四話―私が愛しているのは―





『……ねぇ、怜。いっそのことやり直してみない?』

「やり直す……?何を?」

『もちろん、キミと瑠華だよ』


 あのうたかたの夢の中、私は意識の無い瑠華を腕に抱いていた。




『……っ、私だって瑠華に嫌われるようなことしたくない。昔みたいに仲良くなりたいのっ!』

『ちょっ、ばかっ……声デカい』

『……だって……私から瑠華を取られたら何にも無いもの』

『んなわけないでしょ』



 ……あの日の私はいつもなら流せる言葉も流せなくなるぐらい神経質で、あの瑠華を困らせるぐらい弱音を吐いていた。

 どうしたらいいのか分からない、瑠華と離れるのが嫌だって、子どものように瑠華にしがみついて。……きっと呆れられた。いつも怒ってくるくせになんなのって。

 でももう、自分の気持ちを抑えられなかった。

 瑠華に嫌われることに慣れていたつもりだったけれど、いつの間にか限界を迎えていたのだと思う。


 どうしてこんなに好きなのに伝わらないの?

 どうして私だけ嫌うの?


 ……こんなに弱い、みっともない私なんて嫌われるって分かってるのに。私は自分の中に溜まっていた醜い気持ちをあなたにぶつけていた。


 瑠華からすれば、急に私がおかしくなったと思われただろう。だから瑠華は慌てて私から離れようとして……。


「…………ごめんね。こんな私、もっと嫌だよね」

「……っ、ぅ……」


 腕に抱いていた瑠華を抱きしめると、かろうじて温かい体から声がもれて安心する。……でも顔を覗くと、その表情は苦しそうに眉間にシワを寄せていた。


 あの時は何が起こったのか分からなかった。

 瑠華に手を伸ばした瞬間、白い光に包まれて……。


 気付いたら瑠華を腕に抱いていた。

 そして私は見慣れた教室の中に居た。


 ……でもその教室には人の気配も無くいつもなら並んでいる机や椅子も無い。

 どうしてここに……?私たちは階段に居たはずで……。いつからここに居たのか思い出せない。思い出そうとして頭が痛くなって下を向くと、瑠華の寝顔が目に入りシワの寄ったおでこに指で触れた。


「……瑠華、瑠華起きて」

「……ん……」


 声を掛けると私の膝を枕にしていた瑠華が寝返りを打つ。


「……黙っていると可愛いのよね」


 その寝顔にいつの間にか見入っていた。……膝枕なんて久しぶりだけれど、小さい頃はよくしてあげたことを思い出し嬉しくなる。昔から変わらないくせっ毛を指に巻いて、それでもまだ起きそうにない彼女の髪を撫でていると忘れていたあの頃を思い出して幸せな気持ちになった。


 ……昔は私のことお姉ちゃんって呼んで甘えていたあの頃の瑠華はどこへいってしまったのかしら。私はきっとあの頃の瑠華が忘れられないのだと思う。私がいないと不安気で泣きそうな顔をしていたあの頃の瑠華が。


 ……だから今でも追いかけてしまう。最近は私を見ると嫌そうな顔しか見せてくれないし会うと口喧嘩ばかりだけど。……そんな事でしかコミュニケーションを取れなくなっていることを自覚しながらも、瑠華から離れられないでいる。

 ……そして瑠華は離れていくだけだった。


「……ねぇ瑠華……私、どうしたらいいの……」


 ……他の子と居る時は楽しそうに話しているのに。その顔を私にも見せてほしくて、つい口うるさいことばかり言ってしまう。……もう分かってるの、こんなことしてたって瑠華は私を見てくれないって。

 でも……諦められない。


「…………お願い、教えて」


 ……返事が返ってくるわけではないのに。私は静かに眠る瑠華に話しかけていた。


 あなたを繋ぎ止める方法ばかり考えてる。

 いっそのこと諦めてしまえば楽になるのに、私はそれを選べなくて瑠華も呆れるような選択してしまう。

 ……もう自分でもどうしたらいいのか分からない。一人で抱えるにはもう苦しくて気持ちの止め所を失くしていた。


「…………はぁ……」

「……げっ、なんでここに怜が。……夢でも見るとか最悪」


 ……瑠華の声が聞こえて顔を上げると、膝で眠っていたはずの瑠華が目を擦りながら起き上がる。そしていつものように嫌そうな顔をして私を見た。


「って、夢の中なんだから怜が喋るわけないか。……ふぁ……」


 「じゃあもうちょっと寝よっと」と私の膝の上にまた頭を乗せる。私が何か言おうとする前に頭を乗せてきて、瑠華のその行動に気持ちが追い付かない。


 ……信じられない。あの瑠華が自分から私に……?どうやら夢だと思っているようだけれど、どういうことなのかしら。私が瑠華の夢の中にいるの?


