王允の誤算

 初平三年西暦一九二年五月某日。




 長安にある外廷。


 王允は献帝の側の椅子に座り、兗州へ向かわせた使者達の話を聞いていた。


「何と、曹操はそう申したと申すのか?」


「はっ。私では判断する事が出来ず、こうして戻って参りました」


 使者は頭を下げつつそう言うと、王允は席を立ち怒声を挙げる。


「貴様は、何の為に使者として派遣されたと思っているのだ。董卓の一族の唯一の生き残りである董白を長安に連れ帰る為であろう。任を果たせず戻って来るとは、何たる怠慢か!」


「太師。どうか、お許し下さい」


「ならん! この者を牢に連れて行け。後日、その罪にあった処罰を下す」


 王允が手を振ると、控えていた兵士がその使者の腕を掴み引き摺って行った。


「どうか、おゆるしおおおおぉぉぉぉぉぉ……」


 使者の謝罪の声が聞こえなくなると、王允は憤懣やるかたない様子で席に座る。


 そんな王允の姿を見て、董卓誅殺に手を貸し侍御史となった陳宮は可哀そうにと思いながら、見送ると列の前に出た。


「太師。董卓の残党は長安から追い出す事が出来ました。残るは李傕と郭汜の二人を中心に辺境に留まっております。如何なさいますか?」


「ふむ。そうだな」


 王允は顎髭を撫でながら、少しの間考えた。


「董卓の残党など目にもしたくない。此処は一掃しようぞ」


「太師。それはあまりに無謀です。両名は十万の大軍を率いております。此処は朝廷に帰順させるべきです」


「ならん!」


 陳宮の提案に、王允は大声で却下した。


「あの者達は朝廷の臣下を山程殺した上に、無辜の民も数えきれない程に殺したのだ。その様な者達を朝廷に迎え入れては、董卓を討った大義が成り立たなくなる」


「其処は恩赦を与えれば、良いと思いますが」


「既に恩赦は出した。年に二度も恩赦を出すなど前例に無い事だ。そのような事をしては、朝廷の威信に関わる事ぞ」


 王允が出した恩赦は董卓の派閥の者達にしたというよりも、董卓の政治に反発し牢に入れられていた者達に対して行ったので、李傕と郭汜といった董卓の家臣の中でも重鎮達には行われなかった。


「このまま放置して、攻め込みでもすれば、それこそ朝廷の威信に係わる事ですぞ」


「ふん。あんな者達など討ち取れば良い。呂布将軍」


 王允は呂布の名を挙げると、臣下の列の中に居る呂布が前に出た。


「ここに」


「今すぐに軍を整えて、李傕と郭汜の二人を討ち取って参れ」


「承知した」


 呂布はそう言って一礼し、その場を後にしようとしたが。


「ああ、くれぐれも情けを掛けて逃がす様な事をしない様に。まぁ、お主が出て来れば、あ奴らも怒りで、降伏しようなどとは言わぬだろうがな」


 これは、暗に董卓を殺した者に寝返る事もしないだろうという皮肉であった。


 そんな皮肉を聞いた呂布は顔を顰めたが、此処で争って牢に入れられるのは、馬鹿馬鹿しいと思い聞き流す事にした。


(ふん。俺がいなければ何も出来なかった奴が太師の地位に就いた途端、偉そうになりおって)


