共時性

献帝と百官を連れて何の憂いも無く進む曹操一行。


 空は雲一つ無く蒼く澄んでいた。


 それはまるで、曹操の道には、何の憂いも無いと天が告げている様であった。


 洛陽を出発した一行であったが、そのまま許県へ向かうのではなく、濮陽を経由して向かうという道順となっていた。


 濮陽は曹操の本拠地にしていた地の為、一族がその地で暮らしていた。


 別々に許県へ向かうよりも、合流してから許県へ向かう方が手間が掛からないという事で決まった。


 その分時間は掛かるのだが、曹操が決めたという事で、献帝ですら文句も言わなかった。


 それだけ、曹操の権力が強いという事を示すのは十分な事であった。




 数十日後。




 曹操一行は濮陽へ到達した。


 留守居役として残った程昱が城外にて出迎えた。


 献帝と妃達と百官達を城内に案内しに行く際、程昱は曹操に話し掛けてきた。


「殿。天子は既に我等の掌の中にございます」


「そんな事、言われずとも分かっておる」


 当たり前の事を言う程昱に曹操はその言葉の意味を測りかねていた。


「ですので、急いで許県へ向かう事はしなくても良いと思います。洛陽から濮陽まで来るのに長距離の移動をしてきましたので、天子と百官の皆様も疲れておりましょう。此処は数日休みを取ってから、許県へ向かうべきと思います」


「……ふむ。それもそうだな」


 程昱の進言を尤もだと思い、曹操は暫くの間、濮陽で休む事にした。


 献帝にも上奏すると反対せず受け入れられた。


 


 許県へ向かう前に、暫し休息する事となったので、曹昂は良い機会だと思い母である丁薔に万年公主を紹介しておくべきだと、万年公主を連れて丁薔の元へと向かった。


 万年公主と共に廊下を歩く曹昂。


 歩く速度を万年公主に合わせる曹昂は、ちらりと後ろを向いた。


 流石に公主という事でか、挨拶に行くだけというのに、女官達がしづしづと付いて来ていた。


 霊帝の唯一の皇女という立場なので仕方がないと思いはするが、煩わしいなと思う曹昂。


「どうかされました?」


「いえ、大した事ではありません」


 万年公主が後ろを見た曹昂に訊ねて来たので、曹昂は首を振った。


 付いて来る女官達を見ても万年公主は何とも思っていない顔なので、これも生まれた環境の違いだと思い知るだけであった。


「ところで、これからお会いになる御方は曹昂様とはどういう関係で?」


 万年公主がそう訊ねてきて、前以て言う事を忘れていたと思う曹昂。


「ああ、教える事を忘れていましたね。これから会う方は、私を育ててくれた御方で名前を丁薔という方です。父の側室でしたのですが、正室で僕を生んだ母は僕が物心のつく前に亡くなりました。その死んだ母と丁薔は普段より仲良くしていまして、その縁で私と弟と妹とを引き取り養育してくれたのです」


