陶謙の誤算

 濮陽を出立した曹操は数十日程すると、泰山郡に入りそこから十数日程掛かって、ようやく徐州の州境に着いた。


 其処から州境に一番近くの県である合郷県へと軍を進ませた。


 


 数日程経つと、曹操軍は合郷県が見える所まで来た。


 城には『陶』と書かれた旗が掲げられると共に、その城を背にした軍勢が待ち構えていた。


 その陣には『曹』の旗が掲げられていた。


「ふむ。流石は陶謙か。私が此処を攻めると予想していたか」


 愛馬絶影に跨っている曹操は陶謙が自分が攻め込んで来る事を予想して、兵を配備した慧眼に感心していた。


「士気は高い様だが、さて、陶謙の部下の実力はどれ程のものか」


 黄巾党の討伐で名を挙げた武将なので、その部下もそれなりに出来るだろうと期待する曹操。


「敵の将は誰か分かるか?」


 曹操は傍にいる荀彧に相手の将は誰なのか訊ねてみた。


「曹の字が書かれていますので、恐らく曹豹と思われます」


「ふむ。さて、どれ程の実力か試させてもらおうか。荀彧よ」


「はっ。直ぐに陣形を整えます」


「うむ。横陣を敷け。先鋒は青洲兵にせよ」


「承知しました」


 荀彧は直ぐに命令を伝えに行った。


 少しすると、曹操の本陣を中心に右翼と左翼が形成されて行った。


 曹操軍の内訳は騎兵二万。歩兵三万の合計五万であった。


 大将に曹操。参謀に荀彧。部将は楽進、李乾、史渙、典韋を連れて来た。


 曹操が陣形を整えるのを見ると、曹豹は陣形を鶴翼の陣で敷きだした。


 二将の陣形が敷き終わるのは同時であった。


「殿。陣を敷き終わりました」


「うむ」


 荀彧の言葉を聞いて、鷹揚に頷く曹操。


 そして、腰に佩いている愛剣『倚天』を鞘から抜いて掲げた。


「攻撃せよっ」


 剣を振り下ろしながら叫ぶ曹操。


 そして、直ぐに攻撃命令を伝える太鼓が叩かれた。


 太鼓の音を聞いて先鋒の青洲兵が曹豹の陣へ駆け出した。


 曹豹も少し遅れて攻撃命令を出した。


 ぶつかり合う両軍の先鋒。


 鉄と鉄がぶつかり合う音と共に、歓声と馬の嘶きが響き渡る。


「・・・・・・むぅ?」


 互いの先鋒がぶつかり合い少しすると、曹操は首を傾げた。


 徐々にだが、曹豹軍が押されて行くのが目に見えて分かった。兵力は互角であるのに拮抗する事なく、曹豹軍が押されて行くのが分からなかったからだ。


(これは、何かの策か?)


