事の始まりは
時を少し遡り、初平元年六月下旬頃。
冀州渤海郡南皮県の城内。
その城の中にある謁見の間では袁紹とその部下達が話し合っていた。
青州で暴れ回っていた黄巾党は、青州で何も得られる物が無くなると、今度は周りの州に攻め寄せた。
徐州は琅邪国。幽州は涿郡が襲われたが、陶謙と公孫瓚が撃退した。
その為、黄巾党は標的を冀州に変えた。
其処で初めに襲撃をしたのは袁紹が治める渤海郡であった。
初めに、州境の村から襲われて村は壊滅した。
黄巾党はその勢いに乗って、近くの県に攻撃を仕掛けた。
袁紹も軍を整えて、黄巾党の撃退に掛かった。
最初は一進一退の攻防を繰り返していたが、途中で黄巾党が引き上げて行った。
それは、袁紹があまりに激しく抵抗するので敵わないと思った黄巾党の指導者が、また標的を変えたからだ。
それに安堵した袁紹。本来であれば追撃し黄巾党を根絶やしにすべきなのだが、激戦を繰り返した事で兵糧、武具が大量に損失した。
袁紹は追撃が出来ない事に歯ぎしりしていた。
だが、直ぐに気持ちを切り替えて、今後はどうするか部下と共に話し合おうとしたが。
「ええい。黄巾賊共め。忌々しい!」
袁紹は肘置きを、何度も叩きながら怒号を上げる。
それだけ怒っているという事が見ているだけで分かった。
気持を切り替えようと出来ずにいる袁紹に側近の二人が宥める。
一人は年齢は三十代ぐらいで七尺ほどあり、切れ目でちんまりと纏まった顔立ちをしていた。
もう一人は年齢も身長も同じくらいであったが、こちらは大きな目に平たい顔をしていた。
前者は許攸。字を子遠と言い、後者は逢紀。字を元図と言う者達だ。
この二人は袁紹が旗揚げした時から袁紹を助けていたので、どう宥めれば良いのか分かっていた。
「殿。お気持ちは分かりますが、此処は冷静になりましょう」
「左様。黄巾賊は撃退したのです。今は黄巾賊よりもこれからの事です」
「……分かっている」
腹心の二人に宥められて、袁紹は気持ちを落ち着かせた。
袁紹が落ち着いたのを見て、武将の顔良が話し掛けて来た。
「殿。黄巾賊との戦で我が軍の兵糧、武具は無くなりかけています。このままでは兵は飢え、黄巾賊がもう一度攻めて来たら、我らの敗北は必至です」
「分かっている……冀州の州牧の韓馥から兵糧と武具を貸して貰おう。あ奴とは親しくしているから、快く貸してくれるだろう」
袁紹は直ぐに韓馥へ使者を出そうとしたが、逢紀が止めた。
「殿。正直な話、兵糧と武具を借りたとしても、現状の我々では返す当てがございません」
「そんなものどうにでもなろう。今は戦力の立て直しが急務なのだぞ」
「いえ、殿がこれより天下に羽ばたく為には、この渤海郡は狭すぎます。ですので、もっと広い所で勢力を伸ばすべきです」
「逢紀よ。何が言いたいのだ?」
「此処はいっその事、冀州を我等の手にするのは如何でしょうか?」
逢紀の言葉を聞いて袁紹は少し考えた。
「……何か考えがあるのか?」
「はい」
逢紀は腹案を話した。その話を聞いた袁紹は直ぐに使者を出した。
幽州の公孫瓚へ。
右北平郡土垠県城。
その一室に太守の公孫瓚が居た。
側には弟の公孫越が居た。
その公孫瓚の手の中には、一通の手紙があった。
「兄上。袁紹からの手紙には何と?」
「冀州の州牧韓馥が董卓と手を結んで幽州を襲う計画を練っている。協力して韓馥を討ち、冀州を半分に分かち合おうと書いている」
「まさか。韓馥が董卓と手を結ぶとはっ」
「あり得ないとは言い切れんな」
公孫瓚は手紙を丸めると、窓から外を見た。
見ている方角は冀州の方であった。
韓馥は元々、董卓が州牧に任じた人物。なので、未だに董卓との繋がりがあったとしても可笑しくなかった。
その事を知っている公孫瓚からしたら、その情報が真実か嘘か判別がつかなかった。
「では、どうなさいますか?」
「……これは好機だ」
「? どういう意味ですか?」
「私が天下に打って出る好機と言う事だ。この機に韓馥を討ち冀州を我が物にしてくれる」
「約束は反故にする事になりますが」
「向こうも約束を守るとは限らん。それにあ奴はどうにも好かないのでな」