「……さっきはマジでビビったー……あんなこと言われたらアタシがどうしたらいいのかわかんなくなるじゃん……」


 ひとり言を呟きながら、瑠華は目を閉じていた。

 何のことを言っているのか分からず、瑠華の言っていることを静かに聞いていると横になりながらまた私を見上げた。


「ほんと何なの?何考えてんの?あんたって。……アタシが居ないとダメとか何?泣くほどアタシと離れたくないとか意味分かんない。……アタシあんたには嫌な態度しか取ってないのに」

「…………っ」

「ねー聞いてんの?ゆーとーせー」


 そして手を上に伸ばしてきた瑠華の手が私の顔をつまんだり軽く叩いたりしてくる。……私が夢の存在ではないと知られてしまえば瑠華は何も言ってくれなくなりそうで、私は人形のようにされるがままになっていた。


「はぁーこいつ……口うるさいし、アタシに怒ってばっかで全然可愛くないし」

「…………」

「……ははっ。アタシと幼なじみじゃなかったら良かったのにね?かわいそー」


 思わず「そんなことない」と言ってしまいそうだった。……でも言えなかったのは瑠華が起き上がり私に顔を近付けてきたから。

 瑠華からそんなことされるなんて思っていなくて、私は驚いて息を止める。


「……でも。……あんたってほんと綺麗な顔してるんだよねー」

「っ!?」


 こんなに近い距離で瑠華に見られるなんて初めてかもしれない。色んな角度で覗き込んでくる瑠華にドキドキしてしまう。いつも私のことチラッとしか見てくれなかったのに、本当はそんな風に思っていてくれたなんて……。

 誰かに見た目のことを言われても、あまり嬉しいと思うことはなかった。たった一人の誰かに見てもらえる方が嬉しかったから。


「肌すべすべだし、髪サラサラ。……それにみんなに優しくて?勉強も運動も出来て?……良い匂いもするし。……はぁ……チートかよっ。……ほんとムカつく。昔っからそう」


 ……瑠華……。

 瑠華は私のことを人形のように見ているのだろうか。瑠華の息遣いが顔に当たって震える。瑠華は私を抱きしめながら、膝の上に跨った。


「……前はアタシだけの怜だったのに……なんでだよ」

「……っ!」


 背中に瑠華の手が回って、胸元に顔が押し付けられる。……もう人形のフリをするのも限界。私も、と抱きしめ返すと、瑠華が驚いて顔を上げた。


「……え?うご……」

「私は今も、瑠華だけのものよ」

「!?え、ちょっ……アタシの夢、待って」


 顔を赤くさせた瑠華に顔を近付けると、その瞳が潤む。


「え、ヤバ……アタシ、夢に見る程思ってたってこと?え、キモ、なんかはずい」

「……瑠華は世界一、ううん誰よりも可愛いわ。肌も綺麗だし、瑠華のくせっ毛、指に絡まるのが大好きなの」

「わー!!わ!わ!わー!!ウソウソウソ!そんなこと言われたい願望なんてないから!夢覚めて!早く!」


 自分の顔を叩いたりつねったりして夢から覚めようとする瑠華の腕を押さえると、バランスを崩し二人一緒に教室の床の上に倒れた。覆いかぶさるように私が瑠華の腕を押さえつけた形で。……ふるふると震える長いまつ毛、瑠華は戸惑いながら私を見上げる。