敵は何かの計略を練っているのではないかと思わずにはいられないぐらいに、敵は押されていた。


「殿。我が軍は優勢の様です」


「ふむ。伏兵が居るかも知れん。兵達に周囲の警戒を怠らない様に伝えよ」


 曹操は敵は奇襲を仕掛けて来る可能性を考えて、荀彧に注意を促した。


 荀彧も意見しないで、その命令に従った。


 曹操の警戒とは裏腹に、戦況は時間が経つと共に曹操軍が優勢となっていった。


「も、もう駄目だっ」


「逃げろっ」


「こんな所で死ねるかっ!」


 曹豹の兵達は、曹操軍があまりに強いので逃亡を始めた。


 曹豹も逃げる兵により、軍の形を保つ事が出来なくなり撤退を始めた。


「逃がすな! 追撃を開始せよ!」


 曹操が追撃を命じると右翼の楽進、左翼の李乾の軍は曹豹軍へ追撃を開始した。


 その猛追により、曹豹は合郷県城に向かう事が出来ず、何処かに逃亡を開始した。


 逃げる曹豹軍を楽進・李乾の軍は追撃の手を緩めなかった。


 この追撃により曹豹軍は半数以上の兵を失い、多数の捕虜を得た。対する曹操の方は死傷者合わせて三千に届かない程度であった。




「ふん。呆気なさ過ぎて、何の感慨も浮かばんな」


 曹豹軍が撤退するのを見たせいか、合郷県城は降伏した。


 曹操はその城にある謁見の間にて、先程の戦の呆気なさに呆れていた。


「良いではありませんか。こうして城を手に入れる事が出来たのですぞ。むしろ喜ぶべきでしょう」


 呆れる曹操に荀彧は野戦を一戦して、城を手に入る事が出来た事を喜ぶべきだというが、曹操は鼻で鳴らした。


「それにしても、敵はどうして、ああも簡単に敗れたのだ?」


 曹操からしたら、其処が気になっていた。


 部将達も、其処が気になっていた。


「それなのですが」


 荀彧が、その理由を話し出した。


 捕まえた捕虜をただした所、州牧の陶謙が人口が多く統治が上手くいっている事で増長したのか、次第に重い税を掛けるようになった。


 その上、刑罰も重くしていったので、人心が離れて行ったと告げた。


「ふん。陶謙は武将であったからか、統治は下手なのかも知れんな」


 兵が逃げ出した理由が分かり、曹操は納得しつつ鼻で笑った。


「殿。この勢いであれば、陶謙を討てるかもしれません」


 楽進がそう進言すると、曹操は首を振る。


「陶謙は郯県に居るのであろう。其処まで行くのに兵糧は保たんよ。此処は当初の予定通り、私達は南下しつつ城を攻略し、兵糧が尽きそうになったら夏候惇の軍と合流し撤退するぞ」


「賢明な判断です」


 曹操の、これからの作戦目標を聞いて荀彧も賛同した。


 程なく曹操達は勝利の宴を開いた。


 その席で食後の甘味として羊肝餅(練り羊羹)が出て来た。


 糧食に使える様に水分を減らした方なので、曹操達が食べた物に比べると幾分か固かったが、楽進達からしたら戦場に出て甘味を食べられるのは嬉しいのか喜んで食べていた。


 だが、曹操と荀彧は出て来た羊肝餅が塩入りの漉し餡であったので、不満そうな顔をしつつ食べていた。




 数日後。


 


 徐州東海郡郯県城。


 その城内に謁見の間に兵士が報告に来ていた。


「申し上げます。曹豹将軍率いる我が軍は曹操軍と合郷県近くの平原にて激突するものの、敵軍の勇猛さに押されて我が軍は壊走状態となりました。曹豹将軍は生き残った者達を集めて、この城に参ります」


 兵の報告を聞いて謁見の間に居る者達は信じられない顔をしていた。


「ば、馬鹿な・・・・・・・」


 兵の報告を聞いて一番驚いていたのは上座に座る男性であった。


 歳は六十代頃で、髪も口髭も豊かな顎髭も白髪であった。


 丸い目に幅が広い顔付きで、年齢の割にがっしりとした体格であった。


 この男性の名は陶謙。字を恭祖と言い、徐州の州牧であった。


「曹豹は私と長年共に戦って来た旗本。歴戦の将である上に五万の兵を与えたばかりか、我が自慢の丹陽兵八千騎を与えたというに、一戦にて敗れたというのか?」


 陶謙の出身は揚州丹陽郡であったので、同郷の者で作られた丹陽兵の強さに全幅の信頼を置いていた。


「はい。その通りです。殿ご自慢の丹陽兵も曹操軍の先鋒の青洲兵に瞬く間に蹴散らされ、半数は討死しております」


 兵は言い辛そうであったが、報告しなければならないと思い報告した。


「な、なんと・・・・・・」


 その報告を聞いて陶謙は気が遠くなり倒れそうになった。


「殿!」


「お気を確かにっ」


 家臣達が陶謙の側に駆け寄り陶謙を支えようとしたが、陶謙は手を突き出して首を振る。


「大事無い。ううむ。まさか、曹操がこれほど強いとは・・・・・・」


 陶謙からしたら曹操がこれほど強いとは想定外であった。


 陶謙から見た曹操の印象は、自身が治めている徐州と揚州で自ら赴き、兵を募らなければならない程に、弱い勢力しか持っていないというものであった。


 その為、黄巾賊の三十万の兵を降伏させたという情報も嘘の情報だと頭から思っていた上に、略奪を働いても、こちらが強気な態度をとればさしたる抵抗もなく有耶無耶にするだろうと思い込んでいた。