公孫瓚が、袁紹を嫌うのは自分と同じく母の身分が低いのに、名門袁家という事で名声を得ている事が気に入らない事と、自分の上役である州牧の劉虞と親しい事から嫌っているのであった。
すぐさま、公孫瓚は兵を整えて冀州に攻め込む準備をした。
その際、劉虞が公孫瓚に兵を出す事を止めさせようとしたが、公孫瓚は従わず冀州の州境に攻め込んだ。
韓馥は公孫瓚が攻め込んで来た事に驚きつつも兵を出して迎撃させたが、公孫瓚の兵は烏桓族との戦いを何度も経験した歴戦の兵揃いであったので、韓馥の兵は容易く撃破された。
困り果てた韓馥。其処に袁紹から使者が来て、公孫瓚の撃退に協力すると申し出て来たので韓馥は喜んで、その提案に乗った。
家臣達もその話に乗ったが、長史の耿武と閔純だけは反対した。
しかし、韓馥は二人の言葉を退けて袁紹を迎え入れた。
それが自分の破滅だと知らずに。
初平元年 七月。
冀州魏郡鄴県
韓馥は、その県で州治を行っていた。
だが、今はその役目は無くなったと言っても良いだろう。
袁紹を鄴に迎えてからというものの、軍政は全て袁紹が行うようになった。
最初、袁紹は軍部を掌握し、そして州の政治に口を出す様になると、少しずつだが、自分の腹心を重要な役職に就けたり、元は韓馥の部下であった者達を自分の配下にしていった。
乱世という事もあるからか、韓馥の様な弱い君主よりも、袁紹の様な強い君主に付き従った方が栄華にあやかれるという思いがあるからか、皆次々に韓馥から離れて行った。
最後に残ったのは、長史の耿武と閔純の二人であった。
韓馥はその二人を自分の屋敷に呼んだ。
「わしはとんでもない過ちを犯したようだ」
「「殿……」」
韓馥は二人を部屋に通すなり後悔を口にする。
そんな主君を見て、耿武と閔純は悲痛な顔をしていた。
主君が苦しんでいるのに、自分達は何も出来ない事に無念に感じているからだ。
「殿。今は後悔するよりも、これからどうするかを考えるべきです」
「その通りです。袁紹に従っている者達は飽くまでも袁紹の強さに怯えて従っているだけの事です。袁紹が居なくなれば、皆殿の下にやってくるでしょう」
「だが、どうやって袁紹を追い払うのだ? わしには実権が無い。お主らも兵を動かす事は出来ぬだろう」
「兵を動かさずに、袁紹を取り除く事は出来ます」
「ですので、殿。此処は我らにお任せを」
耿武と閔純は韓馥に一礼する。
その決意に満ちた顔を見て、韓馥は二人に任せる事にした。
数日後。
かつての部下であった者が袁紹の使者として韓馥の下にやって来た。
お供に二つの箱を持って。
「久しく顔を見せなかった不忠をお許しを」
男がそう言って頭を下げる。
「何の用で参った。元皓」
韓馥は元皓と呼んだ者に、自分の威厳を示そうと精一杯睨む。
目の前の男は年齢は五十代に入ったぐらいで、髪も伸ばしている顎髭も口髭もほぼ白くなっており前頭部がかなり薄くなっていた。
顏も皺だらけであったが、小さい目だが怜悧な光を宿していた。
元皓は字で本名は田豊という者であった。
韓馥は自分の配下の中で、この田豊と審配の二人があまりに剛直な性格なので疎んじていた。
本人もそれが分かっていたのか、袁紹に招かれると素直に従った。それにより冀州別駕に任じられた。
「本日は袁紹殿より、渡したい物があるので届けに参りました」
「ほぅ、その箱が渡したい物か?」
袁紹が渡したい物と言うので何なのか、韓馥は興味が湧いた。
田豊は供の者達を顎でしゃくると、供の者達が持っている箱を床に置いて箱の中に入っている物を出した。
箱の中に入っていたのは、壺であった。
韓馥が何か入っているのかと聞く前に、供の者達が壺の蓋を開けて中身を取り出した。
「……ひいいぃぃぃ‼」
供の者達の手が掴んでいるのは、耿武と閔純の首であった。
「あ、あああ…………」
「文威殿と伯典殿の首にございます」
文威は耿武の字。伯典は閔純の字だ。
「ど、どうして……?」
韓馥は青ざめた顔で、二人の首を見ながら田豊に訊ねた。
「二人は袁紹殿の暗殺を謀りましたので誅しました。一族の者達は財産没収と冀州からの追放となりました」
本当は袁紹は耿武達の一族も皆殺しにするつもりであったが、冀州に入って、まださほど日が経たない内に処刑などしたら、民心の反発を買うと許攸と逢紀が言うので、財産没収と冀州追放と言う事になった。
