19 梅酒

 外はまた、雨みたいだ。

 兄よりも早く目を覚ました俺は、バレないギリギリの力加減で兄の頬を撫でた。元々今日は講義がない。いくらか気が楽だ。


「ん……カナ、起きてたの」

「おはよう、ケイちゃん」


 兄は俺のアゴに触れてきた。


「ヒゲ、剃ってあげなきゃね」

「自分でするよ」

「僕がやりたいの」


 変に意地を張るところでもないので、兄にやってもらった。


「ケイちゃんは薄くていいなぁ……」

「まあ、こればかりは体質だからね」


 昨日と同じように、朝食と昼の弁当を渡された。先に用を足してしまって、オムツを替えてもらった。


「行ってらっしゃい、ケイちゃん」

「行ってきます」


 兄は寝室の扉を閉じ、行ってしまった。こうなったら開き直りだ。とことんダラダラ過ごしてやる。朝食を食べ終え、クロマルを抱いてもう一眠りすることにした。ところが。

 ミシッ、ミシッ、ミシッ。

 いつかと同じ足音が近付いてきた。俺は目を閉じたままでいた。

 キィ……。

 扉が開く音。俺は下唇を噛んだ。自分の鼓動がうるさい。クロマルを抱く力を込めた。そして、ふっと風のようなものが俺の前髪に吹き付けてきた。


「父さん、ごめんなさい、父さん……」


 そう繰り返した。どうかいなくなってくれ。どうか。祈り続けているうちに、バタンと扉が閉まった音がして、俺は目を開けた。


「父さん……」


 部屋の様子は何も変わっていなかった。それで気が抜けて、今度こそ眠ることにした。

 夢を見た。父の夢を。俺はまだ小さくて、父に手を引かれてショッピングモールのようなところに来ていた。


「奏人、何か欲しいものはあるか」

「図鑑!」

「じゃあ行こうか」


 俺が買ってもらったのは、恐竜の図鑑だった。


「ケイちゃんに読んでもらう!」

「ああ、それがいいよ」


 そこで夢は途切れた。あれは……実際にあったことだったのか、どうだったのか。ただ、自分の部屋には確かにその図鑑はあったはずだ。今まで買ってもらった本は全て置いてあるから。

 昼にはまだ早かったが、弁当を食べた。枝豆に可愛らしいヒヨコのピックが刺さっていて、思わず笑みがこぼれた。

 ずっと寝ていても腰が痛くなるので、床のに立って軽く身体を動かした。前屈して、屈伸して。それもすぐに終わってしまい、ベッドの上に戻った。

 ――せめて、音楽聴きたいなぁ。ケイちゃん、許してくれるかな。

 いつ異変が起こるかわからない部屋。何の娯楽も与えられていない状況。刑務所の中でも読書くらいはできるんだっけか。それを思うと音楽くらいは許容してくれそうな気がした。

 そして、夕方にインターホンが鳴った。昨日よりは少し早い時間だ。一度、二度、三度。間を開けて四度目。

 雨はまだ降り続いているようだった。そんな中、来てくれたのか。俺は解放された後のことを想像した。体調が悪かったとでも言えばルミは納得してくれるか。いや、そういう性格ではないな、おそらく。

 五度目はなかった。俺は身体を丸めて自分の太ももをさすった。オムツに手があたり、今さらながらにこれ一枚だけという姿が情けなくなった。

 兄は今日も何やら沢山の買い物をして帰ってきた。


「ただいま、カナ。大人しくしてた?」

「……うん」


 一旦寝室を出た兄は、タバコの香りをさせて戻ってきて、俺を抱きしめてくれた。


「ふぅ……やっと一週間終わった……」

「ケイちゃん、お疲れさま」

「コンビニでぱーっと買ってきた。カナも一緒に飲もう」


 兄はレジャーシートを広げて、パックに入ったつまみを置いた。さすがに飲み物は不安定だからか、トレイの上に。俺は梅酒の缶を開けてみた。


「かんぱーい」


 以前飲んだ桃のサワーよりも、アルコールがキツい気がして飲みにくく、一口飲んだ後は生ハムや焼き鳥に手を付けていった。兄はごくごくと早いペースでビールを飲んでいた。


「ケイちゃんって……いつからお酒飲めるようになったの?」

「ああ……二十歳になってさ。これで瀬田も酒解禁だな、って上司に居酒屋連れて行かれて。それからはずっとビール」


 そういえば、兄が二十歳になった時のことをあまり覚えていなかった。成人式にも行っていなかった気がする。おそらく突っ込んだらまずい話題だな、と思った俺は酒の話を広げてみることにした。


