喜びも束の間
数十日後。
張飛にとって、待ちに待った時が来た。
自分の前には幾つも置かれている大甕。その甕の中には白く濁った液体が入っていた。
この国で一般的に売られている酒は、どぶろくの様な濁酒であった。
張飛はその酒が入った甕を見て、生唾を飲み込んでいた。
「ほ、本当に飲んでも良いのか?」
張飛は側に居る曹豹に訊ねた。
「ええ、こちらとしても酒を用意するのに、これだけ時間が掛かった事をお詫びいたします」
曹豹は謝ると、張飛は手を振る。
「いやいや、こうして飲む機会を作ってくれた事に感謝するぜ‼」
張飛はそんな事など気にしてないと言いながら、甕から目を離す事をしなかった。
視線が甕に集中しているのを見た曹豹は笑みを浮かべた。
「それでは、どうぞ。好きなだけお飲み下さい。後は私がしておきますので」
「ああ、分かったぜっ」
曹豹は一礼し離れると、張飛は甕の蓋を開けて、酒の匂いを嗅いだ。
「んん~、正しく酒だ。久しぶりに飲めるぜっ⁉」
張飛は今にも甕を持ち、中に入っている酒を一人で飲もうとしていたが、その場には張飛の部下達も居た。
張飛から酒が飲めるという話を聞いていた様で、皆酒が飲みたいという顔をしていた。
部下達の羨ましそうな視線を浴びた張飛は甕から手を離して、部下達の方を見る。
「良し、今日は大いに飲むぞっ!」
張飛がそう言って、部下達にも飲酒の許可を出した。
部下達は喜びの声を上げて、適当なお椀を持ってきて甕の中に突っ込んで酒を掬い、喉に流し込み味を堪能していた。
張飛もお椀で、酒を掬い味わっていた。
酒が入った事で、皆酔いに任せて騒ぎ出した。
張飛達が酒を飲んで騒いでいる声は、政庁で仕事をしていた盧植と陳登の元まで聞こえて来た。
「うん?」
「何の騒ぎだ?」
賑やかな声を聞いた二人は、何事かと思い首を傾げる。
何の騒ぎなのか気になった様で、二人は仕事の手を止めて声が聞こえる方に向かおうとしたが、其処に曹豹は現れた。
「これはこれは、御二人共。お疲れ様です」
「ああ、曹豹殿も」
「ところで、この騒がしい声は何事ですか?」
陳登がこの賑やかな声が気になり、曹豹に訊ねた。
曹豹は大した事ではないと言わんばかりに手を振り笑みを浮かべた。
「いえ、大した事ではありません。偶には部下達に慰労しようと思い酒を飲む事を許可したのです」
「酒を?」
盧植が確認の為に訊ねると、曹豹は頷いた。
「ええ、何時までも肩に力が入っていては、肝心な時に疲れてしまいます。時には気を緩める事も大事だと思い、兵達に酒を一杯だけ飲ませる事を許可しました。御二人にもその事を話そうと思いまして」
曹豹は酒を飲ませた理由を述べると盧植は少し考えていた。
曹豹の言葉に一理あると思った様だ。
「しかし、張飛がその声を聞きつけて酒を飲むかもしれんな」
盧植は兵達に酒を飲ませる事で、張飛が自分も酒が飲みたいというのではと思い、兵達に酒を飲む許可を与えなかった。
そんな盧植の懸念に、曹豹は答えた。
「実は、既に張飛殿にお話しをしまして、すると張飛殿は『兄貴との約束した事を守らなければ駄目だ』と申して、部下達が酒を飲んでいる間は自室に籠る事にしたそうです」
「ほぅ」
「何と、張飛殿がそのような事を」
劉備に仕えてまだ日が浅い陳登ですら、張飛が酒好きで酒乱という事を知っていた。
なので、部下達が酒を飲んでいると知っても、酒を飲まないという張飛の言葉を聞いて、盧植達は感心していた。
「張飛も我慢できる様になったようだな」
盧植は、張飛が自制できる様になったのだと分かり喜んでいた。
「ですな」
陳登も同じ思いなのか、同意していた。
「しかし、曹豹よ。そのような事をするのであれば、先に儂に一言言うのが筋ではないか?」
「申し訳ありません。うっかりしておりました」
盧植が指摘すると、曹豹は素直に謝った。
「……まぁ良い。今後は気を付けるように」
別段、咎める事では無いと思い盧植は注意するだけに留めた。
「はい。気を付けます」
曹豹は頭を下げると、盧植達は騒がしい声が聞こえるが、無視して仕事を再開した。
曹豹はそっとその場を離れ、少し歩くと目を細めて笑った。