「わ、わたしに、ふたりの首を見せて、なにがもくてきだ……?」
「二人は韓馥様の関与は否定しましたが、袁紹殿は貴方の関与を疑っております」
「なにっ⁉」
韓馥は驚いたが、構わず田豊は話を続けた。
「ですので、このまま冀州に居れば、あらぬ疑いが掛かると思われます。どうか、冀州より出て、御身の安全を図って下さい」
田豊は頭を下げた。
それはかつての主君に対して、最後の忠義を示すかのように。
「行く先が無いのでしたら、陳留に赴くのが宜しいかと思います。太守の張邈は袁紹とも親しくしておりますが、張邈は義理堅く困っている者を見捨てない性格をしております。だから、その者を頼るのです」
「……わ、分かった。そちの言葉に従おう……」
韓馥は田豊の言葉に従う事にした。
その言葉を聞いた田豊は、耿武達の首を壺に戻した。
そして、その壺を置いて、屋敷から出て行った。
韓馥はその日の内に家財などを纏めて、一族を連れて陳留へと逃げて行った。
冀州と幽州の州境。
其処には、公孫瓚軍が駐屯していた。
進軍の準備をしていると、袁紹からの使者が来て「冀州は我等が殿の手中に入った」と言って来た。
その言葉を聞いた公孫瓚は、直ぐに袁紹に嵌められたと察した。
「袁紹め。私を謀略に嵌めるとは、許せんっ」
「兄上。これは袁紹に約定を果たす様に言うべきです」
「そうだな。だが、生半可な者を使者に出したとしても、体よく流されるかもしれんな」
「ですので、私が向かいたいと思います」
公孫越が自分の胸を叩いた。
「ふむ。そうだな。では、お前に任せようか」
「お任せを」
公孫瓚は公孫越と護衛の者達を数十人ほど付けて、袁紹の下に送り出した。
その後自分は本拠地である右北平郡へと戻った。
土垠県で一息ついていると、州牧の劉虞から使者が来た。
使者曰く、青州の黄巾賊が涿郡に攻め込んできたので、撃退を任せたいとの事であった。
州牧の命令という事と黄巾賊が攻め込んで来たという事で公孫瓚は撃退に向かった。
二ヶ月後。
涿郡に攻め込んできた黄巾賊を撃退した公孫瓚は、ようやく右北平郡へと戻って来た。
兵も疲労困憊であった。
しばし、休息を取るべきだなと思っていたところに、兵士が公孫越に付けた護衛の一人が負傷した状態で戻って来たという報告が齎された。
その報告を聞くなり、公孫瓚はその護衛から話を聞くために護衛の下に向かった。
「どうして、お前一人だけ戻った? そして、どうして傷だらけなのだ?」
公孫瓚は訊ねると、傷ついた護衛は傷口を手で抑えながら叫ぶ様に報告した。
「袁紹は最初約定を守ると言い、宴で歓待したのです。ですが帰る際中、袁紹配下の文醜の襲撃を受けて、公孫越様は討たれました‼」
「な、なんと……⁈」
「私以外の護衛の者達は文醜の襲撃とその後の追撃により討たれました。私はこの事を報告しようと、戻って参りましたっ」
護衛は慙愧の念を込めながら語った。
公孫瓚はその報告を聞くなり、衝撃のあまりその場に座り込んだ。
「…………おのれ、袁紹‼ この恨みは決して忘れんぞ‼」
公孫瓚は叫泣しながら、袁紹に呪詛の声を上げた。
その後、一族の者達を集めて、公孫越が袁紹により討たれた事を伝えた。
公孫越の仇を取る為に兵を出すと宣言した。
そして、兵を集めると同時に冀州に向かって布告を出した。
『袁紹はかつて幽州牧である劉虞様を帝位擁立しようとし敵わなかったが、その時の同志である冀州牧の韓馥殿を己が冀州牧になる為に追い出し、州牧の地位に就いた。それに加え韓馥の忠臣にして冀州で名士である耿武と閔純の両名にあらぬ罪を着せて処刑した。その様な無道を行う者に州牧はおろか人の上に立つ資格など無し。忠勇の心を知る義士達よ。我が元に参じ、袁紹を討つべし』
という文が、冀州の至る所でばら撒かれた。
それを読んだ袁紹は一読すると冷笑して、公孫瓚が攻め込んでくると予想し兵の準備をさせた。
数十日後。
袁紹軍と公孫瓚軍は磐河を挟んで睨み合った。
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