「……瑠華……」


 知らない感情が胸を騒がしくする。二人きりということだけが理由じゃなく、お互いに見つめ合ったのは何年振りだろう。

 いつの間にこんなに可愛くなっていたの?瑠華、と自分の中の幼なじみの姿が更新されていく。……見たことない瑠華の表情に私は吸い込まれるように見入っていた。


 そしてあんなに降り積もっていた黒い感情も、さっきの瑠華の本音でサラサラと流れていってしまう。


「ち、違う。違うんだからっ!」

「……うん。そうよね、瑠華は私のことが嫌いだもの」

「あ……当たり前でしょ!?幼なじみじゃなかったら、あんたと居る理由なんて無いんだし」


 ふんっ、と倒れたまま、顔を背けてしまった瑠華。照れ臭そうに頬を膨らませる姿に胸が苦しくなってしまった。

 今までならただ胸が痛くなるだけだったのに、……瑠華の本音を聞いてしまったら、そんな真逆な裏腹な言葉にも愛おしさを感じてしまう。


「……な……なに……?」


 可愛くないことばかり言う口も可愛くなってしまって、見つめていると不機嫌な瑠華と目が合った。


「……っ、うん、分かってるよ」

「…………え、ちょっ…………!」

「っ……瑠華」


 口を尖らせる瑠華に顔を寄せ、触れたい気持ちを抑えきれず頬を寄せていた。柔らかい頬の感触、それから愛おしさが込み上げて唇に吸い寄せられた後、自分の気持ちに戸惑って口端にそれを落とす。


「まっ……」

「……でも私は好き、あなたのこと、誰よりも」


 心の奥から出た言葉だった。

 顔を見る勇気も出なくて、そのまま瑠華の耳元に顔を寄せてしがみつく。もう込み上げてくる想いで喉が詰まって言葉が出てこない。

 ……すぐ引き離されるかと思っていたのに何もしてこない瑠華を不思議に思い、上から退くと、瑠華は私が最初腕に抱いていた時のように静かに眠っていた。


「……瑠華?瑠華っ……どうして?」

『タイムオーバーだよ。……瑠華はもう自分の夢の中に帰ったよ』

「え……?」


 聞いたことのない子どもの声に驚く。


「だ、……誰?」


 子どもの声にしては不気味だった。まるで大人が子どもの声で話しているような話し方。警戒しながら周りを見渡すと、何も無い教室に唯一ある教壇の上に見覚えのあるぬいぐるみが置いてある。

 そのぬいぐるみに違和感を覚え見つめると、また声が聞こえてきた。


『キミの目の前に居るじゃない。ボクのこと忘れたの?怜。瑠華と仲直りしたくて作ったボクのことを』

「……え?」


 まさか、と思い、目を細める。

 声は初めて聞いたけど、その見覚えのある愛嬌のある顔は私が小学生の頃に手作りしたぬいぐるみだった。……忘れようとしても忘れられないもの。


「あなた……ウサ太郎なの?」

『そのネーミングセンスの欠片も無い呼び方やめてくれるかな、怜……いや、我が主』

「……捨てられたんじゃ……」


 あの日に捨てられてしまったと思っていた。受け取ろうとしなかった瑠華に無理矢理押し付けて渡したぬいぐるみが、今ここにあることに驚いている。

 誕生日のプレゼントとして作ったそのぬいぐるみは、瑠華と仲直りしたくて不器用な私が一か月以上掛けて作ったものだった。長い耳と赤い目に白い体、どこをどう見てもウサギなのに瑠華には別の生き物に見えたみたいで気持ち悪いと返されたのよね。

