襄陽の戦い
江夏郡を掌握した孫堅は魯陽に救援に向かおうとしたが、文聘は襄陽に撤退をしていた。
孫堅が江夏郡を掌握された事で、挟撃される事を考慮して撤退した様だ。
お蔭で、進軍中は何の妨害も受ける事無く漢水まで進む事が出来た。
「ははは、どうやら劉表は襄陽という穴倉に引き籠もり恐怖で震えている様だな」
救援の必要が無くなったので、襄陽に向かう前に先に近くの樊城を落とす事に決めた孫堅は、船で漢江を渡っている最中に船尾から見える光景を見て笑いながら言いだした。
「殿。相手は我等よりも土地勘がある者達です。侮るのは早いと思います」
一緒の船に乗り傍にいる程普は諫めるが、孫堅は失笑する。
「しかしな、程普。黄祖を捕縛したのは偶然かも知れん。だがな、今我等がこうして漢江を渡るという相手にとっては絶好の機会だと言うのに、仕掛けてこない。これはどう考えてもおかしいと言えるだろう」
孫堅の言葉を聞いて、程普も反論が出来なかった。
南船北馬という言葉がある様に、南方に位置する荊州では主に移動は船だ。
その為、荊州には水軍が存在する。
もし、今漢江を渡っている所に荊州水軍が攻撃を仕掛けて来たら孫堅軍は大打撃を受けたかも知れなかった。
孫堅からしたら、仕掛けて来るかも知れないと思っていたが、未だに水軍が仕掛けてくる様子もないので肩透かしを食らった気分であった。
「確かにそうですが。だからこそ、何が起こるか分からないので備えるべきです」
孫堅はそんな考え過ぎる部下に気にするなと声を掛けようとしたが、程普は言葉を続けた。
「それにもう九月も終わります。このまま遠征が続けばいずれは冬になり寒さで兵が凍死する事も考えられます」
「むっ」
程普の話を聞いて、其処は考える孫堅。
江夏郡を掌握した事で兵を集める事は出来たが、思ったよりも時間が掛かってしまった。
このまま寒くなれば、兵が凍死するという事も十分に考えられた。
「う~む。確かにそうだな。では、お前ならどうする?」
「出来るだけ早く樊城を落とし、その後は臨機応変に対応するのが良いと思います。襄陽を攻めて冬になっても落とせないのであれば、撤退し体制を整える。冬になる前に落とせそうであれば落として荊州を我らの物にするのです」
「……ふむ。妥当だな。それでいこう」
孫堅はこれからの大まかな作戦を決めた。
孫堅が漢江を渡っている。襄陽では、
軍議の真っ最中であった。
「江夏は完全に孫堅の物になり、太守の黄祖は大敗した上に捕虜となった。その上、今孫堅軍はこの襄陽に進軍している。皆の者、何か策は無いか?」
上座に座る劉表は顔色を失いながら、家臣に訊ねた。
家臣達は周りの者達と会話しながらも、何か良い意見が無いかと話していると家臣の中から一人前に出た。
「殿。私に一計があります」
そう言ったのは蒯良であった。
蒯良。字は子柔と言い劉表の側近の蒯越の兄だ。
年齢は左程変わらない様だが弟に比べると、口髭と顎髭を生やした中肉中背の体型であった。
「蒯良か。何かあるか?」
「はい。此処は城を固め守りを厚くし敵の威勢を挫きながら、同盟を結んだ諸侯達に援軍を頼み、共に孫堅を撃退するのが宜しいと思います」
蒯良の意見を聞いて考える劉表。
「いや、此処は樊城に兵を送り、樊城とこの襄陽で掎角の勢を成すのが良いと思います」
その蒯良の意見に反抗する様に蔡瑁が口を挟んだ。
「徳桂殿。敵は樊城を足掛かりにしてこの襄陽を落とすつもりなのです。それで兵を分けるなど愚の骨頂と言えるでしょう」
「ならば、子柔殿の意見はどうなのです。籠城して敵の意気が下がるのを待つ。これは分かりますが、他国から援軍で撃退するなど持っての外でしょう。我が国の生死を他国の救いに委ねるのです。幸い、樊城は漢水を挟んだ北にあるのです。我が国の水軍を使って攻撃するなり補給させる事が出来ます」
