27 通院
朝はコンビニに行き、パンと飲み物を買って帰ってきた。兄は当分起きてこなさそうだったので、自分の食事を手早く済ませて、兄の分をテーブルの上に置いた。
俺のスマホは兄が言っていた通り壊されていた。ハンマーか何かで叩いたのだろうか。画面はバキバキに割れており、ケーブルに繋いでも反応しなかった。
兄のスマホのロック番号なら昨日電話をした時に知った。〇一三一。俺の誕生日だった。それと保険証と診察券を持って家を出た。
地図アプリを頼りに精神科まで行った。電車で四駅。他に歯科や皮膚科が入っているビルの五階。俺自身が患者というわけではないから、気楽に構えていたのだが、一本踏み入れた瞬間、空気に飲まれてしまった。
清潔感のある待合室。ベンチに座っている人々。オルゴールの曲が鳴っていた。受付には女性が二人居て、俺は保険証と診察券を取り出した。
「昨日電話した瀬田慧人の弟なんですが……」
「お名前をお呼びしますので、かけてお待ち下さい」
俺は壁に一番近い席に腰掛けた。目の前には本棚。ファッション誌が並んでいた。それを手に取るのも気が引けて、兄のスマホをいじるのも悪い気がして。
事情は伝えていたから、きっとすぐ呼ばれるだろうと思い、じっと手を組み合わせて待っていたのだが、三十分ほど他の人の名前が呼ばれ続けた。
それにしても、周りの人たちは、とても静かだ。精神科はもっと混沌としたところかと思っていた。身なりもきちんとしているし、とても精神を病んでいるようには思えなかった。
とうとう俺はファッション誌に手を伸ばした。メンズ系となると別に好みではないストリートファッションものしかなく、仕方なくそれをめくった。
もう冬物の特集らしい。ダウンジャケットなんかが紹介されていたが、俺はトレンチコートなどの方が好きだ。兄がそういう服装をするから追いかけただけ、というのはある。服装についてそこまで知識があるわけではない。
興味が持てなくて結局戻してしまった。変わらず流れ続けるオルゴール。人は減るどころか増えてきた。
「瀬田さん」
男性の声がした。やっとだ。一時間はかかったか。俺は黙って立ち上がり、診察室に行った。
中は思ったより広い個室だった。一脚の椅子の他にソファもあった。医師は五十代くらいのオジサンだ。とりあえず椅子に座った。
「弟さんなんですよね。とりあえず前と同じお薬出しておきますから。何か変わったことがあれば連絡してください。次回は二週間後で」
「あっはい……」
たったそれだけで終わってしまった。診察室に居たのは一分間も無かったのではないだろうか。
それから会計までも長かった。さらに薬局。三十分待ちと言われてしまった。俺はズボンのポケットの中のタバコとライターをいじくりながら喫茶店を探した。
窓ガラスにタバコのステッカーが貼られていることを確認してから、その喫茶店に入った。むっとする強い匂い。客は誰もいなかった。
俺はアイスコーヒーを頼んだ。今なら飲める気がしたのである。実際、よく冷えたそれは美味しく感じた。ミルクもシロップも入れずにだ。
タバコの煙を吐き出し、窓の外を見つめた。行き交う若者たちは大学生だろうか。そういえば休学の手続きはどうなったのだろうか。もう俺は大学になど行くつもりはないから退学してもいい。
きっかり三十分経ったので薬局に戻って薬を受け取ったのだが、ついでに化粧品売り場に寄った。兄の肌が気になっていたのである。
種類が多すぎて迷ってしまったのだが、テスターがあったのでフタを開けてみた。柑橘系の香りがするジェルだった。これなら兄も好むかもしれないと思い、それを買った。
帰宅すると、兄は起きていて、俺の顔を見ると眉を下げた。
「ただいまケイちゃん。薬もらってきたよ」
