受難
宴が行われた翌日。
臧覇の事は曹操に任せて、そろそろ許県に戻ろうと思い支度をする曹昂。
其処に丁薔の侍女がやって来て、会いたいと言伝を貰い、曹昂は帰り支度は部下に任せて丁薔の元に向かう事にした。
侍女に案内して貰い、曹昂は丁薔が居る部屋へとやって来た。
椅子に座り茶を飲んでいる丁薔に、曹昂は一礼する。
「母上。お呼びとの事で参りました」
曹昂が声を掛けても丁薔は茶を啜るだけで、何も言わなかった。
普段であれば、会えば何かしら話してくれる母が何も言わない事に違和感を覚える曹昂。
「……本日はどの様な御用でお呼びなのですか?」
とりあえず、何か用があって呼んだのだろうと思い曹昂は訊ねた。
「……ふぅ、私に何か言う事は無いのかしら?」
無言であった丁薔が口を開いたかと思うと、そう問い掛けてきた。
だが、曹昂には丁薔が何を言いたいのか分からず首を傾げた。
「母上。おっしゃる意味がよく分からないのですが?」
「ああ、この子は……」
曹昂が訊ねると、丁薔は重い溜め息を吐いた。
溜め息を吐く丁薔を見て、曹昂はますます何の用事で呼ばれたのか分からなかった。
「……本当に私に何も言う事は無いのかしら?」
「はぁ、これと言って、何も」
「本当に?」
「はい」
「本当の本当に?」
「ええっと、はい」
丁薔が重ねて訊ねて聞いてくるが、曹昂は何か伝える事は無いと思い答えた。
「……う、うう……」
突然、丁薔の瞳から一筋の涙が流れた。
「母上⁉ どうしたのですか⁉」
「う、ううう……今日と言う今日は、母は貴方の振る舞いを見て悲しく思います。何故、その様な事を言うのです……」
目をつぶり袖で口元を隠しながら涙混じりの声を上げる丁薔。
突然、混乱する曹昂。
「母上。私が何か、母上にご不快な思いをさせる事をしたのでしょうか?」
「まだ、分からないの? 貴方は徐州征伐から帰って来てからというものの、母に一度も挨拶に来なかったではないですか……」
丁薔にそう言われて、曹昂は忙しくてすっかり忘れていたと思った。
「貴方の無事の帰還を祈っていたと言うのに、一度も顔を見せず、更には挨拶もしないで任地に帰るなど、母はその様な事を教えませんでしたよ……ぅぅぅ」
「申し訳ありませんでした。母上っ」
泣く丁薔を見て、曹昂は額を床に突かんばかりに頭を下げた。
これで曹操に挨拶していないのであれば、まだ許せるかも知れないが曹操に挨拶しているので、余計に悲しいのだろうと推察する曹昂。
「私が産んだ訳ではなく、育てただけではありますが。私は貴方を実の子同然に可愛がっていました。それなのに、そんな私を蔑ろにするなど、私は悲しくて、悲しくて…………ぅぅぅ」
「母上。私が愚かでした。どうか、どうか、平にご容赦をっ」
曹昂が謝っているが、丁薔は泣くのを止めなかった。
「私が育ての母であるから、敬う事が出来ないから、この様な行いをするのでしょう。私に対して、その様な事をする貴方を見て、貴方の生んだ母である劉姉さんもあの世で悲しんでいますよ……ぅぅぅ」
「母上。私が愚かでした。この償いはしますので、どうかお許しをっ」
もう、顔すら思い出せない生んだ母親の事を持ち出され曹昂はそうとしか言えなかった。
曹昂が頭を下げてそう言うと、丁薔の目がキラリと光った。
曹昂は顔を伏していたので、丁薔の様子が分からなかった。
「……では、貴方の孝行がどれ程の物か見せてもらいましょうか」
先程まで泣いていたと思ったら、けろっとした顔で丁薔は曹昂に言う。
「は、はい。何をすれば良いのでしょうか?」
「旦那様と一緒に濮陽からこの乗氏県に移って、それなりに日数が経ったので、気分転換に卞蓮達を集めて茶でも飲もうと思う」
「は、はぁ、それは良い事だと思います」
蝗害でこの乗氏県まで来たので、側室の者達と一緒に気分転換をするのは悪くないだろうと思う曹昂。
「あれ? と言う事は、最近父上の元に来た環桃という方と、孫某という方も招くので?」
「当然。とは言え、普通の茶請けでは気分転換にならないでしょう。だから、昂。貴方に、何か作って貰いたいの」
「はぁ、でしたら、厨房に居る料理人にそう言えば良いのでは?」