「敵も船を持っている。水軍で戦っている間に城が落とされる事も考えられるであろうっ」
「我が水軍が船での戦の経験の少ない孫堅に勝てぬと仰せかっ」
互いの意見が正しいと思っている二人。
その為、言葉に熱が籠もり出した。
「静まらんかっ。敵が我等の足元まで来ている最中だと言うのに、言い争いをしている場合ではなかろうっ」
劉表の大喝により二人は押し黙った。
「此処は私が決める。私は蔡瑁の意見を採用する」
劉表が蔡瑁の意見を採用すると聞いて落胆する蒯良。
劉表が蔡瑁の意見を採用したのは、自分の後妻の弟という事に加えて黄祖が敗れた時に蒯良の『太守の黄祖に州境を守らせている間に我等が大軍を持って孫堅を討つのです』という意見を聞いて、その通りにした。
結果州境に向かおうとした黄祖は孫堅軍と遭遇して返り討ちとなった。
その為、劉表は蒯良の意見を却下したのだ。
劉表の命により蔡瑁は一万の兵を連れて樊城に籠った。
言うだけはあって蔡瑁は良く城を守ったが、一ヶ月半程すると城を落されて残兵を連れて襄陽に戻った。
皮肉にも蔡瑁が、豪語した水軍のお蔭で襄陽に戻る事が出来た。
負けた蔡瑁を見るなり蒯良は面罵して、大敗したのだから軍法に照らして裁くべきと劉表に申し出たが。
「勝敗は兵家の常。一万の兵で三万の孫堅軍を相手に良くぞ一月半守ったと褒めるべきであろう。今は一人でも将が欲しい時に命は無駄に出来ん」
と言う劉表であった。
蒯良からしたら責を負うべきだと思うが、相手は州牧の義理の弟でもあるのでそれ以上言うのは控えた。そして、気持ちを切り替えて 蒯良は籠城の準備に掛かった。
樊城で蔡瑁軍を追い出した孫堅軍は士気は上がったが、城の攻略に時間を掛け過ぎて季節は冬になろうとしていた。
そんな中でも、孫堅は樊城を出発し襄陽に向かった。
半日ほどかけて襄陽に到着したが、到着した頃には夜になろうという時刻であったので、攻撃は明日という事になり孫堅軍は平野に陣を張った。
漢水が近いという事で遮る障害物が殆ど無く、木枯らしの風が野陣に吹き曝した。
冷たい寒風に身を晒す孫堅軍。身を縮こませて寒さを耐えていた。
そんな冷たく強い風が吹き曝していると、孫堅軍の大将旗である『師』の旗が風の勢いで折れてしまった。
大将旗が折れるとはあまりに不吉な事と思い将兵達は不安に思った。
そんな折にある人物が孫堅軍の陣地にやって来た。
「おお、桓階。桓階ではないか。久しぶりだな」
孫堅は陣屋にやって来た昔自分の元に居た桓階がやって来たので諸手を挙げて喜んでいた。
「お久しぶりです。文台様。ご活躍の程は、荊州の片田舎にいる私の耳にも聞こえております」
「ははは、そうか」
自分の名声が荊州にまで、響いていると聞いて気分を良くする孫堅。
世辞と分かっていても上機嫌になる孫堅。
桓階は、言いづらそうな顔をしながらも口を動かした。
「本日、此処に参りましたのは私の愚考をお伝えしに参ったのです」
「ほぅ? 私の元に帰順しに来たという訳では無いと?」
上機嫌の顔から一転真顔になる孫堅。
桓階は孫堅の覇気に押されつつも意気を込めて口を開いた。
「季節はもう冬です。劉表が籠もる襄陽は天嶮と言っても良い要害です。そう簡単に落とす事は難しいと思います。此処は講和を結び仕切り直しを図るのが良いと思います」
「なにっ、講和をしろだとっ」
孫堅は陣幕の外にまで聞こえる大音声を挙げた。
兵達も孫堅の声を聞いて、思わず耳を傾けた。
「はい。先も言ったように襄陽は要害です。如何に文台様の御力をもってしてもそう簡単に落とす事は出来ないでしょう。それに加えて季節は冬です。要害で攻めあぐねている所に寒風に身を晒せば士気が下がります。そうなれば、時間だけが過ぎて行きます。そうなれば、劉表が同盟を結んだ諸侯達から援軍が来て挟撃されるかもしれません。ですので、ここいらで講和を結ぶべきです」