「ありがとう……」
「それと、これも買った」
俺はジェルを兄の顔に塗りたくった。
「冷たい……」
「これから乾燥する季節になるしさ。保湿しとこう」
昼食はカップ麺でやり過ごした。でも、夜は何か作りたい。俺はまた、ソファに座って料理本を読んだ。肉じゃがに豚汁。兄が作ってくれた時のことを思い出した。
本は何冊かあったが、気軽に作れそうなものはなかなか見つからなくて。夕方になってしまったので、米をセットしてから惣菜を買いに行くことにした。
「ケイちゃん。スーパーに惣菜買いに行ってくる。食べたいものある?」
「……あっさりしたものがいいな」
「わかった。野菜系?」
「そうだね。あ、あとさ……」
「ん? オムツか。替えとく」
監禁生活からいきなり外出が続いているので、しんどいのは事実だ。しかし、兄をきちんと生かすには動くしかあるまい。
惣菜と、ペットボトルの飲み物をいくつか買い、一旦ベンチに座って呼吸を整えた後、家に戻った。
兄の分の惣菜は皿に取り分けて、米と味噌汁も準備してトレイで運んだ。兄は身を起こしていた。
「今日は食べれそうかな……」
「そっか。まあ無理しないで」
兄が完食したのでホッとした。痩せてきていたし、食事はきちんととってほしかったのだ。俺は薬を渡した。
「なんか、前と同じだって言ってた。わかる?」
「うん。袋に書いてるし。ちゃんと飲むよ」
俺もダイニングテーブルで食べて、タバコを吸った。兄は要らないのか気になったので聞きに行った。
「ケイちゃん、タバコ吸わなくて大丈夫?」
「ああ……要らない。気分悪くなりそう」
「じゃあ俺が貰っとくね」
「えっ、カナ吸ってるの?」
「うん」
兄は何かを言いかけたようで、口を開いたが、目を伏せて閉じてしまった。
それから、片付けをしたり兄の世話を焼いたりでけっこう忙しい。兄はまだ風呂に入らなくていいと言ったので、自分一人でシャワーを浴びた。
シャンプーをしながら、ずいぶんと髪が伸びたな、と思った。短髪をキープしたくて、二ヶ月に一度は美容院に行っていたのだ。しかし、今は行くのが億劫だった。もう少し放っておいてもいいだろう。
髪を拭きながら、裸のまま寝室に行き、ベッドに腰掛けた。兄は寝転がったまま、ぼんやりとした目で俺を見てきた。
「カナ……寝る前の薬、ちょうだい」
「まだ時間あるよ。ねえ、触って」
「ん……」
兄は後ろから、俺の腰に腕を回してきた。
「カナ、あったかい」
「ケイちゃんも脱ごうか。その方がもっとあったかいよ」
素肌を合わせてくすぐった。兄は甲高い笑い声をあげた。元気のない兄はそれはそれで仕方がないが、やはり明るい方がいい。
「もう、やめてったら」
「ケイちゃんお腹よわーい」
「仕返しだ」
ベッドの上で俺たちは暴れた。クロマルが鬱陶しそうに床に降りていった。笑いすぎて腹が痛くなってしまい、飽きる頃には息も絶え絶えだ。
「カナったら、こんなことしたかったの?」
「ううん。なんとなく勢い。ここからいつものに持っていけるかどうか考えてるとこ」
「はぁ、全く……」
兄はわしゃわしゃと俺の髪を撫でた。
「今日はカナも疲れたでしょう? しなくてもいいよ」
「やだ。したい」
兄のアゴを掴んで勢いよくキスをしたら、前歯がぶつかった。
「痛ぁ!」
「ごめんごめん」
兄はぷいと横を向いてしまった。
「ケイちゃーん」
「はい、今日なし。早く薬ちょうだい」
「えー」
これ以上しつこくして嫌がられるのもなんだから、俺は大人しく薬を持ってきた。よくわからないが睡眠薬なのだろう。これで兄も朝まで眠れるはずだ。
しかし、その夜も兄は悪夢に苦しめられていた。
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