曹昂がそう言うと、丁薔は目を細めた。
「昂。私は貴方の母ですよ」
「何故今更そんな事を言うのです?」
先程からさんざん自分でそう言っていただろうにと思いながら答える曹昂。
「母を母と思い、そう言うのであれば、応えるのが子というものですよ」
「はぁ、そう言われればそうですが」
「それに、旦那様にはくりぃむぱふとか言う物を出したのでしょう。母はどの様な物なのか味わってみたいのです」
「何処から、その話を聞いたのですか?」
「昨日、旦那様とお会いした時に、髭に黄色い物や白い物が付いていたので、気になって訊ねたら、食後の菓子に出た事を教えてくれたのです」
それを聞いて、曹操は丁薔に会うまで髭にクリームが付いている事に気付いていなかったのだと思った曹昂。
三人がクリームパフの中身やクリームの量について、髭にクリームをつけながら口論を交わしているのを見て曹昂は笑うのが堪えきれず、中座したので、宴が終わっても曹操の髭にクリームが付いている事を知らなかった。
「という訳で、昂。そのくりぃむぱふと他に何か作って茶請けにして頂戴ね」
「はい。分かりました。あの、その茶会は何時頃行うので?」
「六日後に行う予定よ」
「分かりました。では、茶会に出す菓子を用意します」
「お願いね。用はそれだけです。下がりなさい」
丁薔にそう言われて、曹昂は一礼し部屋を出て行った。
部屋を出て、数歩ほど歩くと、曹昂は思った。
(あれ? これってもしかして嵌められた?)
泣いていたと思ったら、直ぐに泣き止んだ丁薔。
加えて、茶会を開くので、くりぃむぱふを茶請けにする様にと言うのを聞いて、そうとしか思えなかった。
曹昂は丁薔の強かさに言葉を無くした。
(でも、実際、忙しくて挨拶に行かなかった事が原因だろうな。元を辿れば、僕が原因か。母上に文句を言えないか)
戦から帰って来たと言うのに挨拶もしなかった自分が悪いと思い、曹昂は丁薔に言われた事を行う事とした。
曹昂が丁薔の部屋を出たのと同じ頃。
乗氏県の城の中にある一室。
其処では程立と蔡邕の二人が向かいあって茶を飲んでいた。
「……ふぅ、お互い話が尽きませんな」
「ですな」
二人が茶を飲みながら、何の話をしているのかと言うと、自分の娘の事であった。
片や一度も嫁に行った事がない二十代の娘を持つ程立。
片や嫁に行ったが、夫と死別して出戻りになった娘を持つ蔡邕。
お互い娘の事で頭を抱えているという共通の問題を持っている事からか、仲良く話が出来る二人。
二人共、余暇が出来た時は、こうして集まり娘の事で話し合っていた。
「儂の娘は気立ては良いのだが、気が強い性格が災いして、誰も嫁に取ろうとしないのでな」
「私の方も出戻りという事でか、長女の伝手を使っても誰も娶ろうとしないのです」
程立達はそう言って、困った様に溜め息を吐いた。
そして、二人は娘の事で愚痴を言っていると、其処に貂蝉がやって来た。
許県から乗氏県へと財宝が運ばれる際、護衛の刑蟷と共に付いて来たのであった。
「失礼します。伯喈様。曹昂様の言伝を伝えに参りました」
「そうか。殿は何と?」
「所用が出来たので、許県に帰るのは遅れるとの事です」
「分かった。私から、皆に伝えておこう」
「お願いします。ところで」
貂蝉は一礼しながら程立と蔡邕の二人を見た。
「御二方は何のお話をしているのですか?」
程立と蔡邕の二人はあまり接点が無いので、話しているのを見て気になった貂蝉。
「ああ、これはな」
「私達の娘の事でな」
程立と蔡邕の二人は大した事ではないと言いたげに言うが、それを聞いた貂蝉は首を傾げたが、直ぐに何か察したような顔をした。
「ああ、程丹様と蔡琰様の事ですね。もう、御二人がした事がお耳に入ったのですね」
「「うん?」」
「ご存じないのですか? 曹昂様が徐州征伐に向かう前に御二人が曹昂様のお部屋で一夜を明かした事を」
貂蝉は知っているのだと思い言うが、程立達からしたら寝耳に水の事であった。
それを聞いた瞬間、程立達はお互いの目を見る。
「程立殿っ」
「うむ。これこそ、正に天啓。娘は若君の事を気に入っている様だからな。これは良い」
