33 願い

 天気は快晴。薄手の長袖のトップス一枚でちょうどいい陽気。俺と兄は、水族館が開館する十時より少し前に到着した。

 列に並んで、チケットを買った。入ってすぐに見えたのは大水槽で、大小様々な魚たちが優雅に泳いでいた。


「見て、ケイちゃん。エイ可愛い」

「……変な顔」

「可愛いってば」


 俺はぺたりとガラスに貼り付いてエイの姿を追った。


「カナったら、子供みたい」

「いいでしょ。久しぶりなんだから」


 いつまでもそうしていたかったが、兄があからさまに退屈し始めたので、どんどん展示を見ていくことにした。兄が惹かれたのはクラゲだった。


「綺麗だ……」


 クラゲの部屋は暗くなっており、水槽がライトアップされていた。兄が特に気に入っていたのはタコクラゲだった。兄は目を輝かせながら言った。


「自然のものって美しいね。こんな形、人間には思いつかないと思うよ」

「神様が作ったんでしょう?」

「神様かぁ。カナはいると思うんだ」

「うん。俺はね」


 それから、熱帯魚や川魚のコーナーを見ていると、アナウンスが鳴った。もうすぐイルカショーとのことだった。俺は兄の手を引っ張った。


「ケイちゃん、急いで!」

「カナ、走ったら危ないって」


 俺は一番前の席に陣取った。兄はきょろきょろと周りを見回した。


「ねえカナ、ここだけ座席の色が違うんだけど」

「ああ、濡れるからね」

「ええ……」

「父さんと来た時は許してもらえなかったの。だからいいじゃないか」


 軽快な音楽が流れ、四頭のイルカが一斉に姿を現した。俺たちは早速濡れた。イルカたちはステージまで行って自己紹介。それぞれ個性的な名前がついていた。

 飼育員を乗せて泳ぎ、輪をくぐり、ボールを揺らし。ショーは一瞬たりとも目が離せなかった。イルカが着水するたびに水がかかり、終わった頃には二人ともびしょ濡れだった。


「カナ。どーすんのさ、これ」

「あはっ。お日さまで乾かそう」


 テラス席のあるカフェがあった。そこでハンバーガーを注文して食べた。


「ケイちゃん……喫煙所あるのかな、ここ」

「調べるよ……うん……ないね」

「我慢だね」


 ウミガメのプールに行き、最後はペンギン。土産物のコーナーも見てみたが、もう俺たちには物は要らないから。何も買わずに水族館を出た。

 帰宅して一服してから、ベッドの上で兄のスマホを使い、二人でミュージックビデオを観た。俺はポテトチップスを持ち込んでいて、それをつまみながらだ。


「僕……やっぱりこれが一番好きだな」


 兄がそう言ってタップしたのは、俺たちがハマるきっかけとなった曲だった。叶うことなら、彼に直接会ってみたかった。俺の英語力じゃしっかりと気持ちは伝えられないと思うけど。

