漢中に入ると

 それから数日後。




 曹昂達は、甘寧とお供に数人の手下を連れて漢中郡へと向かった。


 屋敷を出る際、甘寧の手下達は手を振りながら盛大に見送った。


 数日したら戻るのに、随分と盛大だなと曹昂は思った。


 甘寧も同じ思いなのか苦笑していた。


 甘寧の手下達に見送られ、曹昂達は五斗米道の本拠地である南鄭へと向かった。


 途中で、山や河などがあり通るのに時間は掛かりはしたが、甘寧の悪名のお蔭なのか野盗といった者達に襲われる事はなかった。




 臨江県の甘寧の屋敷を出て数十日後。




 曹昂達はようやく郡境に辿り着いた。


 標を越えたら漢中に入れる。


「ようやく漢中か」


 額に浮かぶ汗を、手の甲で拭いながら標を見て、安堵の息をつく曹昂。


 郡境に来るまで、幾つもの険しい山と谷を通り続けた。


 馬に乗って移動しているのだが、それでも大人である甘寧達ですら疲れていた。


 勿論、貂蝉達も同じであった。


 今も標の前で皆、休憩を取っていた。


(よく、こんなに交通が不便な所を自分の国にしたな劉備は)


 話に聞いていた以上に道が険阻なので、内心で劉備が凄いと感心する曹昂。


 もう少し、休憩を取るべきかと考えるのであったが。


「……曹昂。そろそろ休憩は終わりにして、郡境を越えるぞ」


 地面に座り込み荒い息を吐いていた甘寧であったが、一休みしたらもう十分なのか、立ち上がり尻に着いた汚れを手で叩き落とした。


「でも、もう少し休憩した方が良いと思いますが」


 まだ休んだ方が、良いのではと思い曹昂は口を出すが。


「いえ、そろそろ移動しましょう。このまま休憩していたら、郡境を越える頃には夜になりますよ」


 劉巴が、空を見上げ太陽を見ながら告げた。


 曹昂も空を見上げると、太陽は中天からかなり動いており、後数刻したら夜になる所であった。


「そうだね。じゃあ、そろそろ移動しようか」


 曹昂が移動しようと言うと、貂蝉達はもっと休みたいと顔に書いていたが、他の者達が反対しなかったので、渋々だが従った。


 険阻な道を通って来たので、人馬共に疲れ切っていた。


 それを見て取った曹昂は郡を越えたら、直ぐに何処かで宿を取ろうと決めた。


 そう考えながら郡境を越えて、少し歩くと村が目に入った。


 畦道を通りながら、畑で仕事をしている人達を見る曹昂。


(のどかだな。僕達が来ても、誰も警戒した様子が無いぞ)