「そうなのですか。では、その弟とは曹丕という方なのですね」


 濮陽に着いた際、卞蓮が出迎えに来てくれた。


 その際に曹丕も共にいた。ついでとばかりに曹昂が万年公主に紹介した。


「ああ、曹丕は違います。丁薔の母上が正室になった際に、父が側室として迎えた卞蓮様が産んだので、正確に言えば腹違いの弟です」


「えっ、ではその弟様は?」


「……弟は曹鑠と言うのですが。元々、病弱という事でか、僕が幼い頃に亡くなりました」


「これは、不躾な事を聞いて申し訳ありません」


 万年公主は無神経な事を聞いたと思い頭を下げた。


 曹昂は気にしていないのか手を振る。


「お気になさらずに。亡くなって、もうかなり年月が経っていますので」


 表情には出さないが、内心ではもう少し話がしたかったという思いがある曹昂。


 万年公主は丁薔がどんな人なのか訊ねただけなのだが、重い話に変わってしまい気まずそうな顔をしていた。


 空気が重くなったので曹昂は空気を変える為に話題を振る。


「公主様は礼法が得意と聞きましたが」


「ええ、まぁ、皇族として儀式に参加する事がありますので」


「それは良い」


 曹昂が笑みを浮かべるので、万年公主は首を傾げる。


「実は同母妹に曹清という者が居るのですが、これがまた少々お転婆で」


「はぁ」


「習い事を疎かにするところがありまして、このままでは嫁の行く宛てが無くなると、父と母が嘆いていましてね。其処で、公主が礼法を教えて頂けるでしょうか」


「私がですか?」


 万年公主が自分を指差しながら訊ねて来たので、曹昂は頷いた。


「公主様であれば妹も逆らう事などしないと思いますので、御願いできないでしょうか?」


 曹昂が頭を下げて頼むので、万年公主は困った顔をしていた。


 様々な事情が重なったとは言え、夫となる者の願いを無下にするのは心情的に出来ない様であった。


 だが、自分が教えても良いのかどうか分からないので返答に困っている様だ。


「……まぁ、考えておいて下さい」


 悩んでいる万年公主を見て困らせる事ではないと思い曹昂は答えを保留にした。


 そして、二人は歩き出した。




 廊下を少し歩いた二人は丁薔が居る部屋の前まで来た。


 程なく、使用人により二人は部屋に通された。無論、連れて来た女官は部屋の前で待たされた。


 使用人の後に付いて行く曹昂達。


 万年公主は緊張しているのか、表情が硬かった。


 それを見た曹昂は万年公主の手を握った。


 手を握られた万年公主は驚いて、曹昂を見た。


 曹昂は微笑んだので、釣られて万年公主も微笑みだした。


「……仲が宜しい事で」


 そう声を掛けて来たのは椅子に座る丁薔であった。


 何時の間にか、丁薔の前まで来ていた事に驚き、二人は顔を赤くしながら慌てて手を離した。


「薔よ。そう揶揄うでない。何とも初々しいではないか」


 丁薔の隣の席には曹操がおり、顔を赤くしている曹昂達を見て笑っていた。


 意地悪い笑みを浮かべる曹操を見たが、曹昂はとりあえず無視して気になった事を訊ねた。


「何故、父上まで居るのですか?」


 丁薔には万年公主を連れて会いに行くと伝えたが、その席で曹操とも会うとは聞いていなかった曹昂が訊ねた。


「ただの偶然だ。私が薔の部屋に来た時にお前達が来ただけの事だ」


 曹操は偶然だと言うが、曹昂からしたら信じられない思いであった。


 休息を取っているとは言え、許県へ向かう為の準備に忙しい筈の曹操が此処に居るのを見て、何かあるのではと思う曹昂。


 曹昂が怪しんでいるのを見て、曹操は万年公主を見る。


「公主様に置かれましては御機嫌麗しゅう。如何ですか? この濮陽は」


「ええ、良い所だと思います」


 ついて、数日しか経っていない上に城から出ていないので、何が良いのか分からないのにそう言う万年公主。


 曹操もそれが分かってて訊ねるのは、話題を変える為だと察する曹昂。


(さては、仕事をほっぽって逃げ出したのか?)


