31 二人

 兄は確かに言った。一緒に死のうと。俺は何も答えられずにいた。兄は続けた。


「一人で死ぬのはこわいんだよ。カナのこと残すのも不安だし。一緒に死んで。お願い」


 俺は今まで、自分の生死などとやかく考えたことはなかった。父の期待通りにとにかく人生のコマを進めていただけだ。

 だから、急に迫ってこられても、とても気持ちが追いつかない。


「……考える時間、ちょうだい。俺だって死ぬのはこわいよ」

「あっ、そうだよね。ゆっくりでいいよ」


 そして、兄は俺の髪を撫でた。俺は言った。


「薬……飲まなきゃね」

「もうあんなのいいよ。どうせ効かないし。また夢見るんだろうな……」

「まあ、俺がちゃんと隣にいるからさ」

「ごめんねカナ。カナも寝苦しいでしょ」

「大丈夫だよ」


 その夜の兄は、なかなか抑えがきかなかった。枕を振りかざして襲ってきたのだ。


「ケイちゃん、落ち着いて」

「父さん! どっか行けよ!」

「俺だってば。ケイちゃん、ケイちゃん!」


 この時ばかりは俺の方が手足が長くて良かった。兄の枕を奪い取って床に投げ、兄を組み伏せたのだ。


「やだっ! やだぁ!」

「ケイちゃん、ちゃんと俺のこと見て!」


 兄の手首をがっしり掴んでシーツに押し付けた。兄の目は開いていたが、まだ悪夢の中なのだろうか。俺から逃げ出そうと身をよじらせた。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」


