26 交代
腹が減って目覚めたので兄を揺り動かした。
「ケイちゃーん。ごーはーん」
「……家、何もない」
「えー? 買ってきてよ」
「無理……カナ行って……」
「はぁ?」
頭をはたいたが反応がまるでなかった。
「ねぇ、お腹すいたってば。俺の面倒最後までみるんでしょ?」
「撤回させて……今度はカナがやって……」
「交代するの?」
「うん……」
まあ、夜の役割だって代わる代わるしていた俺たちだ。そういうのもアリかもしれないと思ってきた。
「じゃあ足かせつけとくね。どうせ動けないだろうけど。オムツもしてあげる。慣れると楽だよ」
そうして、俺は久しぶりにリビングに行った。ダイニングテーブルの上の灰皿には、火がついたばかりのタバコが置いてあった。
「……ふふっ」
俺はタバコをくわえ、大きく息を吸った。やりすぎたようで咳き込んだ。誰も見ていないというのに格好をつけたかった俺は、最後まで吸い切った。
キッチン中を確かめたが、兄の言う通り食料品はすっからかん。調味料くらいしかなかった。覚悟を決めた俺は、長袖のシャツを着て下着とデニムを身に着け、兄のカバンから財布を抜き取り、玄関から外に出た。
「眩しっ……」
まともに太陽を浴びるのはいつ以来だろう。真夏のような強さはなくなったとはいえ、監禁され続けていた身体にはこたえた。スーパーまでは徒歩で十分ほどの距離だったが、あまりにも歩いていなかったせいか到着しただけでぐったりしてしまい、ベンチに腰掛けた。
兄以外の人間が生きて動いているのは不思議な感覚だった。まるでよくできた人形のようにしか思えなかった。
カゴいっぱいに冷凍食品を詰め込んだ。それから飲み物も。卵を買おうか少し悩んだのだが、この荷物だと割れるかもしれないと思ってやめた。
レジに並ぶのはイライラした。手前の客が支払いに手間取ったのである。今から他の列に行くのも効率が悪そうだし、と耐えた。やはり外の世界はろくなことがない。
帰り道は長かった。袋二つぶら下げて、何度か足を止めて休んだ。
「ただいまー」
真っ先に兄の様子を見に行くと、オムツをはかせた時から全く体勢が変わっていなかった。どうやら眠っているらしい。
買ってきたものを冷蔵庫に入れて、冷凍の唐揚げをレンジで温めて食べた。その後、タバコを吸った。こんどはむせなかった。
寝室に行き、ベッドに腰掛けた。クロマルが寄ってきて、俺の太ももの上に乗ってきたのでアゴをさすった。
「ケイちゃん、まだ寝てる?」
少し、兄の頭が動いた。
「俺、ちゃんと買い物行ってきたよ。褒めてよ」
「ありがとう、カナ……」
さて、交代したからにはきちんと切り替えねばならない。兄に元気を出してもらうためにはやはり料理が一番だろう、と思った俺は、リビングにあった料理本を引っ張り出してソファでパラパラとめくった。
その中で、俺でも作れそうだな、と思ったのが豚の生姜焼きだった。先に米を炊飯器にセットしておき、材料を紙にメモして、もう一度スーパーに向かった。
――そういえば、食材の選び方なんてわかんないんだよな。まあいっか。
幸い、「生姜焼き用」と書かれていた豚肉のパックがあったので、それにした。問題はタマネギだ。どうせ見たところで違いがわからないから、一番上に積まれていたものを掴んだ。そして卵。インスタントの味噌汁も買っておいた。
帰宅して兄の様子を見に行くもやっぱり寝ていて。昼までに間に合わせたかったので、キッチンに立った。
まずはタマネギを切るところからだ。ヘタを落とし、皮をはいだ。半分に分け、慎重に包丁をすべらせていった。かなり時間をかけたので、指をケガせずに済んだ。
豚肉を食べやすい大きさに切り、まずはそちらだけフライパンに並べた。ある程度火が通ったので皿に入れ、今度はタマネギ。しんなりするまで炒める。