 元々、陶謙が曹操に攻め込んだのは、理由があった。


 それは彼が治める徐州の地形が関係していた。


 徐州は北は青洲。西は兗州と豫洲。南は揚州に面している。


 中原に位置し東が海にも面しているので豊かな土地と言えたが、東が海なので勢力を伸ばすには北か西か南しかなかった。


 まず北の青洲だが、こちらは黄巾賊により荒れ果てて手に入れても何の旨みも無かった。


 その上、青洲に行く前に琅邪郡を通らないといけないのだが、この地には嘗て騎都尉に任命し信頼していた部下の臧覇が半独立状態であったので、すんなりと通すか分からないので北は無理と判断し、冀州の袁紹に誼を結ぶ事で良しとした。


 南の揚州は袁術、劉繇、他の郡の太守達が独立勢力として乱立しており、自分の勢力に組み込むとしたら時間が掛かり過ぎると判断し辞めた。その代わりに有力者である袁術と親しくする事で良しとした。


 最後に残った西の兗州と豫洲。


 両州共に曹操が支配しているので、組み易しと考えた陶謙は曹操が治める兗州に攻撃したのだ。


 豫洲を攻めなかったのは、本当は曹操が治めていると陶謙は思い込んでいるが、袁術の娘婿である曹昂が州牧が治めているので、もし攻めれば袁術に睨まれる可能性があったからだ。


「・・・・・・だが、敵は遠征軍である以上、兵糧の問題が付き回る。此処は策を変更し各地の城には籠城する様に命じよ」


「はっ」


「この城も籠城の準備をするのだ」


「承知しました」


 負けたとは言え、まだ挽回できると判断した陶謙は直ぐに籠城による長期戦へ作戦を変えた。


 この切り替えの速さは流石は歴戦の将と言えた。


「兵糧は如何か?」


「問題ありません。蔵には十分な量の兵糧があります。一年でも二年でも籠城できます」


 陶謙はその報告を聞いて、満足そうに頷いた。


 陶謙も徐州が豊かになったからといって、最初から重税を掛けていた訳では無い。


 だが、乱世になった事で、軍備などの為に金が必要なので重い税を掛けるしかなかった。


 重い税を掛ける事で税を払うのを渋る者が出て来たので、刑罰を重くする事になっただけで、陶謙は止むを得ないと思いつつも申し訳ない気持ちで胸が一杯であった。


 家臣達もそれが分かっているので、誰も陶謙に対して不満を漏らす事もなかった。


 そして、今後の事で話し合おうとしている所に、兵が駆け込んで来た。


「伝令! 曹操軍の部将夏候惇率いる三万の軍が彭城国に侵攻。広戚県、留県が陥落。敵は呂県に迫っているとの事」


「伝令! 曹操軍の部将曹仁率いる一万の軍が下邳国に侵攻しました。取慮県を攻撃。城は陥落寸前。救援を求めるとの事です」


 兵達の報告を聞いて陶謙達は衝撃を受けた。


「な、ぬう、我が州の各郡を攻めるとは・・・・・・・」


 その衝撃が大きかったのか陶謙はとうとう倒れ込んだ。


「ああ、殿っ」


「誰か、薬師を!薬師を呼ぶのだっ!」


 陶謙が倒れた事で曹操への対応が遅れる事となった。







 曹豹については色々な表記があるようですが、本作ではそうひょうとします

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