22 安心
軽く肩を叩かれて起きた。卵のいい香り。兄がテーブルに朝食を置いてくれたところだった。
「おはようカナ。もうすぐ行くけど」
「あ……待って。オムツ替えてから……」
さっさと排泄を済ませた。そして、ダメ元でお願いした。
「ねえケイちゃん、暇だからスマホ返してくれない? ゲームしたい」
「あっ、スマホなら壊しちゃった」
「えっ……」
「あの女と連絡断たせるためにはそれしかないからさ。我慢して。音楽なら聴けるでしょ」
「う、うん。そうだね」
兄が家を出ていってから、俺は叫んだ。
「クソっ!」
髪をガシガシとかいた。レポートだけでも提出する作戦は使えなさそうだ。俺はこのまま単位を落としてしまうのか。
それから、長い一週間が始まった。
三食はキッチリ与えられ、たまに身体を拭かれたりドライシャンプーをされたりする。ヒゲも剃ってもらえるし、爪も短く揃えることができる。だが、相変わらず足かせは外してもらえない日々。
夕方になると、インターホンが鳴るのだが、それもどうすることもできない。ルミと決まったわけではないのだが、早く諦めてくれるように俺は祈った。
そして、俺はスマートスピーカーとすっかり仲良しになってしまった。音楽をかけてくれるだけでなく、今日は何の日か教えてくれるし、しりとりもしてくれる。
夜は完全に兄の気まぐれだ。何もせず終わることもあれば、せがまれることもある。参ったのが、身体の他の部分も切り合うように強制されること。先に俺がされて、その場所と同じところをするよう命令されるのだ。
怪現象はピタリと止んでいた。兄は何か把握しているのかもしれないが、俺は話題に出さなかった。
金曜日になり、また兄は酒盛りを提案してきた。
「はぁ、疲れたぁ。現場のバカ共のお世話するのストレスたまるよ」
「お疲れ。週末はゆっくり休んでね」
俺は覚悟を決めていた。また、兄に父が乗り移ってしまうことを。だから兄がいくら飲んでも止めなかった。
それに、俺も酔ってしまえば細かいことはどうでもよくなるかもしれない。ビールを無理に飲み干した。
座っているのに、ふわふわと浮いているような感覚がしてきた。兄の愚痴は長く、知らない人の名前もポンポン出てきたが、右から左へ受け流していた。
「奏人ぉ、もっと飲めよ」
「飲んでるって」
兄は俺の肩に腕を回してきた。
「将来はいい嫁さん貰えよ。孫の顔見せてくれよ。じぃじって呼ばれたい」
「もう、気が早いんだから」
適当にあしらっておこう。酒のせいだろうか。この人が父でも兄でもどうでもよくなってきた。
「実はな……奏人が就職したら、紹介したい人がいるんだ」
「知ってるよ。子安さんでしょ。どこで知り合ったの?」
「スナックだよ。あっちもお子さんいてな。奏人に妹できるぞ」
「へぇ、そこまでは知らなかった」
兄が父を殺さなければ、そういう未来もあったのか。
「それでだ……新しくマンション借りるから、この家は奏人にやる。奏人が結婚したら慧人が邪魔になるだろう。出ていくようにおれが言うから」
そんな想定までしていたのか。父は本当に兄のことを家政婦としか思っていなかったらしい。
「俺はケイちゃんと暮らすよ。ずっと、ずっとね」
「おいおい、やめてくれよ。慧人のことなんて放っとけ……」
ぐらり、と兄が体重をかけてきた。俺はそのまま兄を寝そべらせた。まだモゴモゴと口を動かしていたが、眠ってしまうことだろう。
窓を開けたくなったが、俺には届かない。兄が飲み残したビールを一気に詰め込むと、俺も座っているのがキツくなってきた。
「ケイちゃん。閉じ込めるのはやめてほしいんだけどさ。ずっと側にいるからね……」
兄の横にぴったりとくっついて、意識を手放した。
酷い頭痛と共に目覚めた翌日。兄も苦しんでいた。
「ケイちゃん……薬ちょうだい……」