それをしている間に、料理本を見ながら調味料を計っていった。大さじ一はわかるが二分の一なんてどうすればいいんだ。適当にやってしまった。
豚肉を戻して、調味料を合わせた。煮詰めれば完成。タマネギをひと欠片箸でつまんで食べてみたが、しっかり味がついていた。
それから卵焼きも作ったのだが大失敗。ぐちゃぐちゃにしてスクランブルエッグにしてしまった。
「ケイちゃん! ごはんできた!」
トレイを運んでテーブルに置いた。兄はゆっくりと目を開けた。
「ねえねえ、俺が作ったんだよ!」
「カナが……?」
兄はトレイに並べられたものを見て、ぱちぱちとまばたきをした。
「えっ、これ作ったの?」
「うん! 本当は卵焼きにしようとしたけど無理だった」
「凄い……凄いよカナ」
まず兄は豚肉にかじりつき、長らく見せてくれていなかった笑顔をこぼした。
「うん……美味しい」
「やった!」
後片付けも俺がやった。食洗機の使い方を教わったのはかなり前だったが覚えていた。俺も昼食を取り、一服。まだ三度目なのに、喫煙はひどく気分のいいものだった。
そろそろしている頃かもしれない、と寝室に戻った。兄は眠っていたので勝手にオムツを触った。膨れていた。替えてやった後、どうしたものか、と兄の顔を見下ろした。
クロマルが、兄を守るかのように枕元に寝そべっており、尻尾を揺らしていた。しばらくその背中を撫でて、やるべきことを頭の中でリストアップしていった。
まずはトイレ掃除。兄も最近していなかったようでずいぶん汚れていた。その勢いで今度は風呂。バテたのでソファに寝転びながらサイダーを飲んだ。
これからは俺が三食考えなければならない。想像するだけでけっこうな負担だ。でも、兄弟だもの。分かち合わないと。
もう外に出る元気はなかったので、冷凍のお好み焼きにすることにした。
「ほら、ケイちゃん。晩ごはん。起きて」
兄は何とかベッドのふちに座ったが、ほとんど残してしまった。
「……食べられない?」
「うん、ごめん」
「じゃあ俺が食べるからいいよ。あっ、薬飲まないといけないか」
「もうないんだ。次の通院日、過ぎちゃった」
「あちゃー、どうしようか」
俺は兄のスマホを使い、精神科に連絡した。兄がベッドから出られないこと、薬が切れてしまっていることを説明すると、明日俺が代わりに行って受け取れることになった。
「薬なら問題ないよ、ケイちゃん」
「ありがとう……」
「礼なら口だけじゃなくて身体でやって。ほら」
「うん……」
俺は足を突き出した。兄は這いつくばって舐め始めた。それだけで兄は疲弊してしまったようなので、今夜はもう勘弁してやった。優しさだ。
夜中にまた、兄は叫び声をあげたので、面倒だなと思いつつなだめてやった。
「ケイちゃん。大丈夫だから」
「父さん、ごめんなさい、父さん……」
そう言って震えるので、おかしくなってしまった。
「もう。殺してよかったって言ってたじゃない。俺だってそう思うよ。こうしてケイちゃんと二人っきりになれたし、色んなこともできるし……謝ることなんてない」
「でも、でも」
「おいで、ぎゅーしてあげる」
腕の中に収まった兄は、果たしてこんなに小さかっただろうかと驚いた。肌もカサカサしているし、脇腹を触るとすっかり肉が落ちてしまっていた。そのまま下の方に手を伸ばし、つんとつつくと兄はさらに身体を震わせた。
「ん……口でしてあげようか? 動くのしんどいだろうし」
「カナっ……」
オムツをずりさげ、くわえてやった。しっかり飲み込んでやり、兄の顔を覗くと、頬を赤らめていたので、それがいじらしくて眠くなるまでそこをさすっていた。
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