30 赦し

 雨音がする。それに耳を傾け、目を閉じたまま、兄の身体を探った。小さな手にたどり着いたので、それを握って楽しんだ。

 タバコが吸いたくなったのでリビングに行き、冷蔵庫の中身を確認した。卵がまだ残っていた。今朝は卵かけご飯にしてもいいかもしれない。米を炊いた。

 クロマルは起きていて、ソファの上に座っていた。にゃあにゃあ鳴いて呼んでくるので隣に腰掛け、腹をさすってやった。

 テレビをつけた。朝の情報番組だ。野球選手とアイドルが結婚した話題でもちきりになっており、くだらないと思ったのだが、どこの局も同じことをしていたので仕方なく流していた。

 米が炊けたので、少し大きめの器に盛って卵を割り入れ、寝室に運んだ。兄の肩を叩いて起こした。


「ケイちゃんおはよう。卵かけご飯にしよう」

「ああ……いいね……」


 醤油をたらして混ぜてかきこんだ。たったそれだけなのに美味しい。刻み海苔があればもっとよかったか。兄に朝の薬を飲ませて二人で横になった。


「今日も雨か……辛気臭いな……」

「ケイちゃん雨苦手だよね。まあ俺もだけど」

「買い物、行くんだよね。あれ買ってきて。プリン」

「生クリームのってるやつ?」

「そう、それ」


 スーパーが開く頃になったので、俺は自分の傘を持って外に出ようとしたのだが、傘が錆びついていた。乾かさずに閉じて放置していたのが悪かったらしい。兄のものを拝借した。

 まずは忘れないようにプリンを。俺の分もカゴに入れた。売り場をぐるぐる回ってみると、材料がカットされた状態で袋に入っており、炒めるだけでできるミールキットを見つけた。鶏肉と香味野菜の炒め物。今夜はこれだ。日持ちする食料品もいくつか買った。


「ケイちゃん、プリンいつ食べる?」

「三時のおやつにしようか」

「はぁい」

「あれ……そういえば、今日何曜日だっけ」

「確か火曜日かな?」

「燃えるゴミの日だ」

「うわっ、今から間に合うかな?」

「無理だと思う」


 俺はキッチンに行ってゴミ箱を見た。パンパンだ。言われるまで全く気付かなかったのは俺も悪かった。袋を縛って隅に転がし、新しいものをセットした。

 昨夜も悪夢を見たせいだろう。兄は浮かない顔つきをしていた。人は触れ合うと、ホルモンか何かが出て安心すると何かで読んだことがあったので、俺はぺったりとくっついた。

 兄は何も喋らなかったが、腰に手を回してきた。雨は激しくなってきて、風も出てきたようだ。

 三十分ほどして、兄が眠ったので、タバコを吸いに行った。そして、何かあれば連絡しろと言われていたことを思い出し、精神科に電話をかけた。

 兄があの薬では眠れないことを訴えたのだが、予約がいっぱいらしく、次の診療日まで様子を見るように言われてしまった。精神科とはどこもそういうものなのだろうか。まるで役に立ちやしない。

 昼は冷凍のパスタにした。パスタばかり食べているような気がするが、最近は味の種類も豊富で飽きないのだ。


「ケイちゃん起きて。昼ごはん」

「んっ……」


 兄が半分ほど残してしまったので俺が食べた。兄はすぐに横になってしまった。後片付けをして一服をして戻ってくると、兄はぽつりと言った。


「カナ……死にたい」

「えっ?」


 兄の目は俺を見ていなかった。どこか遠いところを眺めていた。


「父さんを殺した……会社にも行けない……僕には何の価値もない……」

「まあ、ケイちゃん社会的にはそうだろうね」

「元々、長生きなんてしたくなかったんだ……カナが自立すればいつでも死ねるって思ってたし……」

「でも、ケイちゃんのせいで大学生活ダメにされたわけだけど」

「そうだよね……やっぱり僕は死ぬべきなんだ……」


 俺は兄の手をそっと握った。


「確かにケイちゃんは殺人犯だし俺に虐待もしてたし本当にクズだけど、クズでもしぶとく生きてる人間なんていくらでもいるよ?」

「僕は、僕を赦せない」

「赦す、かぁ……」


 あの日、スコップは最初から二本あった。俺と一緒に父を埋めることは以前から兄の計画にあったのだ。


「まあ……父さんに殴られてたんでしょう?

