痛み分け

 時を少し遡り、劉備達が橋へと向かっている頃。



 公孫瓚は本陣で、その様子を眺めていた。


「見よ。袁紹軍が自陣へと撤退していくぞっ」


 公孫瓚は橋に袁紹軍の姿が無い事を指で指し示しながら、側近達に伝える。


 側近達は、それを見て歓声を上げた。


 袁紹軍が自陣に戻るのを見て、敵の策が失敗に終わったのだと思ったからだ。


「後は味方に任せておけば、程なく袁紹の首を持って帰って来るだろう。その時は今宵の勝利を大いに祝おうぞっ」


 公孫瓚は、まだ何の報告も齎されていないのに、既に袁紹を討ち取った事を夢想しだした。


 そして、その後の事を考えた。


(袁紹を討ちさえすれば、私が冀州の州牧になっても誰も文句を言う者はいない。ふふふ、劉慮が居る幽州では、功績を立てる事が出来なくなってきたからな。ここらで領地を変えるのも悪くない。郡の太守から州牧になる。正に、乱世だから出来る事だな)


 最早、公孫瓚は州牧になった気分になっていた。


 其処に急報が齎された。


「急報! 右から砂塵が上がっているとの事です」


「なに?」


 砂塵が上がるという事は、何かが駆けているという事だ。


 味方であれば、前方から砂塵が上がる筈であった。


 それなのに、どうして右から砂塵が上がるのか公孫瓚と側近の者達は分からなかった。


 だが、次の報告により、その砂塵を上げている者達が誰なのか分かった。


「申し上げます。右から来る者達が掲げている旗には『文』の字が書かれています」


「文だとっ。それは文醜の旗ではないかっ」


「恐らく……ぐへっ」


 公孫瓚は報告をしてきた兵士を殴りつけた。


「馬鹿者がっ。敵は前方に展開しているのに、どうして右から文醜が来るのだ。見張りの見間違いであろうっ」


「ですが」


 怒鳴る公孫瓚に兵士が言葉を連ねようとしたら、別の兵士が必死な表情で入って来た。


「申し上げます。敵、文醜軍約五千。本陣に攻撃。目下、我が軍の兵が応戦中ですが、兵の数が足りません。救援をっ」


「馬鹿な、ありえん。どうして、敵が前方からではなく、右方から来るのだ……」


 前方から来ると言うのであれば、味方を強引に突破したのだろうと理解できた。


 だが、橋が一本しかない河を挟んで対陣しているのに、何処からか来た文醜軍。


 公孫瓚は訳が分からくなっていた。


 混乱する公孫瓚に、文醜軍は容赦なく攻撃を仕掛ける。


 全軍を投入した事で公孫瓚が居る本陣には、自分の身を守る護衛部隊数百騎しかいなかった。


 文醜軍は五千騎。どう見ても勝敗は目に見えていた。


 公孫瓚は本陣を脱出しようとしたが、本陣に斬り込んだ文醜により側近達共々斬り捨てられた。




「まさか、此処まで上手くいくとは‥‥」


 自分の手で公孫瓚の首を切り、槍の穂先に突き刺した文醜は唸った。


 内心では、あんな小さな子供が立てた作戦が、此処まで上手くいくとは思いもしなかったという顔をしていた。


 数日前に、曹昂が立てた作戦を思い返した。




『本隊とは別に別動隊を作り、河の浅瀬を渡り奇襲を掛けるのです。その間、本隊は別動隊の事を悟らせない様に、昼夜分かたず攻撃をするのです。少数で』


『何故、少数で攻撃するのだ?』


 許攸は短期で戦を決めるという事で、別動隊で奇襲を仕掛けるという理由は分かった。


 そして、別動隊の存在を知られない様に攻撃するのも分かったが、どうして攻撃するのが、少数なのか分からず訊ねて来た。


『少数で攻撃する事は後退も容易で全滅したところで被害も最小だからです。逆に敵に昼夜分かたず攻撃する事で敵は疲労が溜まります。その疲労が極致になったところで』


『本隊と別動隊とで挟み撃ちにするのだな?』


『いえ、ある程度、攻撃したら本隊は自陣まで退くのです』


 袁紹達はどうして、攻撃して退くのか分からなかった


 しかし、許攸、田豊、逢紀といった智謀の士といえる者達は、地図と兵を示す碁の石を見て何かを悟った様であった。


 ちなみに分かった順は田豊、逢紀、許攸となっている。


『これは偽撃転殺の計か?』


『いや、違う。これは声東撃西の計だ』


『いやいや、これは暗渡陳倉の計ですな』


 三人の智謀の士は、曹昂の話を聞いて思いついた計略を言い出した。


 三人共、自分の計略が正しいとばかりに互いを睨み合う。


『ええいっ、偽撃転殺やら声東撃西やらなど、そんな計略の名前など、どうでもいい。曹昂よ。早く続きを話せ』


 三人が口を出した事で、話が中断されたので袁紹は三人を叱り、曹昂に続きを急かした。


『は、はい。話す前に、皆様にお尋ねします』


 曹昂は其処で一度区切り、袁紹達を見た。


『敵がこちらの攻撃を防いで、こちらが撤退していくのを見て、どう思いますか?』


 曹昂にそう訊ねられて、袁紹達は暫し思案した。


『ふむ。撤退するのであれば、追撃するな。普通は』


『その通りです。中には偽装撤退かも?と疑問に思う者もいるでしょう。その前に、昼夜分かたず攻撃すればどう思います?』


『そうなれば、その昼夜分かたずの攻撃は本命の攻撃を隠すための偽りだろうな。ならば、その攻撃を防げば敵は本当の撤退をするだろう。そうであれば、敵は追撃するだろうな。私ならば、全軍を投入して追撃させるな』