 ……そして私たちの関係が良くなることもなく、ウサ太郎はそんな苦い思い出のぬいぐるみだった。


『瑠華と話せて良かったね、怜』

「……!そうだわ、瑠華は?どうしてまた眠って……?」

『眠ったんじゃなく、瑠華はずっと眠っているんだよ。……さっきのは夢の中の瑠華をこっちに招待しただけ』

「……どういうこと……?ここはどこなの?」


 改めて辺りを見渡す。違和感のある無人の教室、その床の上に私は眠る瑠華と一緒に居た。

 ……瑠華はずっと眠っている……?どうしてそうなったのか、私が直前の出来事を思い出そうとすると、また頭が痛くなった。


『……無理して思い出す必要無いよ。安心して?キミも瑠華と一緒に眠っているから』

「……私も……?」


 急に不安に駆られて、私は瑠華を抱き寄せ教壇の上の、かつて自分が作り出したぬいぐるみを睨んだ。


『……ねぇ、怜。いっそのことやり直してみない?』

「やり直す……?何を?」

『もちろん、キミと瑠華だよ』


 意味が分からず呆然とウサ太郎を見つめる。

 やり直……せるの?……ううん、そんなことあるわけない。例えあったとしても、瑠華とのこれまでの時間さえ無かったことになるのは嫌だわ。


「悪いけど……」

『このままじゃ二人は悲しい結末を迎える。それは避けられない』

「………………」

『だからこれが最初で最後の仲直りのチャンスだ』

「……最初で最後……」

『そう。これで失敗したら、怜と瑠華は一生仲直りは無理だよ。……ボクが可哀想な我が主にたった一度のチャンスをプレゼントしてあげる』

「………………」


 ドクンドクンと自分の中から大きな鼓動が聞こえる。

 不安を煽られているだけだ、と分かってはいても。……これを逃したら、私たちは一生このまま……。その未来が容易に想像出来てしまい、目の前が真っ暗になる。


『……信じて。ボクは怜と瑠華が仲直りできますように、と願って作られたぬいぐるみなんだ』


 ……心が揺れないわけなかった。

 今の私にはその言葉を、何を馬鹿なことを、と無視することなんて出来ない。


「……ウサ太郎……」


 あの時の自分を思い出す。

 避けられてしまった理由が分からず、毎日辛くて苦しかった。それでも瑠華に想いを伝えたくて、瑠華の好きなうさぎのぬいぐるみを作ったのだから。


『……無理しないで、怜。キミは助けを求めていただろう?』


 ……そしてその言葉は、弱っていた私の心に深く刺さる。


「……どう、……すれば……」

『大丈夫だよ。二人は前よりもっと仲良くなれる』

「……本当に?」


 教室の風景が真っ白になっていく。お互いの距離も分からなくなるほど、そして私たちは真っ白な場所にぽっかりと浮いているようだった。


『……ボクに任せて、我が主』


 そして私たちは自分の体も見えなくなる程、真っ白な光に包まれた。




+++




 目を覚ますと、腕の中で眠っていたはずの瑠華はもういなかった。



『おはよう、怜』

「…………おはよう、ウサ太郎」

『……どうしたの?疲れた顔してるけど』


 起き上がりベッドサイドに置かれたぬいぐるみを手に取る。

 ぐちゃぐちゃで色もあちこち違うし、不出来な縫い跡を見るとつい笑ってしまう。……この縫い方は間違いなく小さい頃の私のものだった。


『今日も瑠華に会うんでしょ?そんな顔してていいの?瑠華にフラれるよ?』

「……おしゃべりなウサギさんね」


 ……あの時、私を惑わしたぬいぐるみはここにあった。


 作ったのは自分だけど、こんなに憎たらしい顔をしていたのねと、手にしたぬいぐるみの顔を押しつぶしたり伸ばしたりするとそれに合わせて声が聞こえてくる。可愛いとは言い難い声につい笑ってしまい、手を離した。


「…………ねぇ、ウサギさん。どうして瑠華には私の記憶が無いの?」

『……またその話?』

「……あなたは私たちの仲を取り持ってくれると言ったわ」

『そうだよ。……もしかしてボクのこと信じてないの?』

「……じゃああの子に私の記憶が無い理由を教えて」


 ……笠松怜の記憶が無い彼女に何を言っても分かってもらえない。もちろん彼女の言う通り瑠華では無い可能性だってあるのかもしれないけど……。

 あのルカは、私がよく知っている瑠華だと思いたかった。


『……それはキミたち次第だって言ったじゃない』

「私たち次第って……都合の良い言葉だと思わない?」

『……怜、そうやって焦るから瑠華はキミから逃げるんじゃないか』

「……!」


 何も言えなくなってしまい黙るしかなかった。

 ……毎度同じことを聞いて、私は騙されているのかも、と思いながらも私はウサギさんの言葉を鵜呑みにするしかない。そして私は解消できないモヤモヤを幾度となく抱えることになる。


