碁を教わる

 張邈の反乱と連動した、呂布の襲撃より一ヶ月が経った。




 季節は春から初夏に移ろうとしていた。


 この頃になると、蝗害により被った被害は徐々にだが回復していった。


 中でも程立が兵を率いて、故郷の東阿県にて食料を略奪し、曹操に献上してくれた事で食料に余裕が出来た。


 その代わり程立は故郷の者達に嫌われる事となったが、本人は特に気にした様子は見せなかった。


 余裕が出来たとは言っても、今年の税収は去年に比べると格段に下回っているのは、明らかであった。


 その為、税収を増やす為と奪われた領地の奪還の為に、秋に陳留へ侵攻する事が決まった。


 曹操達はその為の準備に奔走していた。


 その最中で、曹操は曹昂に徐州征伐の時に助力した臧覇を琅邪国太守に任命する様に朝廷へ上奏した。これと言って特に贈り物などはしていなかったが、朝廷はその上奏を聞き入れて、臧覇は琅邪国太守に任命された。




 それから、半月が経った。


 曹操は遠征の準備をしていると、逃亡した応劭の後任として泰山郡太守に就任した薛悌。字は孝威という者から文が届いた。


「…………」


 曹操は届けられた文に目を通し終えても無言であった。


「孟徳。泰山郡で何かあったのか?」


 夏候惇は手紙を読んで黙っている曹操を見て、何も言わない事を不審に思い訊ねた。


「……ふむ。いや、こうなるとは考えていなかったので、少々驚いていてな」


 曹操は何かに驚いている様だが、文を読んでいない夏候惇達からしたら、何を言っているのか分からなかった。


 曹操は目を動かして、曹昂を見る。


「お前が琅邪国太守に推薦した臧覇という者が今、泰山郡に居るそうだぞ」


「え? 何故ですか?」


「文には、太守に推薦してくれたお礼に、臧覇自ら兵を率いて贈り物を届けに来たと書かれている」


 曹操が文を持ちながらそう言うのを聞いた曹昂は意外な顔をしていた。


(そんな律儀な人に見えなかったんだけどな。それとも、こちらが蝗害を被った事で、恩を売ろうとしたのかな?)


 強かだなと思いながら、曹昂は曹操に訊ねた。


「父上。臧覇殿は何時頃こちらに?」


「河を下っていくと書いてある。後数日程すれば、この県にやってくるだろう。その時は来た事を大いに祝ってやろうぞ」


 曹操が宴を開く事を言うと、荀彧が口を開いた。


「我が君。あまり派手にしますと、民のいらぬ反感を買うかも知れません。此処は派手にしない方が良いと思います」


 現状、完全に蝗害から回復していないので、あまり派手な宴をするべきではないと進言する荀彧。


 その意見に何名かの者達が同意する様に頷いた。


「いや、此処は盛大に祝うべきでしょう」


 荀彧の意見に反する事を言うのは程立であった。


 程立がそう言うので、何故そう言うのかと思い、皆視線を向ける。


「太守に推薦してくれたお礼に参った者を盛大な宴で祝う事が出来れば、近隣の諸侯達は、我が殿は反乱と蝗害にあっても、まだ余裕があると思い込むでしょう。これにより、周りの諸侯達からちょっかいを掛けられる事が無くなります」


