謀略の手伝い

 許県を許昌と改称を終えた後、曹操は朝廷に上奏文を出した。


 自分の直臣達を要職に就ける中、曹操自身は大将軍の職に就いた。


 国政に関する政策全般を統括する官である三公の司徒・太尉・司空に匹敵する重職であり、外戚勢力の者がこの職に任ぜられる事が多い官職であった。


 献帝の先代に当たる霊帝が何皇后の兄の何進が、大将軍を務めていたのが良い例だ。


 曹操の息子である曹昂が万年公主である劉吉を妻にするという理由で、自らその職に就くように上奏した。


 董昭の手回しと曹操の威光を恐れ、朝廷の重臣達に反対を述べる者は居なかった。


 大将軍兼武平侯に封じられ、曹操の権威は朝廷の内外に轟いた。


 国の隅々まで響いたと思われたが、其処に袁紹から手紙が届いた。


 手紙の内容は、美辞麗句を並べ立てているが、朝廷を好き勝手に振舞う事に憤慨している事が書かれていた。


 その文を読んだ曹操は袁紹とは長い付き合いの為か、袁紹が何の為にこの手紙を送ったのか分かっていた。


(袁紹め。私が大将軍の職に就いた事が気に入らない様だな)


 四代に渡って三公を輩出した名門ではあるが、袁一族の者達の中で大将軍の職に就いた者は居なかった。


 それが、宦官の孫である曹操がその職に就いた事が気に入らない様だと手紙から察した曹操。


「……荀彧よ。この手紙を読んでどう思う?」


 曹操は、側に居た荀彧に手紙を見せた。


 手紙を端から端まで目を通した荀彧は手紙を畳むと、ほくそ笑んだ。


「袁紹の心の狭さがよく分かりますな」


「確かにな」


 荀彧がそう述べたのを聞き、曹操は大笑した。


「…とは言え、今我等は東に呂布と劉備、南に劉表という敵を抱えている。此処で袁紹まで敵に回すのは愚策だな」


「その通りにございます。ですので、此処は譲歩するのが良いかと」


「譲歩?」


 荀彧が言う譲歩とは何なのか分からず首を傾げる曹操。


「はい。董昭殿が進言した、官職を退き、別の官職に就くのです」


「おお、あれか。丁度良い。私が退いた後の後任は袁紹を推薦するか」


「それが宜しいかと」


 曹操の提案に荀彧は頷いた。


 これにより、袁紹には自分は格下だと伝える事が出来ると思われた。


 袁紹からの手紙が届いた後に、官職を退けば余計にそう思えた。


 曹操は早速上奏文を出した。


 大将軍の職を退き、後任を袁紹に推薦した。そして、自分は司空の職に就く旨が書かれていた。


 朝廷はすぐさまその上奏を認めて、袁紹の下に大将軍の印綬と詔が届けられた。


 袁紹は印綬を貰った事を大層喜んだ。曹操の思惑など知らずに。




 都造りが着々と進む中、仕事を終えた曹操は屋敷の中にある庭で、無言で何かを考えていた。


 思考の海の中に陥っている曹操に声を掛けた。


「如何なされました。物思いに耽っている様でしたが?」


 曹操は声を掛けられた方に身体を向けた。其処に居たのは荀彧であった。


「荀彧か。いや、何、少し思うところがあってな」


 曹操はそれだけ言って庭を歩いた。


 荀彧はその後を音も無く影のように付いて行った。


「何か気になる事でもあるのですかな?」


「……呂布の事だ。あ奴は豫洲の沛県を中心に勢力を拡大させておる。このままにしておけない。だが」


 曹操は其処で言葉を区切り溜め息を吐いた。


「だが、今呂布は劉備と手を結んでいる。呂布を攻めれば、劉備が援軍を出すであろう。呂布が敗れれば、次は自分が狙われると分かっているからな」


「劉備は関羽、張飛という剛の者を義弟にしております。我が軍の勇将、猛将達が相手でも倒すのは至難。其処に呂布と麾下の歴戦の名将達も加われば、苦戦必至ですな」


 荀彧の分析に曹操も同意見なのか頷いた。


「それに、今は都造りで金を使っている。そんな中で戦を仕掛けるのは不利だ。荀彧よ、何か策は無いか?」


 古の軍師の字で呼び称える程に頼りにしている参謀の荀彧に訊ねる曹操。


「では、劉備と呂布の二人を自滅させるのは如何ですか」