「…………信じさせてほしいわね」


 出るのはため息だけで、そのままウサ太郎とサイドテーブルの上に置いて私は天蓋付きのベッドから起き上がる。

 時計を見ると、そろそろ私の支度をしにメイドのサラが部屋に来る時間だった。


『……またそうやって思い詰める。……今のキミたちの関係の何が不満なの?今の二人はとても上手くいっているじゃないか』

「……違う、今の瑠華は…………私が知っている瑠華じゃないもの」

『違うって?……違わないよ、今の瑠華はキミに出会わなかっただけさ』

「……私と出会わなかった瑠華……?」


 そんな風に考えたことなかった。……静かに息を吐く。そして目を閉じた。

 『……怜ちゃん』

 ……この世界の瑠華は、一人じゃなかったのかしら……。

 小さい頃の瑠華と出会わなかった私なんて想像出来ないけれど、……レイチェルの記憶の中の私の中に瑠華は居なかった。今更ながらそれを知って胸がざわつく。


 ……私と出会わなければ、瑠華は”私がそうあってほしいと願った瑠華”だったから。




 この世界で目を覚まして、一か月が経とうとしている。


 ――あの日、目を覚ました瞬間、私は笠松怜ではなかった。

 ……ボーっと夢の延長のような感覚で、もう一人の記憶があって……。


 大きくふかふかなベッドから起き上がると、今日と同じようにサイドテーブルの上にそのぬいぐるみはあった。


『おはよう、怜』

「……瑠華は……?」


 辺りを見渡してもどこにもいない。

 ついさっきまで感じていた瑠華の重みも無くなっていた。


『大丈夫、また会えるよ』

「……いつ?どこで?……ねぇ、ここはどこ?」


 頭が痛い。

 ……私は……。疑問を口にしようとすると頭が締め付けられた。


「……ぅっ……」

『大丈夫、瑠華はキミのそばにいるよ』

「……ほん、とう……?」

『もちろん、何も心配することはないよ』

「……そう。瑠華が……いる、なら……」


 ……なんでもいい。


 今思い出せば、あの時の私には余裕が無かった。だからウサ太郎の言葉に簡単に丸め込まれてしまったのだろう。

 違う誰かになりきり過ごしていく、その中で瑠華の居ない生活が当たり前のように過ぎていく。自分の大切な一部が切り離されたようで苦しかったのに、……環境に慣れようと過ごしていくうち、居ないことに慣れていく自分が居て、忘れてしまうことがとても怖くなった。




『…………レイチェル様、起きていらっしゃったのですね』

「……サラ」


 ノックの音に気付かず、私は彼女に声を掛けられて振り向いた。ボーっと窓の外を見ているうちに、いつの間にか時間が過ぎていたようで、メイド服を着る彼女が少し驚いた表情でこちらを見ていた。


 彼女はレイチェル専属のメイドのサラ。メイドカフェのような制服とは違う、シックで肌の露出の少ない制服を着ている彼女は私と歳も変わらない。

 記憶の中にあるサラは私が幼い頃出会ってからずっと一緒に暮らしている幼なじみの従者。世間では完璧な令嬢と言われているレイチェルが本当はそうではないことを知っている、唯一の理解者で姉のような存在だった。


