敗戦とその後
孫堅を討たれた孫堅軍は混乱の極みであった。
其処に容赦なく攻め掛かる劉表軍。
その混乱の最中により、孫堅の遺体を守って居た者達も蹴散らされ、孫堅の遺体が奪われてしまった。
幸いと言うべきか、孫堅が持っていた伝国璽は戦いが起こる前に孫堅が万が一を考えて息子孫策に渡していたので、奪われる事はなかった。
「何だとっ、父上が呂公という者が放った矢に当たり討死された上に御身体を敵に奪われただとっ」
本陣を守っていた孫策の元に信じられない情報が齎された。
「それは、真かっ」
「はっ。残念ながら」
「何と殿が、お討死……」
孫堅が死んだという報を聞いて程普は信じられない気持ちで胸が一杯であった。
だが、今劉表軍が攻め込んでいる最中なので直ぐに気を取り戻した。
「若君。此処は一度、後退し体制を整えるのが宜しいかと」
程普が言葉を続けながら振り返ると、其処には居るべき存在の孫策の姿がなかった。
「おい。若君はどちらに」
「先程、陣幕の外に」
報告に来た者の話を聞くなり程普も陣幕を出た。
程普が陣幕を出ると、丁度、孫策が馬に乗り何処かに向かおうとしていた。
それを韓当と黄蓋が必死に止めていた。
「若君。いや、孫策様。如何か、気をお鎮め下さいっ」
「今、前線に行くのは危険ですっ」
「五月蠅い! 黙れ! 父上がお亡くなりなった上にその御身体を敵に奪われたままでいられる訳が無かろう。父上の御身体を取り戻すっ」
「孫策様っ」
「どうか、どうか。お願いです。此処は一時の恥を忍んで、御引きを」
「父上の御身体を奪われたままで居ろと言うのかっ」
孫策は吼えると、程普は孫策が跨っている馬の手綱を掴み諫言する。
「それでも、貴方は生きなければならないのです。亡き父君の無念を晴らす為に。どうか」
程普が涙を流しながら言うのを見て、孫策は唇を噛んだ。其処から血が流れるが構わず噛み続けた。
「うわあああああああっっっ‼」
無念の咆哮をあげる孫策。
其処に前線を突破した劉表軍が本陣に迫って来た。
「ぬうっ、此処まで来たか」
「韓当、黄蓋。お前達は孫策様をお守りするのだっ。儂が殿を行うっ」
「承知した。程普殿っ」
「必ず戻って来るのだぞっ」
韓当と黄蓋はそう言って、孫策を連れて本陣から離れて行った。
程普は孫策を見送ると、腰に差している剣を抜いた。
「我等はこれより孫策様の撤退を援護する。者共、荊州の木っ端共に我等が力を見せつけろ!」
程普の命に従い、本陣に詰めて居た兵達は劉表軍に襲い掛かった。
孫堅が戦死した事は既に伝わっているのか、主君の仇とばかりに襲い掛かる孫堅軍。
「ええいっ。孫堅が死んだというのに、これ程の勢いがあるとは」
劉表軍の先陣を務めている呂公が孫堅軍の勢いを見て舌打ちする。
其処に敵兵を斬り倒した程普が馬に乗っている呂公の姿を見つけた。
「其処に居るのは敵将だな。相手をせよっ」
「面白い。この呂公が貴様等の主君と同じ所に送ってくれるわっ」
呂公が馬を駆けさせて程普に向かった。
「貴様がっ、おお、我が主君の仇。その首、貰うぞっ」
程普は槍を扱いて駆け出した。
二人の得物がぶつかりあったが、三合ほどすると呂公が程普の槍に突かれ馬から転げ落ちた。
「ああ、呂公様!」
「逃げろ!」
先陣の兵達が自分の将を討ち取られたのを見て逃げ出した。
それを見て、歓声を上げる孫堅軍。
そんな中で程普は刀を抜いて呂公の首を斬り落とし、天に掲げた。
「殿‼ ご照覧あれ! 仇を討ち取りましたぞ!」
程普の大音声を聞いて、歓声を上げていた孫堅軍の兵達は涙を流した。
そして、直ぐに気を取り直し、程普達は呂公の首を持って孫策達の後を追いかけた。
襄陽より東に数里ほど行った森の中にある洞穴。
其処に孫策達の姿があった。
孫策を含め多くの者達が、血で鎧を濡らしたままであった。