 それは俺自身にも言い聞かせた言葉であった。


「あっ、あっ……カナっ……?」

「そうだよ、俺だよ」


 兄は大人しくなってくれた。


「ごめん、暴れてた……よね」

「うん。どうする? いっそ起きとく?」

「そうだね……また何か見るのやだ……」


 俺はドリップコーヒーを作ってテーブルの上に乗せた。時刻は夜中のニ時。丑三つ時というやつだ。


「ケイちゃんがどんな夢見てるのかは……聞かない方がいい?」

「うん。話すと頭にこびりついちゃいそう。まあ……父さんの夢だよ」

「じゃあ、聞かない。そうだ、まだアイスあったっけな。食べる?」

「食べようか」


 チョコレートの棒アイスに俺たちはかじりついた。


「ケイちゃん、ちゅー」

「んっ……」

「……ひやあまー」

「何それ」

「冷や冷やしてて甘い」


 クロマルも寄ってきて、俺の隣でくるりと尻尾を巻いて座った。


「ねぇ、ケイちゃん。俺さ、今すっごく幸せなの。ケイちゃんもそうなんでしょう。なのに死にたいの?」

「うん。これ以上何か起こる前に。僕が僕でいられるうちに。幸せな気持ちのまま死にたい」

「そっかぁ……そういうことかぁ……」


 少しずつわかりかけてきた。生まれることは選べないが死ぬのは選べる。兄は自分の最も望むやり方で幕を閉じたいのだろう。


「でもケイちゃん、自殺したら天国行けないよ」

「父さん殺しちゃったんだ。どのみち無理でしょ」

「あっ、そっか。二人とも地獄行きかな」

「まあ……死後の世界があるだなんて、僕は信じていないけどね」


 アイスを食べ終えた兄は、棒をポトリとゴミ箱に落とした。


「それに、この生活を延々続けていけるほどお金ないんだよ、カナ」

「まあ、そうか」

「父さん殺しても僕の収入だけで何とかやつていくつもりだったんだけどね。僕まで働けなくなったからもうダメだよ」


 俺も棒を捨てた。兄が俺の手の甲に手の平を重ねてきた。


「カナはやっぱり生きたい?」

「うーん、どうだろ。大学も行く気なくしたし。元々夢とか持ってなかったし。ケイちゃんがいない世界なんて意味ないし」


 俺はぬるくなりつつあるコーヒーを口に含んだ。そして提案した。


「色々やってみてからにしない? ケイちゃんもやり残したことあるでしょ?」

「ああ……ライブ行きたかったな」

「それは叶いそうにないね」


 あのバンドが近いうちに来日してくれるなんていう奇跡は起きないだろう。俺はふと思いついて兄に言った。


「ねえ、ライブ映像観るのは? リビングのテレビでさ。確か円盤出てるでしょ」

「ああ……どうだったっけ」


 兄はスマホで検索を始めた。俺たちが気になったのは最初に発売されたDVDだ。


「ニ〇〇〇年のツアーか。カナが生まれる前だ」

「俺これ気になる。買おうよ」

「ちょっと待って……ネットだと中古しかない。状態もよくわかんないな」

「明日、っていうか日付的には今日か。店に探しに行ってみようか?」

「カナがしんどくなければ」


 体力を温存しようか、と俺は寝転がった。兄がすかさずくっついてきた。


「ねえ、ケイちゃん、他には?」

「思いつかないな……趣味なんて音楽以外なかったから」

「やらしーことは?」

「散々やった」


 兄は俺の耳をくすぐってきた。俺もやり返した。徐々に俺たちの距離は近づき、唇を重ねた。あくまでそっと、柔らかく。

 この身体が滅びれば、こんなこともできなくなる。それは正直なところ寂しかった。俺はずっと、ずっと、ずっと、ずっと、兄と触れ合って感じ合っていたい。

 兄の当初の目的など、もはやどうでもよくなった。結果として互いに離れられない二人となったのだから。

 身体を休めなければならない。そう思うのに、胸の奥がうずき、また、あの陶酔感を味わいたくなった。


「あっ、こら、カナ……」

「えへっ。少しだけ」

「どうせ少しじゃなくなるでしょ……」


 ここまで貪欲になってしまったのは兄のせい。だから、兄に相手してもらうしかないのだ。俺は兄に教えてもらったやり方で指を動かした。

 ――そっか。俺は兄を慰めるために生まれたのかもしれない。

 俺が兄の孤独を埋めた。俺が兄のはけ口になった。俺が兄の拠り所になった。

  

「んっ……」

「ケイちゃん、濡れてる」

「だって……」


 兄の呼吸のリズムが変わった。もうそれが合図だと判断した俺は一気に加速した。絡めて、握って、すりつけて。

 俺がどんな風に成長したのかをしっかりわかってもらった。その中で、俺の覚悟も決まったけど、口にはしなかった。

 しなやかな兄の身体を曲げさせて、深いところまで結びつけた。兄の言葉をひと欠片も聞き漏らさず、与えられるものは全力で与えた。

 新聞配達だろうか。バイクの音が聞こえてきた。兄は髪を乱して俺の腕の中で余韻を楽しんでいるようだった。


「結局こうなるんじゃないか……」

「ケイちゃんだって乗ってたくせに」


 兄はもぞもぞと俺の毛をいじりだした。


「……カナ。タバコ吸いたい」

「ああ、持ってこようか?」


 灰皿とタバコとライターをテーブルの上に運んだ。兄が言った。


「あれやりたい。シガーキス」

「何それ?」

「片方が先につけた火をもう片方のタバコに移すの。カナつけて僕のにあててみてよ」

「うん」


 俺はいつも通りライターを使い、兄がくわえたタバコに自分のタバコの先を触れさせた。兄は何度か息を吸い込んだようだった。なかなかつかずに灰がハラハラと落ち、一旦離してもう一度やってみると成功した。


「……難しいもんだね」

「っていうかケイちゃんだってつい最近吸い始めたところだったのに、こんなのよく知ってたね」

「その……キスの種類、調べてた時期があって。それで知った」

「全部俺に試した?」

「まだやってないのある」

「じゃあ今からやるー?」


 俺も一緒にスマホを見ながら、次々と試していった。そのうちに、なんだか気恥ずかしくなって。兄の顔が上手く見られなくなって。ついにはプッと吹き出してしまった。


「もう、カナから言い出したんでしょう?」

「さすがに……静電気はさ……」

「はいはい、もうやめー」


 兄はごろりと横になった。俺は兄の腕に頭を乗せた。 


「……ごめん、ケイちゃん。眠いや」

「うん。無理しないで。寝たらいい」

「んっ……」


 兄の呼吸をすぐ側に感じながら、俺は眠りについた。

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