「ふっ、これで良し。後は時を見て、外に合図を送るだけだ」
曹豹はそう言って、直ぐに自分の部下達を呼び戦支度を整えつつ、合図を送る準備をした。
暫くすると、騒がしかった兵達が酒で酔い潰れたのか静かになった。
その頃になると盧植達の仕事は終わっていた。
「ようやく終わったの」
「はい。兵達も静かになりましたね」
少し前までは騒がしかった兵達も徐々に声が小さくなっていき、最後には静かになった。
皆酔い潰れたのだと盧植達は悟った。
「ようやく、静かになったのう」
「ですね」
「……のぅ、陳登よ」
「はい。何でしょうか?」
「兵達に酒を飲ませて将に一滴も飲ませないというのは酷というものではないか?」
「はっ、はぁ‥‥…」
盧植が何を言いたいのか何となく察した陳登。
自分の推察が当たっているのかどうか気になり、盧植に言葉の続きを促した。
「張飛に一杯くらいであれば飲ませても良いとは思わんか?」
「はぁ、そうですね」
予想通りだなと思いながら陳登は答えた。
「では、私が張飛殿の部屋に行って一杯だけという約束で飲ませますね」
「うむ。頼んだぞ」
盧植にそう告げて陳登はその場を離れ、張飛の部屋へと向かった。
「張飛殿。張飛殿。話があって参りました」
部屋の前に着くと、陳登は声を掛けた。
しかし、部屋から反応が無かった。
寝ているのか?と思い、陳登は部屋の中に入った。
「張飛殿。寝ておられるのですか?」
失礼かと思いながら部屋の中に入った陳登。
しかし、部屋の中を見て、直ぐに誰も居ない事が分かった。
一応寝台を触れてみたが、寝台は冷たかった。
とても、人が居たとは思えない程に。
「これは一体、どういう事だ?」
曹豹から張飛が部屋に居ると聞いていたのに居ないので首を傾げていた。
其処に、喚声が聞こえて来た。
その声を聞いて陳登は何事かと思い部屋を出ると、丁度兵が通り掛かった。
「ああ、元龍様。此処に居られましたかっ」
「何事だ。一体?」
「呂布です。呂布が攻め込んで来ました!」
兵の報告を聞いた陳登は耳を疑った。
「なにっ、呂布が攻め込んで来ただと⁈」
呂布が攻め込んで来る事は考慮して、盧植と張飛を残してきた。
その頼りとなる張飛が不在であった。
「……まさか、これは敵の計略かっ⁉」
兵達は酒を飲み酔い潰れ、張飛は何処にいるのか不明。其処に呂布が攻め込むというあまりに出来過ぎた展開。陳登はこの状況が、敵の謀略だと直ぐに分かった。
「迂闊っ、劉備様に申し訳が立たん」
陳登は己の不明を恨んだが、直ぐに気を取り戻した。
「急いで、張飛殿を探さねばっ!」
陳登は張飛の捜索を始めた。
張飛が酒を飲むのに合わせて、曹豹は自分の部下以外の者達には酒を飲ませた。それにより多くの兵が泥酔していた。
そして、各城門を制圧すると曹豹は楼閣から合図を送り各城門を開けた。
「合図だっ」
「進め! 下邳を手に入れるのだっ」
呂布の号令の下、兵達は城内に雪崩れ込んだ。
城内に雪崩れ込んだ呂布軍の兵達は劉備軍の兵達を見つけると捕まえるか斬り殺していった。
喚声と共に剣戟の音が聞こえてきた。
盧植は何事かと思い、剣を片手に外に出た。
すると、敵の襲撃により右往左往している劉備軍の兵達の姿が見えた。
「何事じゃっ⁉」
盧植は混乱している兵を捕まえて訊ねた。
「り、りょふが、攻め込んで来ましたっ」
「なに、呂布じゃと⁉」
兵の報告を聞いた盧植は驚いていた。
「しかし、奴め。どうやって城内に入ったのだ?」
盧植が考え込んでいると、何者かがその後ろへと近付いた。
「それはですな」
「うん? ……ぐっ‼」
背後から声が聞こえたので、盧植は振り返ろうとしたら、その背に何かが突き立てられた。
その突き立てられた物は背を貫き、腹を突き破っていた。
腹を突き破った物を見た盧植は、自分を貫いている物が剣だと分かった。
「な、何だと……?」
「私が呂布を招き入れたからですよ」
「そう、ひょう、きさま…………」
盧植は肩越しに曹豹を睨もうとしたら、曹豹は剣を抜いた。
剣を抜かれた事で、傷口から血が噴き出した。
口からも腹からも血を出しながら、盧植は倒れる。