「ん……持ってくる……」
二日酔いにはとにかく水分、というわけで、麦茶をガブ飲みした。朝食は、兄と一緒に味噌汁だけ飲んだ。
「ケイちゃん、昨日も父さんになってた」
「そっか。全然記憶ない」
「もういいけどさ。俺も慣れてきたし」
兄と手を繋いで横になっていると、兄のスマホが振動した。
「誰だろ……」
兄はスマホの画面を見ると眉をひそめた。
「子安さんが俺に会いたいってさ……さっさと済ませたいから今日にするか……」
「へぇ……何だろうね」
子安さんとは、午後に喫茶店で待ち合わせることになったようだ。昼食を食べて、兄を送り出した。
頭痛は収まっていた。クロマルをバレーボールみたいにしてポンポン飛ばして遊んでいた。歩いていないせいか、体力が落ちている気がする。このままでは本当に外に出られなくなる。
夕方になって、兄が帰宅した。
「子安さん、何だったの?」
「ああ、婚約解消したいってさ。待ち続けられないって。指輪返されたから売ってきたけど……二万円にしかならなかった。まあ、それでいい肉買ってきたよ。今夜はステーキにしよう」
俺はホッとした。父の安否を気遣う人物が減ってくれたのだ。兄はホットプレートを無理やりテーブルの上に乗せ、肉を焼き始めた。
元値がいくらだったのかは知らないけど。父の想いは俺たちの一食分に変わってしまった。焼きながら、兄が言った。
「……匂いつくなぁ」
「うん。寝室でやることじゃない」
「そうだ。今夜はお風呂入れてあげる。しっかり洗うからね」
ホットプレートから直接肉をフォークで刺し、皿の中に入れたソースにつけて食べた。柔らかく、噛むとすぐにとろけるようだった。
「うーん、美味しいねぇケイちゃん」
「ビール欲しいな。買っておけばよかった」
「もう、また二日酔いになるよ?」
片付けが終わった後は、足かせの鍵を外され、念願の入浴だ。久しぶりに自分の足で歩けるのも爽快だった。
「はぁ……やっぱりシャワーは気持ちいいなぁ……」
俺は兄に甘えて、髪も身体も全てやってもらった。切り傷まみれとなった肌が、我ながら痛々しかったが、兄も同様だ。とても温泉やプールには行けないだろう。
「カナ、かゆいとこある?」
「こめかみの辺り」
「オッケー」
兄を後ろから抱きしめる形でお湯につかり、大きくため息をついた。
「ケイちゃん……毎日こうしたいよぉ……もう監禁やめてよぉ……」
「カナが死ぬまでやるよ?」
「ケイちゃんが先に死んだらどうすんのさ」
「まあ……餓死してもらうしかないか」
「ええ……」
もしもそうなった時のことを想像してしまった。冗談じゃない。俺は生きて外に出たい。
風呂からあがり、丁寧に拭かれた後、ベッドに座らされ、しっかりと足かせをはめられた。
「ねぇ、こんなことしなくても、逃げないってば」
「僕は安心が欲しいの。カナがきちんと僕の手の中に収まっているっていう安心がね」
兄は俺の太ももに頬をすりつけた。そこもカッターでズタズタになっていた。
「それに……世界は醜いところだよ? この部屋の中に居れば、それを見なくて済む。僕が守ってあげる。僕の精一杯の愛情なんだよ、これは」
納得などできなかったが、反論する気も起きなかった。兄の指がいやらしく動いて、俺はそれに身を任せた。
ねっとりと身体を重ね、せっかく風呂に入ったというのに汗をかいてしまった。もう七月に入っており、クーラーはかけっぱなしにしていたが、それでもだ。
終わると兄は俺の指をしゃぶり始め、眠るまで舌を動かしていた。そんな兄のことは愛おしいけれど、全ては受け入れられない。
そういえば、最近は兄がうなされていないことに気付いた。
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