 董卓を討ち取った功績でもっと出世させろと言っても、今は朝廷の立て直しで無理と理由付けてくるので、呂布は不満を募らせていた。


 呂布が下がると、陳宮は宥める。


「太師。呂布将軍は天下の英雄ですぞ。あの様な事を言うのはどうかと思います」


 陳宮が苦言を呈すが、王允は鼻で笑った。


「ふん。所詮は武勇しかない者だ。董卓を殺して将軍の地位に就いている時点で、身分に不相応な地位に就いているわ」


 呂布を、あまりに軽視する王允。


 その後も陳宮がどれだけ宥めても、王允は呂布に対しての評価を変えなかった。



 数日後。



 涼州と州境。


 其処には、董卓軍の残党の陣営があった。


 その残党軍の陣営にある天幕の一つに、李傕と郭汜と数名の部将達が居た。


「間者からの報告では、朝廷は我等の帰順を許さず、呂布率いる大軍を持って討伐する模様です」


 部将がそう報告すると、李傕は難しい顔をした。


「ぬぅ、相国亡き今、涼州からの兵糧は断たれた。このままでは呂布と戦う事になるな」


 主君の仇ではあるが呂布の武勇は知っているので、大軍を率いて来られれば負けるかもしれないと思う李傕。


「如何する? 兄弟」


 同僚で幼馴染の郭汜が、心配そうに訊ねてきた。


「このまま座していれば、死ぬだけだ。逃げるべきか?」


 郭汜の弱気の発言には、殆どの部将達は同調しかけたが。


 そんな中で一人の部将が声を上げた。


「否。今ここで逃げれば、我らは辺境を守備する兵士にすら簡単に殺されます。此処は、敵が攻めてくる前に長安を攻めるのですっ」


 そう言うのは、四十代後半で整った顎髭を生やした男性であった。


 怜悧な眼差しに線の細い顔立ち。身の丈七尺五寸約百七十五センチ程であった。


 この者の名は賈詡。字を文和と言い、董卓軍の中では謀士として聞こえがある人物であった。


「長安に攻めるだと」


「むぅ、それも悪くないか」


 賈詡の提案を、李傕と郭汜も悪くないと思った。


「我が軍は十万ですが、足りないと思うのであれば、匈奴や羌族からも兵を借りましょう。あの者達は亡き相国から恩義があります故、快く兵を貸してくれるでしょう」


 董卓は長く辺境に居た事で時に戦い、時に贈り物を送って匈奴や羌族と良き関係を保つ様になった。部下であった李傕と郭汜もそれを聞いて顔を輝かせた。


「おお、それは名案だ」


「早速、文を出そうぞ」


 李傕と郭汜は、直ぐに行動を開始した。


 匈奴の単于と羌族の族長達は届いた文を読むなり、長安を攻め落とす事が出来た暁には、数日間の略奪の実施を認めるのであれば、兵を出すと返事が来た。


 背に腹も変えられない李傕と郭汜は了承するという返事の文を送ると、匈奴の単于と羌族の族長達は、それぞれ三万の大軍を援軍に送った。


 賈詡は、それだけではなく近隣の住民達に流言を流した。


「朝廷は董卓の残党を討伐するついでに、ここら辺近くの者達を虐殺する」


「女子供は、奴隷にして売り飛ばす」


 という流言を聞いて、近隣の者達は李傕と郭汜の軍に参加しだした。


 十万に加えて、匈奴軍三万。羌族軍三万。更に雑軍二万が加わり合計十八万の軍勢となり長安に進軍した。




 初平三年西暦一九二年六月某日。




 李傕と郭汜率いる十八万の軍勢は、長安を攻めていた。


 矢を放ち喊声を上げながら、梯子を掛けて城壁を登る李傕と郭汜の軍の兵。


 兵達は何かに必死になって攻め上がって来る。長安の守備軍も、その勢いに押されながらも何とか防衛していた。


 まだ軍の編成途中であった呂布は、慌てて防衛の指揮を執った。


 編成した軍と守備軍を合わせても五万程であったが、それでも一兵たりとも城内に入り込ませなかった。


 昼頃から始まった攻撃を防ぎ、夜になっていた。そろそろ敵の攻撃は終わるだろうと思われた。


 このまま防衛が出来れば、敵の兵糧が尽きて撤退すると呂布は思ったが、そんな思いとは、裏腹に城門が開かれた。


 事前に賈詡が長安市内に居る董卓軍の残党に連絡を送り、外の攻撃に合わせて城門を開く様に伝えていた。


 城門が開かれると、李傕と郭汜は突撃を命じた。


「報告‼ 北門を守っていた城門校尉の崔烈様。お討死」


「報告‼ 南門と西門から攻め込んで来た賊軍が、そのまま皇宮へと向かいました!」


 東門を守備していた呂布の下に、次から次へと暗い情報が齎された。


「おのれっ」


 呂布は負け戦と分かり、歯噛みした。


「これも王允が、李傕と郭汜の二人を特赦しなかったからだっ」


 今更だと思いながらも、呂布はそう叫ばないと収まらなかった。


「将軍。過ぎた事を言っても仕方がありません。これからどうするか考えましょう」


 呂布にそう言うのは、二十代後半の男性であった。


 口髭だけ生やし身の丈は呂布に比べると若干小さいがそれでも八尺約百八十センチはあった。


 その身長に見合う程に立派な体格をしており、大きな目と端正な顔立ちをしていた。


 この男性の名は張遼。字を文遠と言い、元は丁原の部下であったが、丁原亡き後は董卓に仕えたが、董卓が亡くなったので同郷の呂布に仕えた。呂布も張遼の武勇には一目置いていたのか、自分の部下になるなり騎都尉の職に就かせた。