「お、おのれ……すまぬ、りゅうび…………」
事切れる直前に、自分の弟子に詫びる盧植。
盧植が死んだ事を確認した曹豹は周りに居る部下達に声を掛けた。
「張飛を探せっ。今なら泥酔して碌に動けぬ。今なら、奴をやれるぞっ‼」
曹豹が張飛を探すように命じた。
張飛達が酒を飲ませていた場所には、張飛の部下達は居たが、張飛の姿は無かった。
なので、曹豹は張飛を探す命令を出したのだ。
同じ頃。
陳登は張飛と厩舎に居た。
「さぁ、張飛殿。今はお逃げを」
「ううう、くそ、そうひょうのやつめ……」
陳登は敵の計略だと察すると、直ぐに張飛を探した。
張飛を見つけると、泥酔状態であると分かった。
これでは、呂布と戦う事は難しいと判断した陳登は張飛を逃がす事にした。
厩舎へ向かう途中まだ酔っていない部下達と合流する事が出来た。
「今は堪えて下さい。復讐する機会はいずれ来ます」
陳登はそう言って張飛を馬に乗せて、馬の尻を叩いた。
尻を叩かれた馬は駆け出した。部下達も馬に乗って、張飛を守るように後を追った。
陳登のお蔭で張飛は無事に城から逃げ出す事に成功した。
夜が明けると、呂布は下邳を全て制圧していた。
評議の間にある上座に座る呂布は次から次へと齎される報告を聞いて、顔を緩ませていた。
「報告っ‼ 城内を探しておりましたところ、劉備の妻と妾に母親を見つけました」
その兵の報告を聞いた呂布と部将達と陳宮は、驚いていた。
てっきり、逃げ出したと思っていたからだ。
「どうする。陳宮」
「此処は下手に危害を加えず、保護するのが良いでしょう。誰かに警備を命じるのが良いかと」
「そうだな。高順、張遼」
「「はっ」」
「お前達の部下に劉備の夫人達を警備させろ。食事を欠かすなよ」
「「はっ」」
呂布の命令を聞いた二人は直ぐに部下の手配に向かった。
「それにしても、こうも簡単に下邳を手に入れる事が出来るとはな」
呂布は思いの外、簡単に下邳を手に入れる事が出来て笑っていた。
「同感ですな。これで他の郡も手に入れて徐州を手に入れましょうぞ」
「ああ、当然だ」
呂布は勿論そのつもりだと言わんばかりという顔をする。
そう喜んでいる呂布の元に、兵が駆けんできた。
「殿。一大事にございますっ‼」
「何事だ?」
機嫌よさそうにしていた呂布は兵の必死な表情を見て、直ぐに何かあったのだと察して顔を引き締めた。
「殿が出陣した数日後に、曹操軍が沛県を強襲。城が制圧されましたっ」
「……なにっ」
驚天動地というべき報告に、呂布とその場に居た者達は耳を疑った。
呂布は全軍を以て出陣した事で、沛県には千人程度の兵しか残していなかった。
其処に数千の兵で強襲を掛ければ、簡単に陥落させる事が出来た。
だが、呂布は腑に落ちない事があった。
「しかし、曹操は何時、私が沛県を出た事を知ったのだ?」
呂布の疑問に、誰も答える事が出来なかった。
陳宮も暫しの間考えていたが、直ぐに何かが分かった顔をした。
「迂闊っ、私とした事が⁉」
陳宮が大声で嘆くのを聞いて、呂布達は驚いた。
「どうしたのだ? 陳宮」
「呂布殿。奴等が、黄金をこちらに寄越した理由が分かりましたぞ。奴等は、我等がその黄金で軍備を整え徐州を得る事を予想していたのです。そして、我等が沛県に出陣した時を狙い、沛県を襲ったのです!」
「すると、奴等は我等が徐州に攻め込む時を待っていたというのか?」
「左様です。これで我等は徐州を手に入れましたが、沛県を始めとした豫州東部を奪われましたっ‼」
沛県は、豫州と兗州の東部に大きな影響を与える事が出来る土地であった。
北上すれば兗州に、西進すれば豫州に侵攻できる場所であった。
其処を奪われるという事は、曹操が支配する二つの州に対しての楔が無くなるという事であった。
「ぬうう、曹操め。曹昂の名で黄金を寄越すとは、何と言う悪知恵が働く奴!」
呂布は奪われた土地が、あまりに重要な要所であったので歯噛みしていた。
その怒りで、徐州を奪ったという喜びが霞んでしまった。
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