 夕方になって、兄がオムライスを作り始めた。タマネギとニンジンはみじん切り。鶏肉も食べやすい大きさに。


「料理するの……しんどかった」


 兄が手を動かしながら語り始めた。


「父さんはやって当たり前だろ、みたいな感じで褒めてくれたことなんてなかった。けど、カナはいつも美味しそうに食べてくれたよね」

「だって美味しいもん」

「ふふっ……だから僕も救われた」


 卵がふんわりと乗ったオムライスが出来上がった。俺の人生最後の食事。よく噛んで、じっくりと味わった。


「ケイちゃん、ごちそうさま」

「本当に……オムライスで良かったの?」

「うん。オムライスが良かったの」

「そっかぁ……」


 兄が片付けをしている間、俺はソファでクロマルと遊んだ。そして、ようやくこの子をどうにかしてやらないといけないことに気付いた。今から里親探しなんて無理だ。


「ケイちゃん、公園行ってくる。すぐ戻る」

「ん? わかった」


 俺はクロマルを抱いて外に出た。そして、公園のベンチの上に座らせた。


「ごめんねクロマル。誰かいい人に拾われるんだよ」


 クロマルはくわぁとあくびをした。俺の言っていることが、わかっているのか、いないのか。

 逃げるようにして帰ると、兄がタバコを吸っていた。


「お帰り。何してたの?」

「クロマル逃がしてた」

「えっと……あのネコ?」

「うん」

「カナも変なことするなぁ。まあいいけど」


 そして、タバコを消した兄は、俺に近づいてきてアゴをさすってきた。


「カナ……」

「んっ……」


 ――ケイちゃんとするの、これで終わりなんだ。

 俺は、きちんと言葉で確かめておこうと思った。


「ケイちゃん。どういう風にしたい?」

「……激しいのがいい」

「音楽かける?」

「いいね……」


 そして、兄が俺にぶつけてきたのは、兄が俺に抱いてきた感情全てだった。濁流のように俺を飲み込み、打ち付け、奪い取った。

 俺だって兄を追い詰めた。気持ちの強さなら負けてはいないつもりだ。


「カナのせいで……カナのせいでこうなった!」

「ああ、そうだよ! 俺がケイちゃんを堕としてやった! 踏み越えさせた!」

「嫌いだ嫌いだ嫌いだ……!」


 二人とも高ぶりすぎて、最後は泣きながら身体をぶつけていた。


「カナ……愛してる、カナ……」

「俺も……愛してる……」


 座って抱き合った形で終わり、しばらくそのまま胸をぴったりとくっつけていた。


「終わっちゃったね、ケイちゃん」

「……決心、鈍った?」

「ううん。全然迷ってない。今夜やろう」


 それから、バスタブに湯を張って、残りのローションを全部注いでしまった。


「うわっ、ぬるぬるー」

「カナ、これはやりすぎだったんじゃない?」

「ちゃんと流さなきゃねぇ」


 身体の隅々までしっかり洗って、ヒゲも剃って。家を出る前に、ビールを飲むことにした。俺は一口飲んで言った。


「正直まだキツいんだけど。最後の最後まで慣れなかったな」

「じゃあ無理することないよ」

「ううん。一缶飲み切らなきゃなんか格好つかない」

「カナってそういうとこあるよね」


 玄関の鍵はきちんとかけておいた。門を出る直前に、俺は立ち止まって家を振り返った。俺と兄が育った場所。間違いを犯した場所。愛し合った場所。


「……さよなら」


 もうここに帰ってくることはない。全部の思い出を置いて、俺たちは行くのだ。

 なるべく高い建物を探すため、繁華街まで出た。道行く人々は、まさか俺たちが終わりの場所を探しているだなんて思いもしないだろう。それくらい、俺も兄も嬉々とした表情をしていた。


「ああ……高いマンションは大体オートロックだね」

「そうだねケイちゃん。雑居ビルは?」

「そうしよう。古いとこがいいな。屋上に入れないと意味ないから」


 いくつかのビルを回り、ようやく侵入できた。空は鈍色。街の明かりが強すぎるせいか星もよく見えなかった。


「ケイちゃん。タバコ吸わせて」

「いいよ。僕にも一口」


 一本のタバコを俺たちは回し吸いした。吸い殻はコンクリートの床に踏みつけた。これが俺たちの痕跡になるのだ。

 兄は手錠を持ってきていた。俺が左手に。兄が右手に。それぞれキッチリとかけた。


「……ごめんカナ。やっぱり、こわい」


 そうなることは予測していた。だから、俺は兄を抱きしめた。


「うん。絶対痛いと思う。俺だってこわいよ」

「もし……もし僕だけ生き残ったら?」

「大丈夫。この高さならいけるって。下に障害物もないしさ」

「カナを巻き込んで……本当に良かったの? 僕は正しかったの?」

「あはっ、思いっきり間違えた結果だよ。でもいいんだ。それでこそ俺たち兄弟でしょう?」


 そして、ゆっくりと唇を重ねた。


「ありがとう、ケイちゃん。俺を育ててくれて。憎んでくれて。愛してくれて。ケイちゃんは最後まで自分勝手だったけど、それがケイちゃんだから。弟のこの俺が全部受け止めてあげる」

「ありがとう……ありがとう、カナ……」


 強い風が吹き付けてきた。バサバサと俺たちの髪が舞い、目を開けているのも辛くなった。

 でも、終わるその時にはしっかりと焼き付けておきたいから。俺は兄の頬に触れた。


「笑って、ケイちゃん」


 誰よりも近い存在。俺が愛する唯一の人。彼の笑顔が見たかった。


「……僕、笑えてる?」


 口角は歪に上がって。目からはポロポロ涙をこぼして。やっぱり情けない人だなぁ、と思う。だからこそ、俺は捧げたのかもしれない。


「俺が引っ張る。ケイちゃん、根性ないでしょ。ついてきなよ」

「わかった……もう一度、もう一度だけ」

「んっ……」


 兄の方から離れるまで、舌を絡めていた。


「……ありがとう、カナ」

「うん。ありがとう。俺、ケイちゃんの弟で良かった」


 俺は兄の右手をぎゅっと握った。そして、ゆっくりと闇夜に飛び込んだ。

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