 偶にそういう事をする父を見て来たので、此処に居るのもそういう理由かも知れないと思う曹昂。


 訊ねても誤魔化すと思い考えるのは止めた。今は万年公主を丁薔に紹介するのが先であった。


「母上。お話を聞いているでしょうが、この度、僕の妻になる事となりました万年公主にございます」


 曹昂が手で示しながら紹介する。


 紹介する前から、丁薔は万年公主を見ていたが、気にしなかった。


 紹介された万年公主は頭を下げた。


「お初にお目に掛かります。私は霊帝の公主にして、現帝の姉になります。姓は劉。名は吉。字を亀姫と申します」


 万年公主の名前と字を初めて聞いた曹昂は、そういう名前なんだと思い聞いていたが、曹操と丁薔は違った。


 名前を聞くなり、とても驚いた顔をしていた二人。


 まるで、有り得ない事が起こったという顔であった。


「? どうかしました?」


「い、いえ……」


「うむ。いや、公主様のお名前を初めて聞いたので驚いていたのだ。とても」


 曹操達が驚いているのは分かったが、万年公主の名前を聞いて其処まで驚く事なのかと思う曹昂。


 何かあるのでは?と思い、訊ねようとしたが、先に曹操が口を開いた。


「公主様の母君はどの様な御方なのですかな? 私はとんと聞いていませんので気になっております」


 曹操がそう訊ねて来たので、曹昂の興味はそちらに向いた。


 丁薔も同じ思いなのか、興味が湧いた顔をしていた。


「……その、言い辛いのですが、宋皇后です」


「なにっ⁉」


 万年公主こと劉吉から出た名前を聞いて驚く曹操。


 曹昂は首を傾げた。


「誰ですか?」


「霊帝陛下の最初の皇后よ。でも、廃位され暴室送りになり、程なく急死したと聞いているわ」


 宋皇后とは誰なのか分からない曹昂に丁薔が説明した。


「成程。ちなみに、廃位された理由は?」


「私も知らないわ。噂ではある宦官の讒言により廃位されたと聞いているわ」


 丁薔も詳しくは知らないのか、それだけしか言わなかった。


「しかし、宋皇后が皇后に立てられたのは建寧四年西暦百七十一年だ。失礼だが、公主様の生まれは?」


「私は建寧二年西暦百六十九年になります」


 劉吉の生年を聞いて、三人は首を傾げた。


 三人は顔を寄せて、小声で話し合った。


「霊帝陛下は確か永寿二年西暦百五十六年生まれだった筈だ」


「でしたら、建寧二年の時は十三歳」


「幾ら何でも、早過ぎません?」


 曹操達は、劉吉に聞かれない様に小声で話し合っていた。


「あの……話を続けても良いですか?」


 劉吉が顔を寄せて話し合う三人に声を掛けた。


 その声を聞いて、曹操達は話すのを止めて劉吉を見る。


「失礼しました」


「話の腰を折って申し訳ない」


「少々、驚くべき事でしたので」


 曹昂達は頭を下げる。


「いえ、驚くのも無理はありません。ただ、父と母はお互いに夫婦とは思っていないでしょうね」


「と言うと?」


 劉吉の言葉に曹昂達は意味が分からず首を傾げる。


「父はその執金吾であった祖父の宋酆の娘が美女という話を聞いて、宮殿の外で出会い戯れで、一夜を共にしたと聞いております」


 劉吉の言葉に衝撃を受けて言葉を無くす曹昂達。


「子供の頃の父は、桓帝の皇后の竇妙様。大将軍竇武様。太傅陳蕃様の御三方に政治を任せて、自分は皇帝になれた事に浮かれて好き勝手にしていたそうです。その時に私が出来たのです」


「それで?」


「皇帝の子供が後宮の外に生まれたとあっては問題という事となり、母は直ぐに後宮に入れられ、私を産んで貴人の位を貰いました。その後、皇后に立てられました。父からしたら、戯れで手を出したので特に寵愛する事も無かった様です」


 劉吉の話を聞いて、曹操は手で顔を覆いながら溜め息を吐いた。


「まだ十三歳で子供を作るとは、私でも出来んな。しかし、大して名家でもない執金吾の職に就いていた宋酆殿の娘が皇后になった理由が、その様な理由とは」


「出来た方がおかしいのですっ! しかし、公主様も大変でしたのですね」


「いえ。私の事はどうぞ、劉吉とお呼び下さい」


「は、はい」


 流石に公主を名前で呼ぶのは憚られるのか、曹操も丁薔も顔が引きつっていた。


 二人の表情を見た曹昂は助け船を出した。


「公主様。まだ、正式に婚姻を結んだ訳ではありません。ですので、まだそう呼ぶのは早いと思います」


「そうでしょうか?」


「ええ、ですので、そう呼ぶのは婚姻を結んだ後で」


「分かりました」


 曹昂がそう言うので劉吉は従う事にした。


 それを見て曹操達は安堵した表情を浮かべた。


 その後、暫し四人は雑談に興じた。




 暫くして、曹昂達が挨拶を終えて部屋を出て行った。


 部屋には曹操と丁薔の二人が残っていた。


 二人は茶を啜っていた。


「……のぅ、薔」


「はい。旦那様」


「さっきの話は驚いたな」


 曹操は劉吉の話を聞いて驚いていた。話を聞いていた丁薔も同じ思いだと思い訊ねた。


 丁薔も同じ思いなのか頷いていた。


「そうですね。私としては、旦那様よりも女性に手を出すのが早い御方がこの世にはいると知り驚きました」


「ははは、嫌味を言うでない。まぁ、同感だがな」


 僅か十三歳で女性に手を出すという事など、流石の曹操も出来なかった。


「そうなのですか⁉ てっきり、その頃には女性に手を出していると思いました」


「そんな訳があるか」


 丁薔が笑えない冗談に、曹操は違うと断言した。 


「まぁ、そうですね。でも、一番驚いたのは」


 丁薔は溜め息を吐いた。曹操達からしたら劉吉の出生よりも驚いた事があったからだ。


「劉吉か。まさか、その名前をもう一度聞く事が出来るとはな」


 曹操がそう呟くと、丁薔も同じ思いなのか頷いた。


 曹操は茶を飲むのを止めて、空を見た。


「まさか、曹昂達の母親であった夫人と同じ名前とはな」


 曹操達が驚いたのは、それであった。 


 まさか、劉夫人の名前をもう一度聞く事が出来るとは思いもしなかった曹操。


「わたしも本当に驚きました。まさか、劉姉さんと同じ名前の人がいるとは思いませんでした」


 丁薔は立ち上がり曹操の側に立った。


「これも姉さんのお導きでしょうか?」


「分からん。だが、これもあいつのお蔭かも知れんな」


 曹操はそう言って空を見続けた。


 丁薔も釣られる様に空を見た。


 其処には今は亡き劉夫人こと劉吉の顔がある様であった。


 余談だが、曹昂は生みの母の名前を知らなかった。


 曹操が曹昂に劉夫人について話さなかったのは、曹昂を育てた丁薔への優しさ故であった。


 無論、劉夫人にも愛情はあった。無ければ、夫人との間に子供を作ろうとしない。


 だが、曹操はあくまでも曹昂の母は丁薔だけ。


 そう思って欲しいので、劉夫人の話をしなかったのだ。

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