「ぬぅ、そうだな。此処に至っては守るのは無理だ。長安を脱出するぞ」


「承知しました」


「張遼。お主は屋敷に向かい、俺の家族を連れて来い。俺は皇宮に向かう」


「皇宮にですか? 何故ですか?」


「王允に陛下を長安の外に連れて行くべきだと進言しに行く」


「はっ。将軍。落ち合う場所は何処にしますか?」


「南陽郡で落ち合おう」


「南陽郡ですか? あそこは今は袁術が支配していると聞いていますが」


「ふん。董卓を討つ為に連合軍を作った奴等だ。董卓を殺した俺を迎えてくれるだろう」


「成程。分かりました」


「では、後で」


 呂布は張遼と別れ、一人で皇宮に向かった。




 呂布が皇宮に向かっている中、


 その頃には、李傕と郭汜の軍は禁門を包囲していた。


 長安に入った李傕と郭汜の軍の兵達は目に付く豪華な物を略奪し、目につく者達は斬り殺していった。


 狼藉の限りを尽くす李傕と郭汜軍の兵。


 そうして、献帝の禁門にまで迫って来た。


 流石の李傕と郭汜も漢帝国の皇帝が居る所に入る事は出来ない様で、血で濡れた得物を構えながら、見ているだけであった。


 其処に、楼台から献帝が王允を連れて姿を見せた。


 献帝の姿を見るなり、李傕は前に出て声を上げる。


「陛下。臣李傕並びに郭汜が奸賊よりお救いに参りました!」


 その声を聞いて、献帝は怯えながらも訊ねた。


「か、奸賊とは、誰か?」


「其処に居られる王允です。王允は相国を殺し、漢帝国を自分の物にしようとした大奸です! 其処に居る者達も王允に手を貸した奸賊です!」


 郭汜が答えると、献帝はどうしたら良い物かと考えた。


「陛下。王允とそれに与する者達と一族を引き渡してくれるのであれば、決して我等、は陛下に危害を加えません」


 李傕がそう言うと、献帝は困ったような顔をした。


 忠臣である王允を引き渡すべきか否かを。


 献帝が困っているのを見て、王允は深く息をついた。


「陛下。最早これまでです。臣王允は死を以って、己が不明をお詫びします」


 そう言って王允は、楼台から身を投げ出した。


 程なく、何かが砕ける音と共に王允は地面に落下した。


 周囲に血を撒き散らせながらも、僅かに身体が動いていた。


「良し。主君の仇だ。止めを刺して、晒し首にしろ!」


 李傕の命に従い兵士達は持っている得物で王允の身体をズタズタにして、首を斬り落とし、槍の穂先に突き刺して掲げた。


「良し。王允の一族も残らず根絶やしにせよっ」


 晒し首になった王允を見て、郭汜はすぐさま王允の屋敷に兵を送る様に指示した。


「城門を閉じよ。誰一人も逃がすな!」


 李傕が部下にそう命じると、付いて来た匈奴の部将と羌族の部将を見る。


「市内であれば好きに略奪する事を許す。奴隷にするなり、家畜を好きに奪うなり好きにするが良い」


「承知した」


「では、早速」


 匈奴の部将と羌族の部将達は、自分達が率いて来た兵に略奪を命じた。


 その間に、李傕と郭汜は禁門の扉を開けて皇宮へと入り、自分達は皇宮で略奪を始めた。




 呂布が皇宮に向かっていると数騎ほど前からやって来た。


 呂布は愛用の方天画戟を構えた。


「何者か⁉」


 大音声で誰何した。


 すると、声を掛けられた者はその声を聞いて喜びの声を上げた。


「おお、呂布殿。こちらでしたか」


「その声は陳宮か」


 暗がりで顔まで分からなかったが、近付くと陳宮だと分かり安堵する呂布。


「お主は皇宮に居たのでは?」


「それが、もうおしまいです。李傕と郭汜の軍が禁門を包囲するのを見て、王允殿は天子の為にお亡くなりになりましたっ」


 友人が死ぬ所を見たのか、悔しそうな声を上げる陳宮。


 あまりに悔しいのか目に涙を浮かべていた。


「そんな……」


 王允が死んだと聞いて呆然とする呂布。


 だが、直ぐに気を取り戻し方天画戟を持つ手に力を籠める。


「直ぐに皇宮に向かい、天子をお救いせねば」


「お待ちを。今、呂布殿が一人で向かっても無駄です。既に皇宮には李傕と郭汜の軍が入り守りを固めております」


「……ぬう、仕方がない。逃げるとしよう」


 呂布は唇を血が出る程に噛み締めると、馬首を翻した。


「退くぞ!」


 呂布はそう言って駒を進ませた。


 陳宮達もその後に続いた。


 呂布は駒を進ませて、城門を出た。




 長安を脱出した呂布達は南陽の袁術の元に身を寄せた。袁術は呂布の武勇を知っているので迎えてくれた。


 呂布達が居なくなった長安では、李傕と郭汜が分割して統治する事となった。


 李傕と郭汜に協力した匈奴と羌族は、手に入れた大量の戦利品と共に居留地に戻った。


 その中には奴隷として連れて行かれる男女が居た。

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