 旅人である曹昂達を見ても、畑仕事している人達は特に気にした様子も無く、気軽に手を振ってくる。


 曹昂は手を振り返しながら、意外に治安が良いのかも知れないなと思った。


 そう思いながらも、そろそろ休みたいので何処かに宿が無いか訊ねようと思い、通りかかった畑仕事が終わったらしき鍬を担いだ人達に声をかけた。


「あの、すいません」


「何でしょう?」


「この近くには宿は有りませんか?」


「宿ね。それだったら」


 曹昂に訊ねられた人は、自分達が歩いて来た道を指差した。


「このまま道を真っ直ぐに進んで、右に曲がって、そのままずっと真っ直ぐに進めば、師君様が御建てになった義舎があるから。其処で休んだらいいぞ」


「御親切にどうも。それと、もう一つ聞いても良いですか?」


「何だ?」


「その師君様って誰の事ですか?」


 曹昂が訊ねると、その者達は顔を見合わせたが曹昂達の格好を改めて見て旅人だと分かり納得したようだった。


「あんた達、旅人だな。じゃあ、師君様って言っても分からないか」


「師君様って言うのは、五斗米道の教祖様の張公祺様の事だ」


 張公祺という名前と五斗米道の教祖と聞いて、曹昂は師君様と言うのが張魯という事が分かった。


「成程。ありがとうごさいました」


 曹昂は馬上だが、お礼を述べて馬を進ませた。


 そのまま少し進ませていると劉巴が隣に来て話しかけて来た。


「何と言うか、随分と平穏な所ですね。正直な話、宗教が治めている土地と聞いたので、もっと凄い所だと思っていました」


「そこら辺に祭祀に使う札とか、生贄に使ったと思われる動物の死骸があると思った?」


「其処までとは言いませんが、もっとこう、黄巾党みたいに黄色い頭巾を被りながら、標語みたいな事を言っていると思ってました」


「ははは、それは確かに怖いね」


 それを訊いて、黄巾党と戦をした時に標語を言いながら攻撃していた事を思い出す曹昂。


(今、考えると、よくあんな長い事を叫びながら攻撃していたな。途中で息切れしないのかな?)


 今更ながら、そんな事を思う曹昂。


 直ぐにどうでも良いかと思い頭の隅に追いやった。


 そして、教えられた通りの道を進むと大きな建物があった。


 これが義舎という物だろうと分かり、その建物の中に入った。


 戸を開けると受付の物が居た。


「代表者の姓名を教えて貰う」


 というので、曹昂は甘寧と、どちらを代表者にするか話し合った。


 それで、曹昂が代表者となった。


 受付の者が曹昂の名を聞いて、竹簡に供の人数などを聞いて書いていった。


「この義舎には好きなだけ滞在しても構わないし、食事も好きなだけ取ってもらっても構わない。暖を取る為の薪も同じだ。馬は裏に厩もあるので、其処に馬を繋ぐ様にする事。最後に過度に食事、薪の消費をした場合は処罰されるので注意する様に」


「他には何かしてはいけない事はありますか?」


「ない。自由に行動して構わない」


「分かりました」


 曹昂が受付の者にそう言って、建物の奥へと入って行った。


 一人一人別々の部屋が用意されており、曹昂達は用意された部屋へと入った。


 部屋に入る前に各自自由行動しても良い許可を出した。そして、部屋に入ると食事の前に一眠りする事にした。



 数刻後。



 曹昂は戸が叩かれる音と共に目を覚ました。


 身体を起こし、傍に置いている剣を手に取りながら、戸の向こうへ声を掛けた。


「どなたですか?」


『お休みの所、申し訳ありません。実はある御方がお会いしたいとの事です』


「ある御方?」


 誰だ、そのある御方ってと思う曹昂。


 そう思っている間にも話は進んだ。


『はい。これから会って話がしたいそうですが、如何なさいますか?』


 そう訊ねられた曹昂は少し考えた。


「……何人か、連れて行っても良いですか?」


『ええ、それは構わないそうです』


「分かりました。では準備が有りますので少々お待ちを」


『分かりました。準備が整いましたら、受付の所に来て下さい』


 と声を掛けた者は、そう言って離れて行った。


「……知り合いなんていないんだけどな。とりあえず、護衛を中心に連れて行くか」


 そう呟くと曹昂は、寝台から降りて部屋を出て行った。




 ある御方と言う人物に呼び出された曹昂は、その人物が誰なのか分からないので、とりあえず護衛と董白を連れて行く事にした。


 貂蝉と劉巴は何があるか分からないので、行くべきではないと進言するが。


「虎の穴に入らなかったら、虎の子は手に入らないよ」


 と言って二人の進言を退けて、董白達を連れて行った。


 甘寧を連れて行くかどうか悩んでいると、偶々廊下で会った。


 その際、曹昂が董白達を連れているのを見た甘寧は何処に行くのか訊ねて来た。


 会ったのも何かの縁だと思った曹昂は、ある人物に呼ばれたので出掛ける事になったので、護衛として付いて来る様にお願いした。


「良し、分かった。うちの奴等も連れて行くから少し待て」


「では、受付の所で待っています」


 曹昂が待ち合わせの場所を決めると甘寧は「分かった」とだけ言って部屋に戻って行った。


 甘寧を見送ると、その足で曹昂達は受付の所に向かった。


 受付の所に向かうと、人が立っていた。


 その人は、最初受付をした人物とは別の者であった。


「今、馬車を準備させますので、暫しお待ちを」


「ああ、すいません。後もう少し、したら連れが来るので待ってもらえますか?」


「それは構いませんが。人数は何人程でしょうか?」


 そう訊ねられた曹昂は董白達を数える。


(……董白を合せても六人。甘寧はどれくらい連れて来るかな。確か、十二人ぐらい連れて来たから、その半分ぐらいは連れて来るかな?)


