に告げた言葉に、劉備達は顔を顰めた。
まさか、自分達を裏切った者が自分達の表向きの上役になるとは思いもしない様であった。
劉備達はやるせない思いを抱きながら、東成県へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます