宦官=悪人ではない

 光和四年四月。




 豫州沛郡譙県。曹家の屋敷。


 今日は屋敷の前で使用人達が列となって並び、その中央には丁薔と曹昂が居た。


 皆、何かが来るのを待っている様でざわつきながらもソワソワしていた。


 そうして待っていると、一台の馬車が見えて来た。


 その馬車の周りには数人の徒歩の従者が居た。


 曹昂達はその馬車を見るなり、ざわつくのを止めて背筋を伸ばして馬車が来るのを待った。


 馬車が屋敷の前に止まると馬車から五十代ぐらいの男性が出て来た。


 その男性を見るなり、使用人達は頭を下げて一礼する。


 綺麗に整った口髭と顎髭を生やし恰幅がある体型で人の良さそうな顔立ちをしていた。


 丁薔と曹昂はその男性を見るなり傍に寄った。


「お久しぶりです。義父上様」


「お久しぶりです。御祖父様」


 二人が揃って一礼した。


「おお、夫人。昂も息災であったか」


 男性はそう言って挨拶をするなり、曹昂を持ち上げる。


「大きくなったな。昂。今年で幾つになる?」


「六つです」


「そうかそうか。前に抱いた時は軽かったのに、今は少し重くなったな。ははは」


 男性は曹昂を持ち上げながら笑う。


 この男性こそ、曹操の父親である曹嵩。字を巨高その人である。


 曹嵩が曹昂を持ち上げて遊んでいると。


「嵩よ。儂にも抱かせてくれぬか」


 馬車からもう一人の男性が降りて来た。


 歳は七十代ぐらいで、幾つも皺がある細い顔。口にも顎にも髭は無く黒い髪を纏めていた。


 肥満という訳ではないが、普通の人に比べると肉が付いていた。


「ああ、すみません。義父上」


 曹嵩はそう言って地面に曹昂を降ろす。


 曹嵩に『義父上』と呼ばれた人物は不思議な事に男性なのに女性みたいな歩き方をしていた。


 それも其の筈、その男性は男性の生殖器を切り落とした官吏、すなわち宦官であった。


 その者の名は曹騰。字は季興である。


「曾祖父様」


「おお、昂よ。大きくなったのう」


 曹昂が曹騰の下に近付くと、曹騰は目を細めて曹昂の頭を撫でた。


 曹昂を撫でる手は、長い間生きた事で皺だらけであった。


「本当に大きくなったのぅ。阿瞞もお前が成長する姿を楽しみにしているであろう」


「はい。そうだと思います」


 偶に任地先から手紙が届く。内容は季節の挨拶の他に、今はどんな仕事をしているのかの報告の他に曹昂の字の練習用としてか、幾つもの本も送られてきた。


「そうかそうか。さて、そろそろ屋敷に入らせてもらうとするか」


「義父上。御手を」


「うむ」


 曹嵩が手を伸ばしたので、その手を取る曹騰。


 曹騰の手を取りながら歩く曹嵩。


 二人は屋敷へと入って行く。その後を丁薔と曹昂が続いた。




「ふぅ~、ようやく隠居が出来る」


 屋敷に付き室内に入り、椅子に座った曹騰が茶を啜りながら漏らした。


 そう漏らした通り、曹騰がこの屋敷に来たのは官位を返上して隠居する為だ。


「しかし、義父上。陛下はまだ仕えて欲しいと言っていましたが、良かったのですか?」


「孫の阿瞞が立派に議郎になり、義息子のお主は大鴻臚になったのじゃ。もう、我が家は安泰じゃ。なら、隠居するのが道理よ」


 大鴻臚とは元は『蛮夷』と区別される帰順した周辺諸民族を管轄した典客を起源とする役職で、今は郊廟における儀礼の実施を主宰し、諸王が入朝した際には、その儀礼も取り仕切る役職だ。


 皇子・諸侯・諸侯の嗣子・周辺諸民族で冊封された者は大鴻臚がこれを召して印綬を授けるので、要職と言える。


 ちなみに曹嵩は養子になる前は、夏侯嵩という名前であった。夏侯家は漢の高祖の劉邦に仕えた功臣夏侯嬰を先祖に持つ家だ。


 要職に就いても問題ない家格と言える。


「曾祖父様はもう洛陽に行かないのですか?」


 漢の時代、首都は洛陽であった。中央官吏は洛陽で働くのが普通であった。


「そうじゃぞ。昂。阿瞞の代わりとは言わぬが、儂が遊び相手してやるぞ」


 曹騰は両手で曹昂の両頬を包んで揺らした。


 優しそうな目で義理の曽孫を見る曹騰。


 曹昂は今、自分の相手をしてくれている曹騰を嫌いでは無かった。寧ろ、好意すら持っていた。


 宦官というだけで嫌う者は多い。


 聖人と言われる孔子も宦官の事を嫌っていた。


 それは、孔子の思想である儒教は血筋を残す事を重要視しているので、子孫を残さない宦官を嫌うのも無理ない事であった。


 曹昂としては自分を可愛がっている事に加えて、義理の息子で曹昂の祖父である曹嵩も義理の孫である曹操も可愛がっている事に加えて、その人柄も好きであった。


 それに宦官と言うだけで嫌う道理がないと思っているからだ。


 史記を書いた司馬遷も、当時あった紙の技術を改良した蔡倫も宦官であった。


 なので、宦官だからと言って悪と言う考えを持たない曹昂。


「それにこの時期に隠居するのは丁度良いからのう。今は特にキナ臭いからのう」


「キナ臭い?」


「そうじゃ。去年、肉屋の娘が皇后になるという事が起こったんじゃ。この先、下手を打つと何が起こるか分からなかったから、良い時期に隠居できたと思っておる」


 曹昂は曹騰の話を聞いて、話に出て来た肉屋の娘というのは恐らく何皇后の事を言っているのだろうと予想した。


(何時頃に後宮に入ったのかは知らないけど、確か何進が同郷の宦官である郭勝の伝手で後宮に入ったんだよな)


 前世で呼んだ三國志に書かれていた事を思い出す曹昂。


「曾祖父様。大長秋と中常侍はどちらが偉いのですか?」


 大長秋は宦官が付ける最高の官位。中常侍はその地位に次ぐ官位だ。


 ちなみに、後に出て来る十常侍は中常侍の官位を持つ宦官の集団の事を言う。


 其処の所は分かっているが、実際もそうなのだろうか気になり訊ねたのだ。


「ほほほ、昂。そんなの大長秋に決まっておろう。その次が中常侍じゃ。今は十人ほど居るが、皆仲が悪く権力争いをしておるがな」


「今、大長秋は誰がやっているのですか?」


「確か、儂が就いた後は、誰も就いていない筈じゃ」


「じゃあ、今は宦官では中常侍が一番偉いんですね」


「そうなるのう」


 曹騰の話を聞いて、なぜ大長秋に就いている人が出てこないのだろうと思っていた理由が分かった。


 十常侍達が自分達の権力を守る為に互いを牽制して就かせない様にしていたのだと。



曹嵩の字は複数ありますが、本作では巨高といたします。

曹嵩の出自は夏侯氏の出とします。

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