 この程立が言うちょっかいとは袁紹を始めとした有力諸侯達が、曹操に対して援助する事を申し出て来たのだ。


 見返りに、家族を自分達が治める本拠地に送る様にと言ってきた。


 誰の風下にも立つ気が無い曹操は不快に思いはしたが、今は関係を崩すのは得策ではないと判断し丁寧に断った。


 それでも、事ある毎に申し出が来るのでキリがなかった。


 程立の言い分では、盛大に宴を行う事で余力があると見せる事が出来ると聞き、何人かの者達が頷いていた。


「…………」


 荀彧と程立の二人の意見は、どちらも悪くは無かった。曹操はどちらにするか暫し考えたが、答えは出なかった。


 明日、朝議を行うのでその時に決めると曹操が言い、会議を解散させた。




 少しして。




 曹操は私室で今日上がった議題の事を考えて居た。


 どちらにするべきか迷っているところに、新しく護衛となった許褚が入って来た。


「申し上げます。若君がお話があるとの事で参っております」


「昂が? 通せ」


 曹昂が来たと聞いて、一人で考えても答えは出ないと判断した様で、曹昂を部屋に通すように命じた。


 曹昂は使用人と共に部屋に入って来た。


「父上。御寛ぎ中に失礼します」


「挨拶は良い。何か用か?」


「偶には、父上と碁でも打とうと思いまして」


 曹昂が連れてきた使用人は碁盤を持っていた。


「……ふむ。良かろう」


 曹操は曹昂が何か話があるのだろうと思い、碁を打つ事にした。


「では、早速」


 曹昂は使用人に碁盤を置かせると、下がらせた。


 曹昂達は碁盤を挟んで座ると、石を取った。


「お前と碁を打つのは初めてだな。どれ程の腕か見せてもらおうか」


「父上を唸らせられるかどうか分かりませんが、頑張ります」


 曹昂は黒い石が入った容器を受け取り盤に石を置いた。


 曹操も同じように白い石を盤に置いた。


 暫くの間、室内には二人分の呼吸と盤に石を置く音だけ響いた。


「……昂。何か話したい事があるのか?」


 曹操が石を置くと同時に訊ねて来た。


「……お分かりですか?」


「私くらいになれば、何処に石を置くかで分かる。何の話だ?」


「……実は」


 曹昂は徐州征伐の際、祖父の曹嵩と一族の者達を殺害を命じた陶応と張闓達から、陶謙が曹嵩達に送った財宝を手に入れた事。


 彭城を陥落させる際に、その二人を使い虚報を流して陥落させた事を伝えた。


「ふむ。財宝を手に入れたか。して、その陶応達はどうした?」


「僕達が徐州から撤退する際に、何時の間にか逃げました」


 本当は刑螂に命じて殺したのだが、曹昂はその事を曹操に告げなかった。


 何処かに逃げたと言えば、誰でも生きていると思い込む。これにより、曹昂が彭城を陥落した際に言った言葉が嘘だという事を公にされる事を防げる。


 曹操に言わないのは、二人を殺したという事を隠す為だ。


「そうか……」


 曹昂が逃げたと言っても、曹操は怒る事も無く、一言呟いた。


 曹操の様子から信じてくれたかと思った曹昂。


「……もし」


「はい?」


「もし、私がお前の立場であれば、信頼する家臣に命じて二人を密かに殺させるがな」


 曹操が密かに殺すと言うのを聞いて、曹昂は顔を強張らせた。


「当然だ。生きていれば、お前が命じた虚報が実は嘘だったと、誰かに言うかもしれぬだろう。人の口に戸は立てられぬと言うであろう。そのような事をされれば、評判が地に落ちる。そうなる前に、私は殺すがな」


「……流石は父上です。僕は其処まで思い至りませんでした」


 本心でそう答える曹昂。


 陶応達を殺す命を下す際、祖父達の敵討ちが出来るとしか思っていなかった。


「ふふふ、だから、お前はまだまだなのだ。戦も碁も、な」


 曹操が石を打つのを見て、曹昂は盤上を見た。


「……負けました」


「ははは、その程度では、私に碁で勝つのは天地がひっくり返らぬ限り難しいぞ」


 曹昂が負けたと言うのを聞いて、曹操は大笑した。


 一頻り笑うと、曹操は真顔になった。


「それで、手に入れた財宝は何時頃運び込めるのだ?」


「臧覇殿が来る前に、来るように手配します」


「うむ。頼んだぞ。さて、今日は気分が良い。もう一局付き合え」


「分かりました。今度は勝たせて貰いますからね」


「その意気だ。頑張るが良い」


 曹操の言い方が癪に障ったのか、曹昂はやる気を漲らせて石を打ちだした。


 結局、曹昂は一度も勝利する事が出来なかった。


 その後、悔しかったのか曹昂は腕を磨いて曹操に相手をしてもらったが、生涯勝つ事が出来なかった。

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