「……おはよう。今日も良い天気ね」


 何事も無かったように挨拶をすると、支度の準備をしていたサラが手を止めて私に近付いてくる。


『……お嬢様、何かありました?』

「え?…………だ、大丈夫よ。何もないわ」

『……私に隠し事など無意味です』

「…………ぅ」


 ……私が彼女になって、一か月が経とうとしている。


 普通の家庭で育った私とは何もかも違う生活に戸惑うことばかりで未だに慣れない。急に貴族のお嬢様だなんて、最初目を覚ましてサラと話した時は思考が追い付かなかった。

 ……それでもここまで過ごせたのは、瑠華がこの世界に居ると信じていたから。


『さぁ、こちらへお座りください、お嬢様。そのような曇った顔をしていては愛らしいお顔が台無しですわ』

「……言い過ぎよ……」


 私は仕方なく諦めて、鏡台の前に座った。……するとサラが後ろに立って、私の髪を梳かしはじめる。


「……あのね。その……意味が分からないと思うから、聞き流してほしいのだけど」

『……はい』

「……私、分からなくて。自分がどうすれば良かったのか、……これからどうすればいいのか」

『あら……聡明なお嬢様でも迷われることがあるのですね』

「違うの。聡明なんかじゃないの。今の私は……」

『……今のお嬢様は何が違うのですか?』


 これまでのレイチェルなら、こんなことで迷わなかったでしょうね。ううん、こんなこと、考えないのかも。

 鏡越しにサラを見ると、その目は真剣に私を見つめていた。


「……今の私があなたの知っているレイチェルでは無いと言ったら……?」

『……まぁ、……そうですか』


 サラはそれだけ言って、また私の髪をいじり始めた。私は呆気に取られてしばらく彼女の顔を見つめてしまう。


「……え?それだけ?」

『そうですねぇ……それよりも私は、今目の前にいらっしゃるお嬢様が頭を悩ませていらっしゃる問題の方が気になりますし』


 私を見る彼女の視線は、いつもと変わらず優しかった。……どうして?なぜ?とただ首を傾げると、彼女の手が私の頭を撫でる。


「…………きっと彼女、怒っているわ。私のことが心配じゃないのかって」

『私の知るレイチェルなら、笑って許してくれるはずです』

「…………羨ましいわ、その関係……」


 髪を梳かしながら話を聞いてくれるサラは私、笠松怜にとっても姉のようでとても居心地の良い人だった。


『……私はあなたともそのような関係だと思っております』

「……サラは優しい人ね。ありがとう、私の話を聞いてくれて。……でも、本当にもう大丈夫よ」


 ……ただ信じていないだけなのかもしれないけれど、私が一方的におかしなことを話していると思われても仕方ないのに、サラは私の話を否定しない人でどんな他愛もない話も聞いてくれる。現実の私の周りには居ないタイプだった。こんなに心強い人が現実にも居たら、私はもっと瑠華の前で素直になれたかもしれない。


 ……今までの私は、弱い自分なんて見せなかった。周りに……というより、誰よりも瑠華に嫌われることが何よりも怖かったから。まぁ、それが原因で嫌われていたのかもしれないけれど、どんどん歯止めが利かなくなっていた。


「……ふぅ……気分転換に髪型を変えてみようかしら。ねぇ、どんな髪型が似合う?いつも私、」

『お嬢様』


 これ以上サラに心配は掛けられない、と悩むのはやめたあと、サラに肩を強く掴まれ困惑する。


「……え?サラ?どうしたの?」

『礼など必要ありません、私は今、お嬢様の悩みが聞きたいのですが?』

「え……?だから、あの……も、もう大丈夫よ。サラが話を聞いてくれたからスッキリしたわ」

『何を遠慮なさっているのですか?私とあなたの仲ではありませんか。さぁほら、さぁさぁ!』

「……あ!あー……じ、時間が無いわ!サラ、あなたの仕事、私がしてもいいのかしら」


 逃げるように立ち上がると、私は用意されていた服に手を掛けた。……するとしばらく二人の間で視線の攻防が続いた後、サラが落ち着きを取り戻した様子で渋々私から服を奪っていく。


『……ふぅ。……仕方ありませんね。では本日は私の好きなように髪をいじらせていただきます』

「……ふふっ。お願いね、サラ」


 安心してまた鏡台の前に座ると、背中から大きなため息が聞こえてくる。それに私は苦笑しながら体を預けた。


 ……私たちも彼女たちのような関係になりたかった。



 伊崎瑠華という私の幼なじみは、幼い頃近所に引っ越してきた子で、いつも公園や保育園でも一人で遊んでいた。私はそんな彼女のことを一目で気に入ってしまい、仲良くなりたくていつも見ていた。


 小さい頃の瑠華は他の子たちには目も向けず、一人でいつも砂場で遊んでいる子だった。……何度も山を作っては崩れていくのを繰り返していたけれど、その一生懸命さが可愛くて、気付けば私はその子のことばかり目で追っていた。

 それから幾度か砂場で遊んでいる瑠華に声を掛けているうちにやっと私のこと怜ちゃんって呼んでくれるようになって……あの時のことは今でも忘れられない二人の思い出。……忙しい瑠華の両親の代わりに私が家族に、瑠華のお姉ちゃんになって寂しさを埋めてあげたかった。