「ほぅ、その様な策があると?」


 曹操は興味が湧いたのか、荀彧が述べる言葉に耳を傾けた。


 話を聞き終えた曹操は荀彧の策を行うように指示した。


 その場には曹操達の他に別の者もおり、よもや曹操達の話を聞いているとは思いもしなかったであろう。




 場所を移して、曹昂の屋敷。


 その屋敷にある離れでは、曹昂が曹操達の話を聞いていた者の報告を聞いていた。


 その者は近隣の情報収集をして、曹操に伝える為に屋敷に出向いていた時に偶々、曹操達に話を聞いていた。


 話を聞いたその者は曹操の報告を終えた後、曹昂にも調べた情報と訊いた話を報告した。


「二虎競食の計か。都造りで戦を仕掛けられないから謀略で、両者を自滅させるか」


 愛鳥の重明に餌を与えながら報告を聞いた曹昂。


 与える肉片を素直に受け取り食べる重明を見ていると、野生であった重明が此処まで懐いてくれた事に感慨深そうであった。


「劉備に徐州州牧の地位を与える代わりに、呂布を討てという密書を送るか。上手くいくのか?」


 話を聞いていた董白は聞き終えるなり、曹昂に訊ねた。


「う~ん。劉備の器量次第かな」


 本当は、失敗すると知っているが口には出さない曹昂。


 話しても、信じて貰えるか分からないからだ。


「それで、お前は何かするのか?」


「勿論。父を助けるのは、子の義務だよ」


 曹昂はそう言って報告した者を見て、ある事を話した。


 それを聞いて董白達は驚いたが、曹昂は笑みを浮かべるだけであった。



 徐州下邳国下邳県。


 其処は今、陶謙から徐州州牧の地位を譲られた劉備が本拠地に定めた土地であった。


 陶謙が州治を行っていた郯県ではなく、下邳県にした理由は三つ。


 一つは下邳県が徐州でも要害である事に加え、北と西と南の行き来が難しくないという地理的条件がある為。


 もう一つは先の曹操軍の襲来で他の県城に比べると、この城の被害が少なかった事。


 最後に郯県は徐州に曹昂軍が襲来してきた時に落城し、修復が済んでいなかった事と城内に暮らしている者達が落城した事に怒りを覚えていると予想したからだ。


 この三つの理由で、劉備は下邳県に居を構えていた。


 そんな劉備の下に、朝廷からの使者がやって来た。


 徐州州牧に任ずる詔を読み上げる使者。劉備は感涙しながら使者の言葉を聞いていた。


 朝廷に自分の功績が認められた事を嬉しく思っている様であった。


 そんな、劉備に使者は詔と共に手紙をそっと渡し去って行った。


 その手紙を読むと、直ぐに家臣達を集めた。




「皆、この手紙を見てどう思う?」


 劉備はそう言って城の一室に集めた百官達に使者から渡された手紙を受け取る。


 百官達の一人がその手紙を読むと、他の者達も身をくっつけながら手紙を読んだ。


「うっ、これは」


「呂布を討てという密命っ」


 手紙の内容を見て顔色を変える者達。


 そんな中で、張飛は喜んでいた。


「それは良い。直ぐに兵を集めて呂布の首を討とうぜっ」


 張飛はそう言うなり、部屋から出て行こうとしたので、関羽が張飛の襟首を掴んで止めた。


「馬鹿者。何をするつもりだっ」


「決まっているだろう。あの呂布を討つ為に兵を集めるんだよっ」


 張飛は何で、そんな事を訊ねているんだと言わんばかりの顔で関羽に応えた。


 それを聞いた関羽は叱りつけた。


「馬鹿者っ。勝手な行動をとるでない!」


 雷の様な怒号を聞いても、張飛は平然としていた。


「でもよ。あんな奴を何時までも、側に置いておけないだろうっ。此処はその密命に従って討ち取るべきだぜっ」


 張飛は自分の意見は間違っていないと言わんばかりに、関羽の拘束から逃れながら述べた。


「呂布のした事を考えてみろ。馬欲しさに義父の丁原を殺したと思えば、高い地位に就きたいが為に義父の董卓を殺し、曹操が居ないと思い込んでいた兗州を乗っ取ろうと攻めたのだ。そんな奴が信用できるものかっ」