二人はこれは幸いとばかりに笑い出した。
貂蝉は二人が何を笑っているのか分からず首を傾げていた。
翌日。
本拠地の濮陽から乗氏県へ移動したとは言え、州牧である曹操の元には各郡からあらゆる報告が齎される。
特に蝗害を被った県などには、現地の役人から送られてくる報告書は膨大であった。
それを一つ一つ荀彧などの文官達と相談しつつ対処を行った。
そうした対処の片が付き、曹操は休憩を取っていた。
丁薔の元に赴き、膝枕をされながら耳掃除をしてもらっていた。
「…………ようやく、落ち着けるな」
「そうですね」
耳を掃除されて、気持ち良さそうに目を細める曹操。
丁薔も茶会の事は曹昂に任せて、自分は気楽に構えていた。
「そうそう、旦那様」
「何だ?」
前以て話していなかったので、今の内に話そうと思い声を掛ける丁薔。
話しながらするのは危ないと思ったのか、耳から耳かきを退けた。
「そろそろ、落ち着いてきたので、妹達と共に茶会を開こうと思います」
「ふむ。そうだな」
正室である丁薔が言う妹達とは卞蓮を含めた側室達の事だ。
それを聞いた曹操は少し考えたが、問題ないと思ったので頷いた。
(これを機に、薔にもあの二人とも親しくして欲しいからな。良いだろう)
曹操はそう思い、丁薔に茶会を開かせる事を認めた。
「良いだろう。お前の好きにしろ」
「ありがとうございます。お時間があれば、旦那様も来られても良いですよ」
「時間が出来たらな」
二人はその後雑談を交わしていると、侍女が部屋に入って来た。
「失礼します。伯喈様と仲徳様の御二人がお話があるとの事で、参っております」
「程立と蔡邕の二人が? ふむ。何用であろうか?」
曹操は身体を起こして、二人が来た理由を考えたが分からなかった。
「……まぁ良い。通すが良い」
とりあえず、会おうと思い曹操は侍女に二人を部屋に入れる様に命じた。
侍女は一礼し出て行くと、直ぐに程立達を連れて来た、侍女は一礼し部屋を出て行った。
「御寛ぎ中、失礼いたします」
蔡邕が頭を下げながら、訪ねて来た事について謝った。
「何を言う。御二人が来たのだから、何かしらあって来たのだろう。薔。済まぬが、席を外してくれ」
「分かりました」
「ああ、いえ。奥方様にもお聞きして欲しい事ですので、どうぞ、そのままで」
程立が部屋を出て行こうとする丁薔を呼び止める。
呼び止められた丁薔も、それを聞いた曹操も腑に落ちない顔をしつつその場に留まった。
「それで、二人は今日は何の用で参ったのだ?」
どんな話をするのか気になり、曹操が訊ねた。
すると、蔡邕が咳払いをして身嗜みを整えた。
「本日参りましたのは、私共の娘の事でご相談がありまして参りました」
「娘?」
「ああ、貴殿等には娘がいたな」
程立達が紹介してくれたので、何度か顔を見た事があった曹操は覚えていた。
「ご息女達がどうかしたのかな?」
「私共の娘達は見目が良いのですが、何と言いますか、色々な問題がありまして」
「問題か。ふむ」
蔡邕が言葉を濁すのを聞いて、曹操はその理由を察した。
片や気が強く、父親の教えにより並の男など相手にもしない武芸を持つ娘。
片や嫁に行ったが、夫と死別して婚家から実家に出戻りした娘。
二人の娘は嫁の行先が見つからず困っているのだと直ぐに分かった。
困った二人は曹操に頼む事にしたのだと察した。
「……成程。ちなみに、貴殿らのご息女は御歳は?」
「私のは今年で二十二になります」
「私の方は今年で十七になります」
程立の娘が二十二歳。蔡邕の娘が十七歳と聞いて、自分の権力であれば何とかなるかと思う曹操。
「ふむ。他ならぬ御二人の娘だ。宜しい、私が一肌脱ぎましょう」
曹操が自分に任せろと胸を叩いた。
「いえ、実は、その……娘達の嫁に行先があるにはあるのですが。殿の許可が欲しい所でして」
「私の許可を? それは、つまり」
「旦那様の子供達に娘を嫁がせたいという事ですか?」
曹操の言葉に続けるように、丁薔が蔡邕達に訊ねた。
「はい。その通りにございます」
二人が頭を下げなら言うのを聞いて、曹操達は考えた。
二人の娘の年齢を聞いて、一番年が近い子供は誰なのかを。曹操達は直ぐに思い至った。