 私の生活が瑠華を中心に回り始めたのはその頃だった。


 ……でも次第に瑠華は変わっていって、私から離れるようになって……。

 今思えば、あの時私が少しでも引く努力をしていれば、関係はこんなに悪くならなかったかもしれない。

 瑠華に嫌がられても、それでも私は瑠華を手放したくなくて必死だったから。


「………………」

『……お嬢様?お支度整いました』


 ……目を開けると、いつもの私とは別人の誰かが鏡に映っていた。

 いつも一つに束ねていたけれど、今日は髪を下ろして丁寧に巻いてある。いかにもお嬢様、という見慣れない私が居て戸惑った。


「え、……えっと……あ……ありがとう。とても……素敵ね」

『はい、皆の視線をひとり占めです』

「……そう、ね……。でも……私は一人だけで十分よ」




+++




「……わぁ!おはようございますレイチェル様!今日はいつも以上にキラキラしてますね!素敵です~」

「おはよう、アイラちゃん。……ありがとう、気分転換に髪型を変えてもらったの」

「最高です!ねぇねぇルカ!ルカもそー思うでしょー!?」


 いつもの朝、駆け寄ってくるアイラちゃんに連れられて彼女が現れる。

 ……あんなに私と一緒に居るところを見られるのが嫌だって言っていたのに、アイラちゃんと話すようになってからはこうして私に挨拶に来てくれるようになった。


 ……こういう所、瑠華なのよね。

 瑠華も私と一緒に居るところを見られるの、いつも嫌がっていたし。


「……んー……」

「あの……せっかくだし何か言ってもらえるかしら。似合わない……わよね?」


 ……彼女は瑠華でもあるけれど違う瑠華なのだろう。……私の知ってる瑠華なら強く言えるのに、……そうじゃないと知ってしまうと他人のように見てしまう。

 本当はもっと色々言いたいことがあるのに……もどかしい。


「いや、そんなことないよ。……今日はいつもよりもおじょーさまって感じ」

「なにその感想~。とーっても可愛いですよ、レイチェル様っ」

「ふふっ……ありがとう、二人とも」


 私のことを覚えてないからって瑠華じゃないと決めつけるのは間違ってるとウサ太郎には言われたけれど……今の彼女は私への態度が違いすぎるもの。

 このまま……私のことはもう思い出してくれないのかしら。でもそうなのだとしたら、私はどうやって瑠華と仲直りすればいいの?ゴールが何も分からない状態で私の中には不安が増えていくだけ。


 ……やっぱり思い出してほしい……私のこと、笠松怜のことを。

 良い思い出ばかりじゃないけれど、私の中の瑠華との思い出は大切なものばかりだった。


「だって別人すぎじゃん」

「ふふふ。そんなに違うかしら」

「うん……同じ顔なのに不思議」


 ……それはあなたもよ、と口から出てしまいそうだった。


 いつもの私とは違うと誰よりも感じていた。それは周りの目を見れば明らかだった。

 ……サラったら……私が話さなかったことで拗ねるなんて。今日は本当に皆の視線が自分に向いているのが分かる。落ち着かずにそわそわしていると、いつもならすぐに教室に向かってしまう彼女がまだ居ることに気付いた。アイラちゃんが私に話しかけているその後ろで私を見ていた。


「……ルカ、どうしたの?珍しいわね、まだ居るなんて」

「え?……あ……いや……可愛いなって思って見てただけだから気にしないで」

「…………え?」

「なっ!?ルカも私のライバル!?」

「ちっ、ちがうって!……ただ見てただけじゃん」


 アイラちゃんとルカが言い合いを始める。私はそれを見ながら、顔がとても熱くなっていくのを感じていた。

 ……まるであの誰も居ない教室で、夢だと思って私に話しかけてきた瑠華のようだった。……内心ではそんな風に思っててくれたんだ、と嬉しくなってしまう。


「あぁっ、もう時間ー。レイチェル様~お勉強頑張ってくださいね!ほら行くよ、ルカ!」

「え、えぇ、ありがとうアイラちゃん。二人とも頑張ってね」

「は~い!」

「……はぁ。じゃ、またね」

「……えぇ」


 手を振って別れた後、「またね」と言ってくれた彼女の去っていく後ろ姿を目で追った。また……ということは、放課後会えるのね。

 素っ気無い態度だけど、私たち二人にしか分からない繋がり。暗黙の了解のような挨拶に胸を弾ませる。


 今の関係は前に比べれば少し遠いけれど、今までよりも心地いい関係だった。

 …………ただ、少し物足りない。


 瑠華だったらこう言うのに、こういう反応するのに。……こんな顔をして笑いかけるの?いつもの瑠華だったら…………。そんな風に考えてしまう。

 私に嫌な顔をする瑠華が好きなわけじゃない、……でも他の子と同じように私に笑いかけるルカを見ていると、とても複雑な気持ちになる。


 他の子に接するように私にも話してほしい、と願っていたのは自分なのに、いざそうなったら受け入れられずにいるのは私だった。


「……今の私って何なのかしら……」


 サラのような幼なじみでもアイラちゃんのような友達でもルカのお姉ちゃんでもない。


 関係も変わった今、

 私は瑠華への気持ちも変化し始めていた。




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現実で大嫌いだった幼なじみと別の世界で記憶を失くして再会したら、思ってなかった甘い関係になっていました。(仮) かるねさん @ogyuogyu

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