 甘寧がどれくらい連れて来るだろうか考えていると、向こう側からバタバタと走る音が聞こえて来た。


「おお、待たせたか?」


 甘寧が手下を連れてやって来た。


「いえ、大丈夫です。それで、何人連れて来ました?」


「俺も含めて八人だ」


 それを訊いた曹昂は結構連れて来たなと思いながら、先程から話をしている者に話しかけた。


「全員合わせて十五人になります」


「承知しました。馬車は三台ほど用意しましたので、五人に分かれてお乗り下さい」


 曹昂から人数を聞いた、その者は安堵の息を漏らして、扉を開けて先に出て行った。


 曹昂達は、その後に続き義舎を出ると、門の所に馬車が三台いた。


 馬車と言っても、日よけの傘がついた車だ。


(馬車を三台用意できる時点で、これはかなりの富豪かも知れないな?)


 自分達を呼んだのは誰だろうと思いながらも曹昂は馬車に乗った。


 曹昂が馬車に乗ったので、皆分散しながら乗り込む。


 一台目は、甘寧と手下の者達。


 二台目は、曹昂と董白と曹昂の護衛達。


 三台目は、一台目と二台目に乗り切れなかった者達。


 という具合に分かれた。


 曹昂達が乗るのを確認すると、曹昂に話し掛けていた者が先頭の御者台に乗り手綱を操り馬を進ませた。


 その先頭の馬車に合わせて、他の馬車も動き出した。




 馬車に揺られ、流れる風景を見る曹昂達。


 進んでいた馬車であったが、ある建物の前で止まった。


 その建物は、曹昂達が居た義舎と同じ位の大きさの建物であった。


 大きさは同じだが、建物に使われている建材や装飾などは、こちらの方が豪奢であった。


「此処は?」


「此処は祭酒や治頭大祭酒といった方々が会合に使う建物ですので、他の義舎に比べると少しだけ豪奢にしております」


 御者の人がそう説明するが、曹昂達には分からなかった。


「すいません」


「何でしょうか?」


「その祭酒? とか治頭大祭酒? って何なんですか?」


 曹昂がそう尋ねると御者の人はあっという顔をした。


「これは失礼しました。皆様は外から来たのですから、知らないのは無理は有りませんでしたね。では、歩きながらですが、我ら天師道について教えいたしますね」


 御者の人が建物に入り自分達の宗教について話し出した。


 彼の話曰く、病気治療に謝礼として五斗の米を求めた事から五斗米道と言われているが、今の教祖張魯が開祖にして祖父の張陵の事を『天師』と尊称し崇めた事から天師道と呼称するようになった。


 しかし、呼称が変わっても、未だに米賊とか五斗米道と呼ぶ者は多かった。


 儀式で信徒の病気の治癒をし、悪事を行った者は罪人とせず三度まで許し、四度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課した。これらのことにより信仰を集めた。


 多くの信者が出来たので階級を作る事になった。


 一般的な信者を鬼卒と言う。


 その上に、鬼吏という病気を祈祷させる役職を持った信者。


 そして、鬼卒と鬼吏を束ねる役職の者達を祭酒という。


 その祭酒達を束ねる役職を治頭大祭酒と呼ぶ。


 そして、それらの役職の頂点に立つのが、師君である張魯という事だそうだ。


(鬼卒は信者。鬼吏は助祭みたいな物で、祭酒は司祭で治頭大祭酒は司教で、張魯は教皇みたいな物と考えれば良いのか)


