憂いなく
翌日。
朝早いにも拘わらず、曹操軍の陣地の数ある天幕の一つに、麾下の文官武官が勢揃いしていた。
先程まで眠っていたのか何人かは目を擦り、眠気を覚まそうとしていた。
上座に座る曹操は、その者達を見ても何も言わなかった。
今はそれよりも、重要な人物が目の前に居るからだ。
その者は満寵と共に、陣地にやって来た徐晃であった。
「よくぞ来てくれた。お主の様な勇者をあのまま楊奉の様な愚か者に仕えたままにさせるのは惜しいと思っていたぞ」
曹操は計略通りとは言え、来てくれた事に歓びを感じている様であった。
「はっ。敵の配下であった私をこうして迎え入れて下さり感謝いたします」
「何を言う。その様な事は些事に過ぎん。お主が我が下に来るだけで、ここ最近、一番の喜びだ」
曹操は帰順した徐晃を騎都尉に任じた。
官職に就いた徐晃は、恐縮していた。
計略により寝返らされる事となったとは言え、一度は刃を交えた自分を此処まで歓待する様は、まるで女を愛するかの様であった。
此処まで優遇されているが、徐晃はどうしても言わなければならない事があった。
「……大変申し上げづらいのですが。どうか、お聞き届けいただけないでしょうか?」
徐晃があまりに悲壮な表情を浮かべた。その表情を見て曹操は言うように促した。
「私が曹操殿の下に降った事は、近い内に楊奉の耳に入るでしょう。御願いにございます。楊奉と戦をするのであれば、私を戦列から外して頂きたく思います」
徐晃の口から出た衝撃的な言葉に、天幕の中に居た者達は全員驚愕した。
要するに徐晃は楊奉と戦いたくないと言っているのだ。
それは帰順した意味が無い上に、曹操に忠誠心を持っているのか疑わしいと言える事であった。
「貴様、何を言っているっ⁉」
「何の為に帰順したのだっ!」
徐晃の言葉を聞いて、周りの者達はいきり立った。
連れて来た満寵は顔を青くしていた。
徐晃を寝返らせた功績で恩賞を貰えると思っていたが、徐晃の言葉でそうならなくなりそうであったからだ。
それどころか下手をしたら、自分の首と胴体が泣き別れする事も有り得る状況であった。
周りの者達が罵倒されながらも徐晃は毅然としていた。
「静まれ!」
騒がしい声が聞こえる中で曹操も、その声に負けない位の大きな声を上げた。
その声を聞いて、皆、徐晃を罵倒するのを止めた。
「徐晃よ」
「はっ」
「お主の気持ちは分かった。しかし、それではお主は私にどのように忠誠を示すのだ?」
曹操は怒りもせず罵倒もしないで、優しく語り掛けた。
徐晃は頭を下げながら述べた。
「武官である私は戦場に出て、武功を立てて忠誠を示すだけにございます。ですが、今の主に忠誠を示す為に嘗ての主に刃を向けるのは義が立ちません。此度だけで良いのです。どうかお聞き届けを」
徐晃が楊奉と戦いたくない理由を述べると、罵倒していた者達の何人かは気持ちは分かると思い唸るしかなかった。
「成程。そういう理由であったか。ならば良い。お主は陛下の身を守るのだ」
「はっ。お聞き届け下さり感謝に堪えません」
曹操が徐晃の申し出を聞き入れたので、徐晃は額が地面に付かんばかりに頭を下げた。
「うむ。下がって休むが良い」
「はっ」
曹操が下がるように命じるので、徐晃は曹操に一礼し天幕から出て行った。
徐晃が出て行くのを見送ると、曹操は居並んでいる家臣の列にいる董昭を見た。
「董昭よ。お主の計略通りに行ったな。見事であったぞ」
「ありがたきお言葉にございます」
曹操が称賛するので董昭は頭を下げた。
「最初に韓暹と楊奉の二人に官位を与えても爵位は与えず、徐晃にだけ爵位を与える。その後で、韓暹と楊奉の軍の兵士達に楊奉と徐晃の仲が悪いという噂をばら撒き、互いに疑心暗鬼を生じさせたところに徐晃の知人である満寵を送り込む。それを知った楊奉が徐晃を害するところに、我が軍の兵を奇襲させて逃げ出させる。見事だな」
「勿体なきお言葉。ただ、韓暹と楊奉の二人が近隣の略奪を行ったのは予想外でした。兵糧ぐらいは曹操様に頼んで分けて貰うようにすると思いましたが、まさかこの様な愚かな事をするとは」
嘆かわしいとばかりに首を振る董昭。
「ですが、これは好機です。父上」
曹操の近くに居る曹昂が声を掛けた。
「好機とは?」
「韓暹と楊奉の両名が略奪を行った事を理由に官位を奪うように陛下に奏上するのです。加えて、両名の討伐の許可を上奏もしましょう。さすれば、許県に来る時には、天子を守護し奉ったのは父上だと天下に喧伝できます」
曹昂の提案を聞いて、曹操も笑みを浮かべた。
