曾祖父に孝行を

 光和四年六月。




 豫州沛郡譙県。曹家の屋敷にある一室。


 初夏になったばかりであったので、日差しも強くなく風も冷たくも温かくもないという季節だ。


 そんな季節の風を感じながら、曹昂は筆を動かしていた。


「昂。此処はこう書くのじゃよ」


「こうですか?」


「そう。で、こうするのじゃ」


 曹昂は曹騰に言われた通りに筆を動かす。


 今日は丁薔が用事で屋敷を空けているので、代わりに曹騰が曹昂の勉強を見ていた。


 今しているのは字を書く練習であった。


 曹騰は後漢の第八代皇帝である順帝の学友に抜擢されただけはあって、見本になる字も綺麗で書く姿も手本になるぐらい様になっていた。


 そうして、字の練習をしていると曹昂は曹騰に訊ねたい事があった事を思い出す。


 訊ねるのは少々、失礼だと思える事なので、誰かが居たら叱られるかもしれなかった。


 だが、今、曹昂達が居る部屋には曹昂と曹騰しか居ない。


 なので、聞くとしたら今しかなかった。


「曾祖父様」


「何じゃ?」


「曾祖父様はどうして宦官になったのですか?」


 曹昂が訊ねると、曹騰は顎を一撫でして筆を置いた。


「昂や。儂の目を見よ」


「はい」


 曹騰が身体の位置を変えて曹昂の顔を見る。


「お主、宦官は嫌いか?」


「いえ、そんな事はありません」


 曹騰の問いに即答える曹昂。


 これは別に嘘でも何でもなく本心であった。


 前世は病気でベッドの上から出る事が出来なかった曹昂からしたら、生殖器が無くても自由に動けるのは羨ましいと言えた。


 それに宦官になる為の手術は、昔は宮刑や腐刑とも言われる刑罰であった。


 この刑は死刑の次に酷い刑と言われていた。


 しかも、この時代の手術技術では五人受けて一人助かれば良いという具合であった。


 曹騰はその手術を受けて、三十余年の間多くの皇帝に仕えて一度も落ち度が無かったと言われているのだ。


 正直に言って凄い事だと思う曹昂。


「そうか。……そうじゃな。これは嵩にも阿瞞にも言っておらん事じゃ。そして、誰にも言わぬと約束できるか?」


「はい」


 曹昂の返事を聞いて、ニコリと笑う曹騰。


「儂が宦官になったのは父の命じゃからじゃ」


「曾祖父様の父? ええっと……」


 曹騰の父と言う事だから、どう言うんだったか思い出す曹昂。


「お主の立場で言うと高祖父じゃな。儂の父の名は曹萌。字を元偉というのじゃ」


「どんな人だったんですか?」


「その前に、我が曹家はどんな家か知っておるか?」


「ええっと、確か前漢の高祖に仕えて、相国になった功臣曹参の子孫ですよね?」


「そうじゃ。よく勉強しておるのう」


 曹騰は曹昂の頭を撫でる。


「我が家はその曹参の子孫なのじゃが、今に比べると些か金が無くてのう」


 遠い目をしながら語り始める曹騰。


「儂が順帝陛下の学友に抜擢されたのは、その家柄故にじゃ。宦官になったのは、まぁ、あれじゃ。そうして仕えた方が出世できるからじゃ」


「出世ですか?」


「あの頃は、宦官が一番幅を利かせておってな。普通に官吏になるよりも、宦官になった方が出世できるのでな」


「そうなんですか。よく、高祖父様は宦官にさせましたね」


「まぁ、儂は四男じゃったからな。家を継ぐ事もないし、家を残す必要も無いと思い宦官にしたのかも知れぬがな」


 曹騰は五人兄弟の四番目と史実に記されている。


 会った事も無い高祖父は、そういう事も考えて宦官にしたのかもと思う曹昂。


「当時の儂の家はそれほど豊かではなかったからな。こんな話がある。ある日、隣家の人が豚を飼っていたがそれが逃げ出した。父の家にも同じ種類の豚がいて、それを見た隣人は「それは私の豚ではないか」と言ったのじゃ。父は言い争わずにそのままその豚を隣人に渡した。しかし、暫くして隣人の家に逃げ出した豚が戻ってきた。隣人は自分の行いを恥じて、父の家に赴き、豚を返して深く謝罪した。父は笑って許したという。人々は皆、父のその仁徳温厚のひととなりに驚嘆し絶賛したという話しじゃ」


「? 別に良い話だと思いますが?」


 曹昂がそう言うと、曹騰は笑みを零した。


「その隣人にとっては豚を取ってもおかしくないと思われるぐらいに父の家は貧しかったから、豚を取ったと思われたという事じゃよ。まぁ、美談になったのは父が性格的に人と争うのが好きではない性格じゃったから、というのもあるがな」


 ああ、成程。言われてみれば納得する話だと理解する曹昂。


 微笑みながら顎を撫でる曹騰。


 其処に曹嵩が部屋に入って来た。


 曹嵩は曹騰と一緒に戻って来たが、まだ官吏ではある。暫くの間、義父である曹騰の世話をする為に居るのだ。


「義父上。今、よろしいですか?」


「どうした? 嵩」


「衛大人が宴を催すので、来ないかと使いの者が」


「ああ、衛大人の家か」


 曹騰は困ったと言いたげな溜め息を吐く。


「昔から親しくしておるが、あやつの屋敷は陳留にあるからのう。この歳で長い間、馬車に乗るのは堪えるからのう」


「どうなさいます?」


「今、考える故、使いはしばし待たせよ」


 目を瞑り考え込む曹騰。


(譙県と陳留ってかなり離れているからな。確かにもう七十代の曾祖父にはキツイな)


 譙県は豫州で陳留は兗州にある。


 州越えるのだから、流石にキツイと言えた。


(・・・・・・ふむ。日頃から世話になっているし、恩返し、いやこの場合は曾祖父孝行だな。するか)


 前世では孝行と言えるものをした事がなかった曹昂。


 孝行が出来て嬉しいと思いつつ、どんな孝行をするべきか考える。


(そうだ。馬車を改良しよう!)


 この時代の馬車は揺れが激しい上に車軸が折れやすいという物であった。


 無論、改良してもキツイのは変わらないが、それでも少しは緩和されるだろう。


 そう思った曹昂はどう改良しようか考えた。

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