 五斗米道の階級を何となく頭の中で考える曹昂。


「こちらです」


 そう考えていると、何時の間にか建物の庭に出ていた。


 御者をしてくれた人が庭にある階段がついた東屋の前で止まった。


「此処で暫しお待ちを」


 と言って階段を上がって行った。


 そして、東屋に居る人に何事か話し掛けていた。少し離れているので東屋に居る人が誰なのか分からなかった。


 話は直ぐに終わり、御者をしてくれた人が階段を下りて来た。


「どうぞ、皆様。階段を上がって下さい」


「東屋に居る人が僕達を呼んだのですか?」


「その通りです」


 御者をしてくれた人がそう言って一礼して離れて行った。


 東屋に居る人が誰なのか分からなかったが、とりあえず此処は階段を上がる事にする曹昂。


 その曹昂の後を董白達は付いて行った。


 数段しかない階段なのだが、曹昂は少し緊張していた。


 階段を上がった先には、誰が居るのか分からなかったからだ。


 そして階段を上がり終えると、其処には女性が居た。


 切れ長の目。蠱惑的な美貌。左目の下に泣き黒子があった。


 身の丈は七尺約百六十センチあった。


 漆黒の髪を頭の中央で、団子状にしてポニーテールにしていた。


 見た感じ二十代後半から三十代前半に見えた。


「突然のお呼び出しにも関わらず、足を運んでいただきありがとうございます」


 女性は曹昂達に深く頭を下げた。


「……っ⁉ いえ、お気になさらさずに……」


 目の前に居る妖艶な女性に見惚れている曹昂。其処に董白が無言で尻を抓った。


 その痛みで我に返ると、顔を引きつらせながら返事をした。


 曹昂は顔を動かして董白を見るが、当の董白は頬を膨らませていた。


「ふふふ、随分と可愛い奥方をお持ちですね」


「ええ、まぁ……っ⁉」


 女性と話をしていて曹昂は驚いた。


 まだ、目の前の女性には、董白の事を自分の妻だと言ってもいないのに『奥方』と言ったからだ。


「ふふふ」


 だが、女性は何も言わず微笑むだけであった。


「聞いても良いか? お前、何者だ?」


 曹昂が驚いていて、話は出来ないと判断した甘寧が、身を乗り出して女性に訊ねた。


「ああ、失礼しました。名乗りを忘れていましたね。何分、この漢中では名乗らなくても、私が誰なのか分かるので失念していました」


 甘寧に問われて、女性は自分が名乗っていない事を思い出し身なりを正した。


「初めまして、私は盧瑛蘭と申します」


 女性が名乗っても曹昂達は誰なのか分からなかったが、甘寧達は違った。


「その、名は……」


「張魯の母の名だっ」


 甘寧達が呟くのを聞いて、曹昂達は耳を疑った。


 そして、改めて目の前にいる女性を見た。


「「……どう見ても子供が居るようには見えない」」


 曹昂達は思わず呟いた。


「ほほほ、よく言われますが。これでも今年で四十五になりますよ」


 手を口に当てて、上品に笑いながら言う瑛蘭。


 年齢を聞いて曹昂達は唖然とした。


「……その、母堂様は僕達を何の用で呼んだのでしょうか?」


「そうですね。少し貴方様とお話がしたいと思いまして、ねぇ、曹昂様」


 瑛蘭がそう言ってニコリと笑みを浮かべた。


 それを訊いて、甘寧達は思わず曹昂を見た。


「どういう意味だ?」


「あら? 甘興覇殿にも話をしてないのですか」


「俺の名前も知っているのか⁉」


「ええ、同じ益州の者ですし、貴方の名は州内でも轟いていますから」


 瑛蘭が甘寧の事を知っていると言うと、流石の甘寧も驚きを隠す事が出来なかった。


「まぁ、今はそれよりも貴方の方が大事ですね。曹昂様」


「……僕が誰なのか知っているのですか?」


 瑛蘭の話し方から、すっとぼけても無駄と分かった曹昂は自分の事をどれくらい知っているのか聞いた。


「それはもう、何せ、あの当世きっての奸雄と言われている曹操の長子ですから」


 曹操の名前を出した時点で、正体がバレていると分かった曹昂は思わず溜息を吐いた。

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