父さんだって悪いよ」

「でも殺さなくてもよかった。僕がこの家を出れば済むことだった」

「ケイちゃんが父さん殺してくれたおかげで一緒にいられるわけだし、俺はこれでよかったけどなぁ……」


 俺は兄の上に馬乗りになり、額にキスをした。


「ケイちゃん言ってたじゃない。楽しもうって。俺と二人きりの生活、幸せじゃないの?」

「幸せだよ……だからこそ、こわいんだ……」


 また、兄は泣き出した。気が済むまで吐き出させてやろうと思った俺は、兄の真横について胸を貸した。


「父さんに勝てたと思ったんだ……父さんからカナを奪って、未来も奪って、これで強くなれた気がしたんだ……そんなことなかった……」


 俺はいくつか浮かんだセリフをそのまま頭の中で泳がせていた。どれも今の兄には響かない。黙っているのが最善だと判断して兄の頭を撫でた。

 ――ケイちゃんは、父さんに愛されたかっただけだったんだな。

 俺がもう少し賢くて、周りが見えていて、想像ができる子供だったなら。結果はまた違っていたのかもしれない。

 兄が父を殺してやっと知ったことがいくつもあった。でも、それは俺がきちんと兄のことを考えていれば、こうなる前に気付いたのではないだろうか。

 しかし、時間は元には戻せない。選択は変えられない。父は死んだ。兄が殺した。そして、俺は……この先どうするんだ?

 俺が着ていたシャツはぐしょぐしょに濡れた。兄の嗚咽が止まり、呼吸も落ち着いたので、散々迷った挙げ句にこんな声かけをした。


「……プリン、食べる?」

「……食べる」


 俺は冷蔵庫からプリンを持ってきた。フィルムを取って、生クリームをスプーンですくって、兄の口に持っていった。


「ケイちゃん、あーん」


 ぱくり、と兄は口を閉じた。


「……全部食べさせる気?」

「ケイちゃんそうしてくれてたでしょ。今は俺が監禁中なんだし俺がやる」

「じゃあ、カラメルのとこバランス考えてすくってよ?」


 ああ、少しずつ兄が調子を取り戻したな、と感じた。

 夕飯も兄の評判がよかった。本当に袋を開けて炒めただけ。しかし、それでも立派な手作りだと褒めてくれた。

 それからは、兄は積極的で。舌先の感覚がなくなるくらい長いキスをされた。俺が思い出していたのは、父に見つかるまでの日々だった。父がもうすぐ帰ってくるという時でも、キスだけ、と駄々をこねて、こっそりしてもらっていたのだ。

 俺は兄に染められて良かった。兄しか知らない身体で良かった。過敏になってしまった肌も、いくつも刻まれた傷跡も、その全てを俺は愛していた。


「ケイちゃん、俺を見て」

「見てるよ」

「俺のことだけ考えて」

「考えてるよ」


 兄の細い指が入り込んで、たっぷりと刺激を与えてくれた。俺は素直に欲望をさらけ出した。その通りのことを兄はしてくれた。

 終わらせた後、裸のまま荒く息を吐いて寝転んだ。今回は兄は余裕があったようで、ぐったりする俺を見ていたずらっぽく微笑んだ。


「可愛かったよ、カナ」


 そう言って、俺の鼻の先を人差し指でつんとつついてきた。


「玩具なんて言ってごめん。そう思ってた頃もあったけど……今はカナをきちんと愛してる」


 俺は手を伸ばして兄の頬に触れた。


「だからさ。一緒に死のう、カナ」

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