23 渇き

 また、父の夢を見た。

 今度は水族館の夢だ。イルカショーで、俺は前の方の席に座りたいと父の手を引いたが、濡れるからと真ん中の方に座らされた。

 俺はイルカが気に入って、キーホルダーを買ってもらった。木製で、リアルなシルエットのものだ。

 目が覚めた俺は、そのキーホルダーを今でも家の鍵につけていることを思い返した。年季が入り、黒ずんでいたが、手放せなかったのはそういうことだったのか。

 兄がいなかったので、朝食を用意してくれているのだと思いのんびり待っていた。しかし、家はしんと静まり返っており、何の物音もしなかった。


「ケイちゃん……ケイちゃん!」


 起き上がって叫んでみたが、反応はなし。

 ――まさか、パチンコ行ってる?

 その可能性は十分有り得た。朝食はおろか、いつも置いてくれているペットボトルの水すらない。さらにまずいことに気付いた。エアコンがついていなかった。壁にあるリモコンは届かない。

 三食キッチリとる習慣がついているので、腹が鳴った。空腹はまだ我慢できるだろう。問題は喉の乾きだ。部屋はじりじりと暑くなってきた。俺は唾液を飲み込んだ。

 ひたすら兄の帰りを待つしかない。前回は昼食を食べ終えた後に帰ってきた。それくらいかかるかもしれない。今の俺にできることは、体力を消耗しないこと。

 じっと横たわり、いっそ眠ってしまおうかと考え目を閉じた。思い浮かべたのは、イルカショーだった。水から飛び出し、華麗なジャンプを決めるあの様子。

 だが、そんな涼しげな妄想も実際の室温の高まりには勝てなかった。オムツのゴムの辺りが汗で蒸れてきた。頭皮も湿っているような気がした。

 俺は時計を見た。十一時。もし、買い物に出ているだけなら、とっくに帰ってきているはず。ということはやはりパチンコだ。


「ふっ……ふぅ……」


 頭痛がしてきた。俺は寝返りを打ち、楽な体勢を探した。仰向けになった方がいくぶんマシだった。

 スマートスピーカーに呼びかける気力すらなく、俺はそのまま長い時間を過ごした。たまに時計を確かめ、針がさほど動いていないことにがっかりし、見るのはやめようと決めるのだが、また確認してしまい。

 とうとう正午を超えて一時になった。頭痛は止まず、むしろ酷くなってきた。窓を開けることができれば多少は楽だっただろうが、閉め切られたこの部屋はサウナ状態。汗がシーツに染み込んでいった。

 体力が限界になる前に、試してみることにした。なんとかロープをほどけないかと。結び目は固く、やはり無理そうだったので、歯で食いちぎってみることにしたのだが、無駄なあがきだった。