『その追撃している間、本陣は最小限の護衛しかいません。其処を別動隊が襲えば』


 曹昂は、公孫瓚本陣に置かれている黒石を取った。


『間違いなく公孫瓚を討つ事が出来ます』


 曹昂の策を聞いて、袁紹達は冷や汗を流した。


 古の軍師に優るとも劣らない智謀の冴えであった。とても十五歳の子供が立てた作戦とは誰も思いもしないだろう。


 そして、袁紹はその策を採用し文醜が別動隊の将に選ばれた。




 文醜は曹昂の策が見事に嵌まり、公孫瓚を討った事に怖気が走った。


 曹操の息子である以上、将来的には敵になる可能性が大きかった。


(敵に回したくないものだな…………)


 そう思いながら、次の行動に出た。


 切り取った公孫瓚の首を兵の槍の穂先に突き刺して、馬に跨った。


「敵総大将は討ち取った。残るは、自分達の総大将を討たれた事も知らぬ雑兵の集まりだ。本隊と挟み撃ちにして、二度と我等が領土に攻め込む事など考えない様に叩き潰すっ」


 文醜が高らかに宣言すると、兵達は持っている得物を掲げながら声を上げた。


「私に続け!」


 文醜が先頭になって、今戦闘が行われている自陣へと向かった。




 そして、今に至る。


「見よ。公孫瓚軍の兵共よ。貴様等の総大将の公孫瓚は此処にいるぞっ。同じ目に遭いたくなければ、武器を捨てるが良いっ」


 文醜が公孫瓚軍の後背まで来ると、槍に突き刺さっている公孫瓚の首を見せながら叫んだ。


 その叫び声を聞いて、公孫瓚軍の兵の士気が見て分かるくらいに下がった。


 疲労が極度に溜まっているところで、敵を撃退した勢いで敵陣を攻撃していた。


 なので、公孫瓚軍の兵達は気力だけで立っている状態であった。


 其処に、総大将が討たれたという報が齎されれば、士気が下がるのも自明の理であった。


 其処で兵達は、自分達が疲れている事を自覚した。


 途端に兵達の動きは鈍くなりだした。中には逃亡を図る者まで居た。


 その様子を、自陣から眺めている袁紹は、直ぐに全軍に総攻撃の号令を出した。


 袁紹軍は、愕然とする公孫瓚軍に容赦なく攻撃を仕掛けた。


「まさか、公孫瓚殿が討たれるとは……」


「兄者。これでは、もう挽回する事も出来ません。お退きを」


「くそっ。俺達の勝ちだと思っていたんだがなっ」


 公孫瓚とは長年の付き合いがある劉備は喫驚仰天していた。そんな劉備に関羽は撤退を進言した。


 それでも、まだ衝撃が抜けない劉備は魂が抜けた様な顔をしていたが、関羽に揺らされて正気に戻った。


「……おのれ、袁紹。いずれ、公孫瓚殿の仇は必ず討ってくれるっ」


 劉備は正気に戻ると、声に出して誓った。


 そして、関羽と張飛を見ながら告げる。


「関羽、張飛。我等は後背にいる袁紹軍を突破するぞっ」


「「おうっ」」


 劉備は連れて来た兵達と、共に文醜軍に攻撃した。


 攻撃した勢いで、そのまま突破できると思われたが、文醜が頑強に守った。


「ふん。破れかぶれの突撃とは、そんな事で我が軍を抜けると思うなっ」


 文醜は鞍に掛けている鉄弓を取り、矢を放った。


 馬上から放たれた矢は、狙い違わず向かって来る劉備軍の兵達に当たり討ち取る。


 それを見た関羽が駆け出した。


「其処に居るは敵将の文醜と見る。いざ、この関雲長と勝負っ」


「猪口才なっ」


 文醜は矢を放った。


 狙い違わず関羽に向かっていったが、関羽はその矢を薙刀で叩き落とした。


 それを見て文醜は二の矢、三の矢と放ったが、関羽は難なく防いだ。


 もう放つ矢が無くなったので、文醜は弓を捨て槍に持ち替え関羽に向かっていった。


 二人は数合交えた。


 だが、関羽の大上段からの一撃を受け止める事が出来ず、文醜は真っ二つになった。


「敵将文醜、討ち取ったり!」


 関羽が高らかに宣言した。


 それを聞いた文醜軍の兵達は、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。


 その際、公孫瓚の首を持っている兵も逃げてしまった。


 公孫瓚の首を奪い返す事が出来なかった劉備は歯噛みするが、今は逃げるのが先決だと思い直して、橋へと駒を飛ばした。


 後背の袁紹軍が蹴散らされたのを見た公孫瓚軍の兵は橋へと逃げた。


 だが、その背を袁紹軍は追い駆けた。


 橋は大きいとは言え、公孫瓚軍の兵が一気に渡るのは無理であった。


 我先に渡ろうとしたら、味方の兵の妨害に遭い足を止めた。


 足を止めている公孫瓚軍の兵達は、問答無用に得物を振るわれ仕留められて行く。


 何処までも追い駆ける袁紹軍。橋を越えて少しすると、本陣から使者が来て追撃は止め自陣へと退いていった。


 ようやく、追撃が止んだので、生き残った公孫瓚軍は安心できた。


 心の余裕が出来た事で、自軍の総大将が討たれた事を思い出し、公孫瓚軍の兵達は悔し涙を流した。


 劉備達も同じように血の涙を流した。


 そして、劉備達は泣き終えると、生き残った者達を集めて幽州へと帰還した。


 こうして『界橋の戦い』は袁紹軍の勝利という形で終わった。

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