「他のお酒は飲まないの?」

「一通り試したけどね。日本酒、焼酎、ウイスキー。美味しいとは思えなかった。やっぱりビールが一番だよ。カナも飲んでみなよ」

「うん……」


 兄に缶を手渡され、そっと口をつけてみた。


「うへぇ、苦っ……」

「ははっ、まだ無理かぁ」


 食べる物がなくなったが、酒の缶はゴロゴロあった。いくら明日は土曜日とはいえ、どれだけ飲む気なのか。俺はちびちびと梅酒を口に入れて、兄の様子を伺った。


「どうした、不安そうな顔して」

「えっ……そんな顔してるかな」

「奏人は何も心配要らないって。もう少しいい大学に行ってほしかったが……まあ、あそこなら就職も何とかなるだろう」

「ケイちゃん?」


 兄はぐびりとビールを飲み、笑いかけてきた。


「金は足りるか? 卒業はしてもらわなきゃ困るけどな、せっかくの大学生活なんだし別に多少遊んでも……」

「ケイちゃんっ!」


 俺は思わず兄の頬をはたいた。兄はポトリと缶を落とした。レジャーシートにビールがこぼれた。


「えっ……カナ?」

「ケイちゃん、お願い、ケイちゃんはケイちゃんで居てよ……!」


 兄はふるふると頭を振った。


「……片付けるよ」


 俺はベッドの上で三角座りをして、兄が掃除するのを見守った。雨はもう止んだようで、兄は窓を開けた。


「ケイちゃん……お酒あんまりよくないよ。前もそうだったし」

「確かにね……でも飲まないとやってられないんだよ……」


 窓の外から、湿り気を帯びた風が入り込み、窓際に立つ兄の髪を揺らした。


「そういえば……あの女、どういう関係だったの」


 ようやくその質問をしてくれたか、と俺は慎重に答えた。ルミは大学の同級生だということ。霊感らしきものがあること。部屋の壁が真っ赤になり、それで来てもらったということ。

 なるべく、ありのままを話したつもりだ。主観はできるだけ交えず、出来事のみを述べた。


「ふぅん、部屋が赤く、ね……」


 ここでようやく、俺は考えを話した。


「父さんはまだこの家に居る。俺たちのこと怒ってる。そうとしか思えない」


 一旦そこで話すのをやめて、兄の口元を見つめた。


「……だったらやっぱり、カナを大学に行かせるわけにはいかないな」

「えっ……」

「うちの事情話したんだね。勝手にさ。退学手続きって僕でもできるのかな」


 退学、という一言に俺は噛みついてしまった。


「や、やだよ! あんなに勉強して入ったんだよ? 行かせてよ、お願い!」

「まあ、調べるか……父さんのフリして電話かけてもいいし……」


 兄はベッドに腰掛けてきて、俺の髪を撫でた。


「カナはもう僕とだけ喋ればいいし、誰とも関わる必要ないの。面倒ならきちんとみてあげる。死ぬまでずっとね」

「やだ……いい子になったら考えるって言ったじゃない、出して、お願い……」

「食べたいものがあれば何でも作ってあげるって。料理やっててよかった」

「俺は大学に行きたいんだよ……」

「あっ……鍋とかはこのままじゃ持ち込めないか。どうしようかな。小さいテーブルでも買おうかな」


 ダメだ。まるで話が通じない。

 それからも、兄はブツブツ言いながらスマホをいじりはじめた。買い物リストを作り始めたらしい。酒も入っているし、と今は話し合うのは諦め、この週末でどうにかして兄を説得するべく頭をフル回転させた。

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