 張飛が思っている事を告げると、それに同調する者が現れた。


 力強いキリっとした目を持ち、整った顔立ちをしており立派に整えた口髭を生やしていた。


 この者の名は陳羣。字を長文と言い、歳は三十代半ばであった。


 陳羣の家は名家であったが、度重なる戦乱により父と共に徐州に移り住んだ。


 そして、劉備が陶謙から州牧の地位に就いた際、広く人材を求めた。その応募で劉備に仕えた。


 劉備も陳羣を別駕として、登用し重く用いていた。


「私も張飛殿と同意見です。我等は北は臧覇。西は呂布。南は袁術という敵を抱えています。此処は命令に従うという大義名分により、呂布を討ち取るべきです」


 張飛は自分の意見と同じ者が居ると分かり、胸を張った。


「二人の意見は分かった。だが、依る所も無く頼って来た呂布を討ち取るなど、私は呂布以下であるという事を世間に知らしめる事となる」


 まだ、徐州の州牧に就いて日が浅く、完全に徐州を支配下に治めたとは言えなかった。


 琅邪郡の太守となった臧覇は劉備の命令に従う様子が見えず、袁術との仲もしっくりといっていない。


 そんな中で呂布と揉めるような事になれば、自滅する事も考えられた。


 そう考えた劉備は呂布を討ち取る事はしなかった。


「しかし、朝廷からの命令ですので、無視する事は得策ではないと思います」


「朝廷……いや、これは」


 それだけ言って劉備は口を噤んだ。


「この件は、私が結論を出すまで返事は保留とする」


 そう言って皆を解散させた。




 その数日後。


 曹操軍の襲撃により被害を受けた県の視察に出ていた盧植が戻って来た。


 劉備は戻って来て直ぐの盧植を呼んだ。


「視察から帰って来て早々、休む間もなく呼び出して申し訳ありません。先生」


「なに、気にするでない。それで呼んだ理由を聞こうか」


 盧植がそう訊ねたので、劉備は懐から手紙を出して見せた。


 その手紙を受け取った盧植は手紙に無言で目を通した。


「……これは明らかに謀略だな」


 手紙を読むと直ぐに謀略だと看破する盧植。


「先生もそう思いましたか? 私もそう思い怪しんでいたのです」


「恐らくこれは二虎競食の計であろう」


 盧植が計略を言っても劉備はポカンとしていた。


 兵を率いているからと言っても、それほど兵法に詳しくない劉備。


 そんな劉備を見て盧植は目を細める。


「お前は儂の授業をちゃんと聞いていたのか? 州牧になったので、少しばかり偉くなった事で、書物を読む事を怠っていた様だな」


 盧植は、手が掛かる奴めと言わんばかりに溜め息を吐いた。


「先生。書物は読んでいましたが、流石に諳んじる程は」


 苦笑いしながら言う劉備。


「まぁ、仕方がないか。兎も角、これは曹操がお主と呂布を共倒れさせる為の計略だ」


「そうでしたか。では、どうすれば良いでしょうか?」


 劉備は方策を尋ねると盧植は少し考えだした。


「……そうじゃな。此処は時機を見るので、それまで待つ様にと返事を送れば良い。さすれば、曹操は何もしてこぬだろう」


「流石は先生です。今後ともよろしくお導きを」


 盧植に話をして良かったと思い、安堵する劉備。


 其処に兵が慌てて部屋に入り報告して来た。


「申し上げますっ。今、訪ねて来た呂布殿を見た張飛様が剣を抜き、襲い掛かっております!」


「馬鹿者がっ」


 張飛の行動に呆れる劉備。


「呆けている場合ではないぞ。劉備よ。急いで関羽を呼んでくるのだっ」


「はいっ」 


 盧植に促され、劉備は直ぐに関羽を捜しに向かった。


 そして、関羽を見つけると共に張飛達の下に向かい、張飛を怒鳴りつけて下がらせた。


 劉備は謝罪して事を収めた。




 下邳を後にした呂布は沛県への帰路についていた。


 馬に揺られながら進む呂布は考えていた。


 最初、朝廷から劉備が徐州州牧に任じられたという話を聞いたので祝いに向かった。その時に張飛が出会うなり斬り掛かって来た。


(朝廷が俺を討てと言う命令を出すとはな。曹操め。余程、俺が憎いと見える)


 張飛と鍔迫り合っている時にポロリと零した。


 呂布はそれを劉備に問い質すと、劉備はすんなりとそういう手紙が来た事を認めた。


 だが、呂布を害する気持ちは無いと告げたので、呂布はその場は信じると言って、州牧に任じられた事に祝いの言葉を述べて帰った。


(劉備も今は私を殺すつもりは無い様だが、その内殺すかもしれんな)


 義弟の張飛が斬り掛かって来たのでそう思う呂布。


 張飛とは戦場で戦った事はある。だが、それ以上の接点など無かった。


 なので、斬り掛かられる恨みなど無いと言えた。


「……劉備があそこに出て来たのもおかしい。あまりに都合が良すぎる。もしや、何処かで見ていて、そして、私に恩を売る為に出て来たのでは?」


 義弟の張飛が斬り掛かってきて、其処に劉備が出てきたのがあまりに都合が良いので、もしやと思い呟く呂布。


 考え過ぎだと思いはするが、しかし、一度疑い出すと、呂布はどうにもその考えを振り払う事が出来なかった。


「殿。城に着きますぞ」


 護衛として付いて来た兵が進言すると、思考の中であった呂布は気を取り戻した。


「ああ、すまんな」 


 教えてくれた兵に礼を述べ、呂布は考えるのを止めた。


 そして、城内に入り内城に入ると、馬から降りた呂布。


 手綱を部下に預けると、其処に陳宮がやって来た。


「殿。お帰りなさいませ」


「うむ。留守中変わりなかったか?」


 呂布がそう訊ねると、陳宮は口籠もらせた。


 何も言わないので呂布は怪訝な顔をしていた。


「何かあったのか?」


「……はい。殿宛てに届け物が」


「私宛てに?」


 呂布は首を傾げた。


 この地で届け物をする程親しくしている者など居ないからだ。


「誰からか分かるか?」


「はい。殿。驚かないで下さい。送り主は曹操の息子の曹昂にございます」


「なにっ⁉」


 陳宮が告げた名前に呂布は耳を疑った。


 


 本作では陳羣は160年生まれとします。

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