25 移る

 兄の誕生日の翌日は、寝坊したみたいだ。

 既に設置されていたベッド横の冷蔵庫から、ひんやりとした麦茶のペットボトルを出して飲んだ。この季節にいつでも冷えた飲み物を飲めるのはいい。もっと早く要望するべきだった。

 テーブルの上にあった朝食を食べ、床の上で寝そべっていたクロマルを呼んだ。


「おいで」


 クロマルは短い手足を伸ばした後、ちょこんとベッドの上に乗ってきた。ネコにしては太り過ぎだと思うけど、それでも身のこなしは軽いから大したもんだ。

 ごろんと寝転がって腹を見せてきたから、そこをわしゃわしゃと撫でた。クロマルもすっかり「うちの子」になった。警戒心なんてとっくに薄れているのだろう。もう外へは出せまい。

 さて、今日も今日とてやることはない。いつものバンドの曲をかけてもいいのだが、それよりは爽やかな気分になりたくて、九十年代のポップなものにした。

 脇腹にできた、新しい傷跡をさすり、兄も今ごろこれを気にしてはいないかと思うと愉快になった。あれから兄は長袖のシャツで出勤していた。その下が俺によってズタボロにされていることなど周りの誰も気付いていないのだろうか。

 足を伸ばすと、爪先に何かがカツンとあたった。拾ってみると、カッターだった。昨日兄がそのままにしていたらしい。それをテーブルの上に置き、曲に合わせて頭を揺らした。クロマルは金色の瞳をこちらに向けて黙っていた。

 弁当は今日も完璧な出来。何品かは冷凍食品が使われていたが、それも好きだ。グラタンを食べると出てきた占いは大吉。勉強運がいいらしい。

 けれど、俺はもう勉強などしなくてもよくなった。兄がそうしてくれた。定期テストの結果の紙を見てはため息をつき、面談の時にもっと上は目指せないのかと強い口調で担任に訴えていた父はもういない。

 兄が言っていることは全て正しいのだ。この世は醜いものばかりでできている。兄はそれと戦ってきてくれている。俺の代わりに。だから俺は、八畳の天国の中で安全に暮らすことができている。

 耳障りなのは夕方のインターホンの音で、いっそ兄に頼んで殺してもらおうかと鳴っている間は思うのだが、最近は三回程度になってきているので我慢することにした。


「ただいま、カナ」


 兄が帰ってきたので、俺はカッターを渡した。


「もう、危ないんだから。ベッドの上にあったよ?」

「えっ……使わなかったんだ」

「何が?」

「そっか……僕から逃げないでいてくれたんだね、ありがとう……」


 兄はきゅっと俺を抱きしめてきた。ほんのりと汗の香りがして、俺は兄の首筋をぺろりと舐めた。


「ひゃっ……」

「あはっ、ケイちゃん可愛い」


 俺は着実に、自分で何か考えるということから開放されていた。三食は兄に決めてもらえばいいし、ヒゲや爪を整えるのだって兄がそう思ったタイミングでやってもらえればいい。

 日付を確認することもしなくなった。兄が出勤しなければ週末なんだな、と思う。ただそれだけ。

 歩かないからか足は細くなった。ふくらはぎを揉んでみるとかなり柔らかい。元々筋肉がある方でもないのだが、こんなにも変わるのか。

 兄がどんなに疲れていても、お構いなしに俺は求めた。一度、うんざりされて首を絞められたのだが、俺はそれが病みつきになってしまった。


「お願いケイちゃん……突きながら絞めて……」

「やだ……こわいよ……」

「俺のお願い聞いてくれないの?」


 無理に兄の手を首に持っていった。兄は観念したかのように力を込めた。自分の脈を感じる。俺は確かに今、生きている。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はははっ」


 同じことを兄にもやり返した。目を見開いて俺の手の甲に爪をたててきたけれど、加減ならわかっていた。きちんと意識が飛ばない瀬戸際で離した。


「カナ、ごめん、カナ」


 兄が謝る意味がわからないのだが、もはや口癖のようなものなのだろう。そんな兄は情けなかったけど、それでも俺の大切な人だ。終わったら必ず言葉で伝えてやることにした。


「ケイちゃん、大好きだよ。ずっとずっと、俺の側にいてね」


 それに返事をされることも少なくなり、背中を向けられてしまうのだが、照れ隠しだろうか。それに、どうせ夜中になるとうなされるのだ。


「やだっ、やだっ、あっ……!」


 苦しんでいる姿すら可愛い。こんなところを見られるのは弟の俺だけだろう。しばらくは見守って、ガバっと身を起こすまでは声をかけないでいた。


「ダメだ……やっぱり自首しよう、カナ……」

「せっかく二人きりの生活なのに? ケイちゃんと引き離されるの、俺嫌だよ。眠れないのが辛いなら薬でも飲めば?」

「薬か……」


 そして、兄が精神科に行ってきたのが、それから何日かしてからだった。


「休職した方がいいって……診断書、出してもらった」

「えっ、仕事休むの?」

「うん……三ヶ月だって」

「じゃあ、三ヶ月間ケイちゃんと一緒? やったぁ!」


 俺がはしゃぐと、兄は浮かない顔をした。それが気に入らなかったので、頬をはたいた。


「えー、嬉しくないの? 俺は嬉しいよ?」

「うん……嬉しい」


 兄は料理を作ることをしなくなり、冷凍かインスタントばかりが並ぶようになったが、それについては文句はなかった。

 薬を飲み始めたからか、兄は気絶するように眠るようになった。酒は禁止されたみたいだが、兄も飲む気をなくしたらしい。

 たまに、パチンコに行ってしまうことがあった。そういう日は朝から夕方まで帰ってこなかった。水分だけで何とかして、クロマルと遊んで暇を潰した。

 季節は移っていった。

 エアコンをつけなくてもよくなり、俺は薄手のカーディガンを羽織って過ごすようになった。いつの間にかインターホンは鳴らなくなっていた。

 兄の具合は日によってバラバラで、朝なかなか起きない時もあれば、俺より早く目覚めて部屋の掃除をしている時もあった。

 その日の夜、入浴をさせてもらい、ベッドに戻ったのだが、兄がぼんやり俺を見つめるだけだったので尋ねてみた。


「足かせ、つけないの?」

「もういいよ……カナを閉じ込めるの、もうやめる……」

「ええ? 死ぬまで面倒見るって言ったじゃない。どのみち俺はこの部屋出ないから」


 出ていこうと思えばいつでもそうできる状態になったし、トイレくらいなら自分でしようかとは思ったのだが、オムツに排泄する方が楽だから、俺は兄に替えさせ続けた。

 リビングにある薬を持ってきてくれとせがまれたこともあったが、俺はベッドを降りなかった。ここまでやってきたんだ。中途半端に終わらせられては困る。

 兄の笑顔はどんどん減っていった。髪は伸び、目はくぼんできた。それでも俺は兄に買い物に行かせ、食事を用意させた。約束はきちんと守ってもらわなければ。


「カナがこわい、こわいよ……」


 そう言って泣かれてうんざりすることもあった。俺は兄と楽しく暮らしたいだけなのに、どうしてそうなるのか。


「ケイちゃん。俺はこわくないってば。いつまでもケイちゃんの弟だよ」

「僕のせいだ、僕がカナのこと変えてしまった」

「何も変わってないよ。ケイちゃんが病気だからそう思うだけ。治ったら元通りになるよ。夜の薬飲んだ?」

「まだ……」

「ほら、きちんと飲まないと」


 俺は兄なしでは生きられないが、兄も俺なしでは生きられなくなっているのだろう。それがこの上なく幸せだった。

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