敵の追撃から逃げたままなので、血を拭う暇も無かったようだ。
孫策は洞穴の壁に背を預け疲れを取っていた。
「程普はまだ戻らないのか?」
「はっ。何分、敵の勢いが激しかったので此処まで逃げるのに苦労しているのだと思います」
「無事だと良いが」
孫策は心配そうな声を上げると黄蓋が慰めた。
「ご安心を。韓当が百騎ほど率いて迎えに行きましたので、その内戻ってくるでしょう」
黄蓋の慰めが訊いたのか、孫策は少しだけ気持ちが軽くなった。
其処に兵士が駆け込んで来た。
「申し上げます‼ ただいま、韓当殿が程普殿を連れて戻って参りました!」
「おおっ」
「直ぐに此処に通せっ」
「はっ」
孫策の命令に従い、兵士は一礼して下がると直ぐに程普達を連れてやって来た。
韓当も血で濡れているが、程普はその倍の量の血で鎧を濡らしていた。それに加えて腰に生首を吊り下げていた。
「おお、孫策様。御無事で何よりです」
「程普こそ」
程普が両手をついて頭を下げるのを見て孫策は程普の肩を叩いた。
「お喜び下され。仇の一人である呂公めの首、程普が討ちとり申しました」
そう言って程普は腰に吊り下げている生首を孫策に見せた。
「おおおっ」
「流石は程普殿。殿の中で仇を見つけるとはっ」
皆、程普の行いを称賛した。
「見事だ。程普。後日、この功に報いよう」
孫策はその首を受け取り傍にいる者に渡した。
「程普。お主は父の知恵袋であった。これから、我等はどうするべきか教えてくれ」
「……恐れながら、此度は負け戦となりました。この上は速やかに豫洲に退くのが賢明かと」
孫策が意見を求めて来たので、程普は現状で最も良い方法を提案した。
「父上の亡骸を奪われたままでか?」
「それについては一つ名案があります。江夏郡での戦で我等は劉表の臣下の黄祖を捕虜にいたしました。聞くところによると、黄祖は劉表の信任が厚い家臣との事。此処は殿の亡骸と黄祖の身柄を交換し、更には占領した江夏郡を返還するという条件で停戦を結ぶべきだと思います。ですが」
「ですが? 何か問題でもあるのか?」
「我等の中で劉表と、その様に交渉できる者がおりません。ですので、どうするべきか悩んでおります」
程普にそう言われて、孫策達は頭を悩ませた。
だが、孫策は直ぐに何か思いだした様であった。
「そうだ。昨日、陣屋に来た桓階はどうであろう?」
「おお、あの者でしたら適任ですな」
「元は殿の部下。今は劉表に仕えていると聞きます。ですので、交渉ぐらいは出来ると思います」
「早速文を。文の返事が来るまで、我らは江夏郡にて体制を整えるっ」
「「「はっ」」」
方針が決まると、孫策達は直ぐに行動を開始した。
孫策達が江夏郡に着くと同時に、桓階の元に文が届いた。桓階はその文を読むなり、直ぐに孫策達の元に出向き交渉の使者として出向く事に賛成した。
程なく劉表の元に出向いた桓階は孫策達が孫堅の亡骸と引き換えに黄祖の身柄と奪った江夏郡の全てを返還するという停戦の申し出を聞いて劉表は承諾した。
蒯良と蔡瑁は反対したが、劉表が停戦を受諾したので渋々だが受け入れた。
そして、孫堅の亡骸と黄祖の身柄が引き換えとなった。
孫策は孫堅の亡骸を見るなり冷たくなった孫堅の身体に顔を押し付け涙を流した。
そして、孫堅軍は豫洲へと撤退した。
孫堅軍の敗走は、直ぐに各諸侯に伝わり衝撃を走らせた。
とりわけ、袁術の驚きようは一番大きかった。
最初にその報を聞いた時は誤報だと断じて、別の者に調べさせた。
次の調べさせた者の報を聞いた途端、その者を殴り飛ばして牢に入れた。
そして、豫洲に居る密偵の報告で、ようやく孫堅の死を受け入れた。
その報を聞くなり、袁術は我儘な子供の様に、手元にある物を怒りに任せて投げつけたり、部屋にある物を壊し回った。
ようやく、怒りが収まった頃には部屋にある物は壊れ散乱していた。