「ふむ、悪くないな。だが、そうなれば韓暹達は戦を仕掛けて来るであろうな。天子と百官を守りながらの戦とは、ちと厳しいな」
韓暹と楊奉相手に負けるつもりはないが、献帝を守りながら戦うのは難しいと考える曹操。
下手をすれば、献帝が奪われるかもしれないという懸念があるからだ。
「ご安心下さい。僕に策がございます」
「策か。どの様な策だ?」
曹操がそう訊ねると、曹昂は何の事も無いように述べた。
「どうという事はありません。密偵に韓暹と楊奉の両軍の兵糧を焼くように命じるだけですよ」
「兵糧を焼くだけだと……?」
それに何の意味があるのか分からない曹操達は首を傾げた。
曹昂は説明が必要だと思い話し出した。
「敵は兵糧に困り、略奪に走ったのです。ようやく手に入れた兵糧を焼かれたとあれば、韓暹達の兵の士気は下がりましょう。幸い、徐晃殿を帰順させる為に奇襲を行いました。敵も奇襲を受けた後に、また奇襲を受けるとは思わないでしょうから、簡単に兵糧を焼く事が出来ます」
「確かにそうだな」
曹操は頷くと、曹昂は話を続けた。
「加えて、徐晃殿がこちらに寝返った為、士気は更に下がりましょう。其処に先程申し上げた韓暹と楊奉の両名の官位を剥奪し、討伐の許可を上奏するのです。さすれば、敵は戦う事なく逃げるでしょう」
「成程な。恩賞を与えるか分からない上に、朝廷から討伐される様な者に兵は付いて来ないか」
「その通りです」
曹操の言葉が正解とばかりに、曹昂は頭を下げた。
「鬼を謀るが如き智謀ですな。流石は曹操様の御子息ですな」
「はははは、まだまだ青二才にすぎんよ」
董昭が曹昂を称賛するので、曹操も言葉とは裏腹に満更でもないのか嬉しそうに笑っていた。
「ありがとうございます。ところで、つかぬ事を聞いても良いですか?」
「何なりと?」
曹昂は先程から気になっていた事を董昭に訊ねた。
「董昭様と満寵殿はどの様な関係で?」
曹昂は其処が気になっていた。
史実では徐晃を帰順させる為に満寵は出て来るが、その満寵を曹操に紹介したのは董昭であった。
どの様な経緯で二人は知り合ったのか気になり訊ねた様だ。
「ああ、満寵とは同郷でしてね。しかも、郡を挟みますが、私が生まれた県の近くの県に生まれましてね。その有名は私も聞いておりましてね。同郷という事で食客にしていたのです」
「食客ですか。成程。ところで、満寵殿は何が有名なのですか?」
満寵の何が有名なのか知らない曹昂は訊ねると、董昭はよくぞ聞いてくれたとばかりに胸を張る。
「よくぞお聞きになられた。この満寵は十八歳の時に県の役人になり、その後、ある県の県令を代行した際、役人の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという有名な話があるのです」
董昭は素晴らしいと言わんばかりに称えるのを見て、満寵は気恥ずかしいのか顔を赤らめていた。
「止めて下さい。あの頃は、まだ若く不正が許せなかっただけです」
「この時代にその様な気持ちを持っているだけでも、十分に素晴らしい事であろうに。大抵の者は不正を知っても知らぬふりをするか、自分もおこぼれを預かろうとするであろう。それなのに逮捕する。正に官吏の鑑と言えるであろう」
董昭に褒め立てられると、身の丈が高い満寵が面白い位に身を縮こませた。
その様子を見て、曹操達は面白いのか笑い出した。
その後、曹昂は密偵に韓暹と楊奉の両軍の兵糧を焼くように命じた。
同時に曹操は直ぐに曹昂に言われた通りに、韓暹と楊奉両名の官位の剥奪と討伐を上奏した。
百官達もその上奏を知るなり、大して評議せずに曹操の上奏を認めた。
これは曹操の力に恐れたのもあるが、韓暹と楊奉の両名が元黄巾賊の残党であった事で両名を嫌っていた董承も認めたのが大きかった。
上奏が通ると、曹操は直ぐさま兵を韓暹達の下に送り込んだ。
韓暹と楊奉の両名は朝廷から官位が剥奪された上に、討伐される事を伝える旨の使者の口上を聞くなり、兵達が逃亡した。
使者が来る前に兵糧は焼かれ兵の士気が落ちていた。
それに加えて朝廷から討伐されると聞き、逃げるしかないと思った様だ。
韓暹と楊奉の両名は、逃亡する兵達があまりに多いので、戦にならぬと思い逃亡した。
残った兵達は曹操に降伏した。
これで、後顧の憂い無く進む事が出来た曹操一行は、喜びと共に許県へと向かった。
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