「何と、二人は娘を曹昂に嫁がせたいと?」
「はい。身勝手かも知れませんが。何卒、ご許可を」
程立がそう言うのを聞いて、曹操達は困惑した。
曹昂には既に嫁二人に妾まで居るのだ。これで、更に増やすのはどうかと思っていた。
(ふむ。程立は兗州内では強い発言力を持っている名士。蔡邕に至っては、当代きっての儒学者でもあり、兗州泰山郡の名族羊一族とも伝手を持っている。息子の嫁にするのも悪くはないか)
政治的に考えて悪い手ではないなと思う曹操。
「う~ん。まだ成人していないあの子に、また嫁ですか。少々、問題では?」
丁薔からしたら、まだ字あざなを持っていない曹昂が嫁を娶る事に良い顔をしていなかった。
それを聞いた蔡邕は咳払いをする。
「奥方様の言われる通りだと思います。ですが、その、これには、若君も関係しておりまして……」
「と言うと?」
「実は、若君が徐州征伐に赴く前に、娘達が若君の部屋で一夜を明かしたという話を耳にしまして」
蔡邕の口で出た話を聞いた曹操と丁薔は目を剥いた。
そして、二人は互いの目を見て知っているかと話したが、二人共首を振る。
「どの様な理由で、若君と一夜を共にしたのかは知りませんが。その様な噂が立つぐらいですので、こちらとしましても、何とかして貰いたいのです」
「であろうな」
曹操は頷くしかなかった。
理由はどうあれ、男女が一夜を共にしたという噂が流れている時点で、最早、程丹と蔡琰の二人は曹昂の御手付きになったと思われる。
これでは、如何に曹操であっても、誰でも嫁がせると言うのは難しいと言えた。
事此処に至っては、曹昂が責任を取るしかないと言えた。
「あの子は……劉姉さんそっくりの顔立ちで、旦那様の様に女性に手を出すのが速いとは。私の教育の仕方が間違っていたのでしょうか?」
丁薔は溜め息を吐いた。
「薔。こう思うが良い。昂は私の息子なのだから、私と同じ事をしても可笑しくないと」
「慰めにもなりませんよ」
曹操の言葉に丁薔は首を振った。
「…………オホン。まぁ、ともかく、御二人の娘の件は、息子に伝えて嫁にする様に伝えておこう」
「お願いいたします」
程立達は頭を下げて頼んだ。
「うむ。ああ、そうだ。丁度良い。程立よ」
「はい。何でしょうか?」
「荀彧から聞いたのだが、お主は若い頃から泰山に登り両手で太陽を掲げる夢をよく見たと言うが、本当なのか?」
「はい。何度もこの夢を見るので、どういう意味なのか分かりませんでしたので、荀彧に相談しました」
「ほぅ、そうなのか」
曹操も荀彧からその話を聞いた時は夢が何を示唆しているのか分からなかったが、荀彧が教えてくれた。
『太陽とは皇帝を意味します。その太陽を掲げるとはつまり、皇帝を補佐するという役目を持っている事を示唆しているのです』
荀彧の説明を聞いて曹操も成程と思った。
「どうじゃ、兗州も落ち着いてきた。加えて、お主の娘も嫁に行くのだから、これを機に名を改めると言うのは」
「名を改めるですか? どの様な名が良いでしょうか?」
「そうじゃな。太陽を掲げるという夢を見た事を掛けて、日に立つで昱はどうじゃ?」
「おお、悪くありませんな」
蔡邕が名前を聞いて良いと言うのを聞いて程立も頷いた。
「では、本日より、わたしは程立より程昱と名乗らせて頂きます」
程昱が頭を下げながら、そう宣言した。
「宜しい。部下が改名した記念だ。必ずや息子に御二人の娘を嫁にさせる様にしようぞ」
曹操が胸を叩きながら言うと、程昱達は頭を下げて感謝した。
同じ頃。
曹昂は城内に数ある中庭の一つで茶会を行う為の会場の設営を指揮しているところであった。
「…………っ⁈」
突然、曹昂の背筋に寒気が走った。
何事だ?と思いながら、身体を摩っていた。
「どうかしました?」
手伝いをしている貂蝉が手を止めて曹昂に訊ねた。
「いや、何か寒気がして……」
「寒気? こんなに温かいのにですか?」
変な事を言うなと言いたげな顔をする貂蝉。
曹昂も何故、寒気を感じたのか分からなかった。
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