桓階は自分の考えを言う。それを聞き終えた孫堅は少しだけ思案した。
桓階が言う通り、思ったよりも長期の遠征になってしまったので、兵達が疲労している事に気付いていた。
それに加えて桓階が言った通りに、このまま長くこの地に留まれば劉表と同盟を結んでいる者達が、援軍を送る可能性があった。
「……いや、城を守るのは人だ。人が守る以上、絶対に落ちぬ城など存在しない。如何に天嶮であろうとも、攻め落とす気概さえあれば必ず攻め落とす事が出来るであろうぞっ。ただ、援軍が来る前に襄陽を落とせば良いのだっ」
孫堅の言い分を聞いて、程普が口を挟んだ。
「殿。先程、大将旗が風にあおられて折れました。これは良くない事が起こるのでは?」
「程普。たかが風で旗が折れたぐらいで怖気づいたのか?」
「ですが、あまりに不吉ですので。兵達も不安がっています。此処は一度、軍を退いて再戦をするのが良いと思います」
「風程度で、家臣筆頭のお主がそんな臆病な事を言うとは、何事かっ」
孫堅は大喝すると、皆は押し黙った。
「桓階。お主、劉表に頼まれて講和をしに来たのだろう」
「いえ、劉表にそんな事は頼まれておりません」
桓階は首を振る。講和する様に頼まれはしたが、それは劉表ではなく曹昂の方であった。
「兎も角、お主の提案は断らせてもらう。昔の誼だ。首を斬る事はせぬ。去るが良い」
孫堅が強くそう言うので、桓階はこれ以上は言っても無駄だと判断し一礼して陣屋から離れて行った。
桓階が出て行くのを見送ると孫堅は程普達に告げた。
「明日は総攻撃を行う。私が陣頭に立ち兵達を鼓舞する。皆、今日はしっかりと休息を取り明日に備えるが良い」
孫堅はそう命ずると程普達は何も言う事が出来ず頭を下げた。
翌日。
襄陽を包囲する孫堅軍は今か今かと攻撃の合図を待った。
孫堅が陣頭に立ち腰に差している剣を抜いた。
「攻撃せよ!」
孫堅が剣を振り下ろすと同時に太鼓が鳴り、兵馬は大呼して城に突撃した。
梯子を掛けて兵達は堀を越えて城壁に近付き、其処からまた梯子を掛けて駆け上がっていく。
梯子を駆け上がる兵達を、援護する様に後方から弓矢が雨の様に放たれて行く。
漢水の方からも、筏や船で攻撃を仕掛け城壁に近付いて来る。
しかし、襄陽を守る劉表軍も、その攻撃を頑として防いでいた。
「敵に息をつかせるな。攻めろ、攻めるのだ!」
孫堅は駒を飛ばして、声を嗄らさんばかりに叫び兵を叱咤した。
その声に応えるかのように兵達も意気込む。
このまま攻めれば襄陽を落とせるのでは?と思われた瞬間。
襄陽の兵が放った矢が、孫堅の胸に立った。
突然の事で孫堅は痛みよりも、何よりも思わず自分の胸を見た。そして、其処に矢が突き刺さっているのを見た。
「……まさか、わしがこんな所で……」
呆然としている孫堅に追撃する様に矢が当たり、孫堅は馬から転げ落ちた。
「ああ、殿!」
「殿、お気を確かにっ」
「殿が倒れたぞ!」
孫堅の周りに居た兵達は孫堅に近付き、守る様に後退した。
「見よ。この呂公が孫堅を討ち取ったぞ!」
城壁の上で、弓を持っていた劉表軍の武将の呂公が手を掲げて孫堅を討った事を喧伝した。
それにより、劉表軍は歓声を上げた。
逆に孫堅軍は混乱した。孫堅が討たれた事が、本当なのかどうか確認が取れないからだ。
「殿。この好機を逃してはないません。攻勢を掛けましょうっ」
「うむ。太鼓を鳴らせっ」
蒯良に言われるがままに、劉表は攻撃の命令を出した。
襄陽を守っていた劉表軍は城門を出て、混乱する孫堅軍に襲い掛かった。
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