 再び仰向けになり、時計を確認した。二時だ。目を開けていると、白いもやのようなものが見えるので、閉じることにした。

 ズキズキという頭の痛みとカラカラになった喉。手足には力が入らなかった。意識は徐々に遠くなっていった。


「……カナ! カナ!」


 肩を揺さぶられ、ぼんやりと目を開けた。兄だった。


「ケイ……ちゃん……」

「ごめん、ごめんよ、すぐ飲み物持ってくるから!」


 兄に背中を支えられ、上半身を起こしてペットボトルの水を飲んだ。エアコンは兄がいれたようで、少しずつ部屋が涼しくなるのを感じた。時間は四時過ぎだ。


「熱中症になっちゃったかな……とにかく冷やさないと……」


 身体中に保冷剤をあてられ、ゆっくりと頭が回り始めた。


「ケイちゃん……またパチンコ……?」

「うん……ごめん」

「自分で言ったよね……ちゃんと面倒見るってさぁ……」

「ごめん、本当にごめん」


 休みながら水分を補給した。それを飲み切る頃には元気が出てきたので、心配そうに俺の顔を覗き込む兄の横っ面をぶん殴った。


「ううっ……」

「お腹すいてるけど……一気に食べられそうにない。軽いもの作って持ってきて。早く」

「わかった……」


 兄は卵入りのおかゆを作ってきた。普段作るものより塩味をきかせていた。俺はそれを食べながらブツブツ言った。


「全く……監禁してる自覚ちゃんと持ってよね。ケイちゃんは俺のこと信用できないって言うけど、俺だって信用できないよ」

「うん……」

「僕が守るとか大口叩いたんだから最低限のことはきちんとして。他人の命握ってるんだよ?」

「はい……」


 がっくりとうなだれる兄。反省はしていそうだが、それだけでは怒りが収まらなかった。


「アレ持ってきて。ケイちゃんに突っ込むから」

「えっ」

「俺にさせといて自分はできないなんて言わせないよ。何時間苦しんだと思ってるの?」


 容赦はしなかった。それだけのことをされたのだ。当然だ。四つん這いにさせて後ろからやったので、兄の表情は見えなかったが、漏れ出る悲鳴を聞いているとぞくぞくしてきた。

 俺は何度も何度も兄の尻を平手ではたいた。兄は壊れたスピーカーのように懺悔の言葉を繰り返していたけれど、手が疲れるまでやった。


「うん……そろそろいいか」

「ごめん、二度としないから……」


 俺だってわかっていた。パチンコに行ってしまったのは父のせいだと。兄がわざと俺を放置するわけがない。


「おいで、ケイちゃん。ぎゅーしよう」


 兄は俺の胸でボロボロ泣き始めた。やりすぎたかもしれない。俺はトン、トンと赤子にするかのように兄の背中を叩き続けた。しばらくして、泣き止んだ兄が話し始めた。


「店、出るまで、カナのこと頭から抜けてて……自分でもよくわからないんだ……」

「こうならないためにさ、手の届くところに小さい冷蔵庫置いといてよ。エアコンも俺が操作できるようにして」

「すぐそうするね……」


 兄は顔を上げ、キスをしてこようとしたが、俺は引き剥がした。


「まだそんな気になれないんだけど。そうだなぁ……足の指舐めてくれる?」

「わかった……」


 ――ふぅん。他人に言う事聞かせるの、けっこう楽しいな。

 兄は一本一本、丁寧に指をしゃぶった。指の間もしっかりと。こんなことをさせるのは初めてだったが、けっこう上手かった。

 今度から、何か非があればすかさず詰めようと思った。失敗するように仕向けてもいいかもしれない。兄のせいで自由を奪われているのだ。このくらいは許容してもらわないと。

 最後にタオルで拭かせて、もうおしまいにしてやることにした。兄もろくに食べていなかったようで、食事をしに出ていった。

 寝る前に、兄は捨てられた子犬のような目をして俺を見つめてきた。


「僕のこと、嫌いになったよね……」

「ううん。好きだよ。それよりさ、もうすぐ誕生日だね」

「ああ……有給取ろうかなって思ってる。けっこう残ってるから。カナ、ずっと一緒にいてくれる?」

「もちろん。ケーキとかは自分で買ってきてもらうしかないけど。本当は花でも用意しようかと思ってたんだよ?」

「そっかぁ……嬉しい」

「その代わりにたくさん尽くしてあげる」


 兄に腕枕をしてやって、傷まみれの肩をさすった。すっかり安堵したのだろう、兄の表情は柔らかくなっていた。

 兄は俺を閉じ込めた。もうそのこと自体は諦めた。もう大学へは行けない。卒業することは叶わない。ならば、兄に想いをぶちまけるまでだ。

 こうなった以上、兄には責任がある。俺を快適な状態で生かし、死ぬまで面倒をみさせること。俺の人生はメチャクチャになったが、兄もそうしてやる。俺が振り回してやる。


「ケイちゃん、明日は仕事だね。もう寝なよ」

「やっぱり……キスしてくれない?」

「仕方ないなぁ。少しだけね」


 ついばむように兄の唇を奪い、俺は笑いかけた。


「俺はケイちゃんのもの。でも、ケイちゃんだって俺のもの」

「わかってる。わかってるよ、カナ」


 散々暴力をふるったのがこたえたのだろう。兄は静かに眠った。

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