袁術は不貞腐れながら、酒を飲んでいた。
そして、その報は曹操達の元にも齎された。
その報を齎された時、曹操はこれからの方針を話している最中であった。
「まさか、文台殿が亡くなるとはな」
曹操はそのあまりに残念そうな声で呟いた。
「あれほどの英雄であっても死ぬ時はあっけなく死ぬのですね」
曹昂は前世の記憶で今年亡くなると知ってはいたが、それでも知り合いではあったので物悲しい気持ちにはなった。
「生き残った者達は豫洲に戻ったそうだ。さて、誰が孫堅殿の後を継ぐのであろうな」
「血統で言えば孫策では?」
「才覚はあるがまだ若いからな。無理かも知れんな」
曹操は勿体ないと言いたげに首を振る。
それを聞いて曹昂はふと思った。
「では、父上がお亡くなりになったら、後を継ぐのは元譲殿になるのでしょうか?」
「いや、我が家の場合は、私の後を継ぐのはお前だ」
曹操は曹昂を見て断言した。
それを聞いて会議に参加している者達は同意とばかりに頷く。
「いやいや、僕も孫策と同じ十六ですよ。そんな僕が父上の後を継ぐと言う重責を担えるとお思いで?」
「何を言っているのだ。こやつは。今まで自分がしてきた事を考えて見ろ」
呆れたように言う曹操に同調する様に韓浩が口を挟んだ。
「若君が考案したあの白い薬を土地に撒いた所、去年よりも土が豊かになったという報告が来ておりますよ」
「ああ、あれね。いやぁ、偶々神農大帝の子孫が書いたと言う本草書を読んで、それに書かれていた土を豊かにする薬の材料が書かれていたので試しに作って、試験的に試しただけなんですがね」
曹昂は頭を掻きながら言う。
その神農大帝の子孫が書いたと言う本草書を読んでと言うのは嘘だ。
無論、その本草書は『神農本草経』という名前で存在する。だが、そんな本を読まなくても曹昂は前世の記憶で土を豊かにする方法は知っていた。
「何処でそんな貴重な本を読んだのだ?」
「何処でしたっけ? う~ん。思い出せませんね。とりあえず、その薬の製造法だけ記録に取りました」
曹昂の態度を見て、皆何かあるなと思う中で程立が口を挟んだ。
「それだけではありません。近頃、巷では若君が雷神の使いという噂まで流れております」
「「雷神の使い?」」
その噂は初めて聞いたのか曹操と曹昂は首を傾げた。
「はい。何でも大雨により山から大岩が落ちて来て道を塞いでいたそうですが。若君がその大岩の前に来て指差した途端、轟音を立てて真っ二つになったとか」
「何だ。それは」
「大岩を真っ二つに、本当なのか?」
「普通では有り得ない事でしょう」
「若君は
程立の報告を聞いて会議に参加している者達はヒソヒソと話し出す。
(ああ、あれか。火薬の製造が成功したから、炮烙玉以外でも使い道がないかなと思っていた所に、大雨で岩が落ちて道を塞いだから発破解体した時の話か。噂に尾ひれが付きすぎだろう)
「ははは、雷神の使いと来たか。それで、息子よ。どんな方法で大岩を真っ二つにしたのだ?」
「まぁ、その畑に撒いた薬が書いてあった本に書かれていた薬で壊しました」
薬で大岩を壊したと聞いて、それこそ雷に打たれたかの様な衝撃が曹操達に走った。
曹操達の常識の中ではそんな薬など存在しないからだ。
「……その薬は見せてもらう事は出来るか?」
「その内で良いですか」
「良かろう。今はそれよりも文台殿が治めていた豫洲の方だ。州牧であった文台殿が亡くなった以上、豫洲では混乱が広がるであろう。皆、どうすべきだと思う?」
「父上。一つ、私に策がございます」
「ほぅ、息子よ。どのような策が有るというのだ?」
「はい。それは」
曹昂が言う策に曹操達は暫し思案した後、それを承認した。
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