好敵手

しらす丼

好敵手

 この道を走り続け、どれくらいが経っただろう。


 流れる景色はどこか朧げで、駆ける道は舗装されたコンクリートのグレーが続く。


 いつもなら聞こえるはずの歓声が一切耳に入ってこなかった。


 圧倒的、孤独感。


 それ気づいた途端、急に呼吸が浅くなった気がした。


 いつからだろう。いつから私は一人になった? あの時はまだ、君がいたのに――。


 ふと、記憶の奥底から君の姿を呼び起こす。


 高い位置で結えられた髪。規則的な吐息と美しい両腕の振り。そして、君の心を反映したかのような真っ赤なユニフォーム。


 手を伸ばせば届きそうなほど、君は私の目の前にいた。


 ――そう。君はずっと、誰もの憧れだった。


 誰も届かない高みにいる君を崇拝しつつも、挫折を味合わされ走ることをやめていった者は幾人も存在していた。

 

 しかし――いつも見ていたはずの君の背中は、いつの間にか見えなくなっていた。


 どれだけ目を凝らし周囲に視線を巡らせても、君の残滓すら認められない。


 ずっと憧れだった君は一体、どこへ行ってしまったのだろう。


 ため息と共に、落胆で肩が下がる。


 私が君に憧れ走り始めたあの日に、まさか君がいなくなる今を想像できただろうか。


 できるはずもなかった。だから私は今も君を探している。目の前に君がいない事実を受け入れることができなくて。


 ねえ、君はどこへ行ってしまったの?

 私を一人ぼっちにしないで――。


 汗なのか涙なのかもわからない水滴が、頬を滑り落ちる。その時――


 懐かしい足音が聞こえた。ハッとして振り返ると、視線の遥か後方に――君がいた。


 私を捉えた君は眩しいそうに目を細め、微笑んでいるように見える。


 そうだった。あるとき私は君に追いつき、そして――追い越していったのだった。


 私に追い越された後、君は急に足を止め、その場に立ちすくんだはずだ。


 どうして君がすぐに抜き返してこないのか、私はこのとき疑問に思ったことを覚えている。


 私のような相手に抜かれたことがそれほど堪えたのだろうか。


 いや――君がそんなことで足を止めるなど、あり得るはずがない。


 少ししてから振り返ると君の姿は芥子粒ほどになり、そしていつしか見えなくなっていた。


 それなのに君は、また私の視界に戻ってきた。あの後どれくらい足を止め、どれほどの時間をかけて戻ってきたのだろう。


 開いていたはずの距離は徐々に縮まり、気づけば君は私の背中にピタリとついていた。


 横に並ぶ。その直後、君は私を華麗に抜き去っていった。まさに一瞬のことだった。


 その背中が徐々に遠ざかっていく。あれだけ近かったはずの君が、もう追いつけないほどの距離にいた。


 私には驕りがあったのかもしれない。


 誰も私には適わない。だから私は今のままで良いのだ、と。


 しかしそんな驕りが、私を敗北者した。


 ふいに足を、止めたくなった。惨めで恥ずかしくて。無敵だと思っていた自分が、実は弱者だったのだと思い知らされたことで。


 ――ダメだ……ここで止まれば、絶対に追いつけない。そんなのは、嫌だっ!


 前を見据える。すでに見えなくなった君の背中を睨み、止まりかけた足をさらに早く動かし、そして強く地面を蹴った。


 遠ざかっていた君の背中が再び見えてくる。


 ――今度はもう譲らない。先頭を行くのは、私だ。


 君と並んだ。


 あがった吐息。ぶつかりそうな腕。


 君と共に走れることの喜びを、私は今しっかりと踏みしめる。


 隣を走る君の存在を、私は身体いっぱいに感じていた。


 君もきっと同じ気持ちでいると、私は信じたい。


 口元をきゅっと結び、私は最後の力を振り絞る。


 前方にゴールテープが見えた。どちらが先に切ってもおかしくは無い状況。


 でも――


 ゴールを知らせるピストル音が空に響く。


 ゴール後に見た君の顔はとても爽やかで、楽しそうに笑っていた。


 私は君の元はと歩み寄り、無言で手のひらを差し出す。


 君はどう受けるだろう――そんな若干の不安はあれど、しかし君はこの手を取ってくれることを私は悟っていた。


 それから君はやはり無言で私の手をとり、意外にも歯を見せて笑った。


 なんだ良かった。君も私と同じだったのか。

 私も君に歯を見せて微笑んだ。



 ***



 目を開けると、自宅のベッドの上だった。


 そうだ、今のはぜんぶ夢――。


 スタートリストで君の名を目にした時から、私はずっと心待ちにしていた。


 今日という日のことを。

 そう。君との再戦を、だ。


 先ほどみた夢の内容はすでに忘れてしまったが、きっとそれは正夢になるだろう。私はそれを確信していた。


 ベッドから身体を起こし、軽く伸びをする。ふと差し込む光に誘われて、窓に目を向けていた。


 空はよく晴れている。絶好のランニング日和だ。


 ――楽しみだな。




 一人では越えられない壁も、君となら。


 競い合える好敵手ともがいる――それはきっと、幸せなこと。



(了)

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好敵手 しらす丼 @sirasuDON20201220

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