18 弱音
ロープに足をピンと引っ張られた痛みで目が覚めた。寝返りを打った拍子にそうなったらしい。今日は……木曜日。必修科目がある日だ。本当は出席しないと単位が厳しい。兄には一刻も早く解放してもらわないと。
兄はベッドにいなかったので、ぼんやりしたまま寝転んで待っていると、トレイを持って入ってきた。
「おはよう、カナ。これ、朝食ね。こっちはお昼のお弁当。高校の時以来だねぇ。ありあわせの材料で作ったから彩りよくないけど」
「……ありがとう、ケイちゃん」
せめて週末で飽きてもらって、来週からは登校できればいいのだが。食事を準備するのも手間がかかるだろうし。
「暇だと思うけど……スマホ渡して誰かに連絡されても困るからさ。大人しく待ってるんだよ。なるべく早く帰ってくる」
「うん。わかった」
「ああ、一人だと寂しいよね。アレ持ってくる」
兄は俺の部屋に置いてあったネコのぬいぐるみを取ってきた。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい……」
朝食を食べ、トレイを隅の方に置いた。ペットボトルの水もあったのでそれを飲み、座ったままぼんやりした。入院患者じゃあるまいし、一日中ベッドの上というのは確かに暇だ。
どうにかしてロープをほどけないだろうか、とやってみたが、しっかりと結ばれていて、指先が痛くなっただけだった。
いずれ、こうなる運命だったという気もする。何しろ、兄の手際がよすぎる。俺を監禁することは以前から考えていたのだろう。
尿意がやってきたので、諦めてしたのだが、兄が出社する前にしておけばよかった。オムツの袋はクローゼットの近くに置かれていたのだが、ここからだと手が届かず、兄に替えてもらうしかないのだ。
俺はネコのぬいぐるみをぐりぐりと拳で潰した。顔がひしゃげたがもちろん文句なんて言わない。こいつに名前でもつけるか、と抱きしめながら考えた。
「クロ……クロタ……クロスケ……」
我ながら生産性のないことをしているな、と思うが、これくらいしか本当にすることがない。
「……クロマル」
それに決めた。クロマルを腹の上に乗せ、天井を見つめた。今度また、部屋に異変が起これば逃げ出せない。どうか何もありませんように、と強く願いながら目を閉じていたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
起きると、クロマルが床に転がってしまっていたのが見えた。救出して枕元に置き、時計を見るとちょうどお昼。
ランチクロスに包まれていた弁当箱を取り出し、フタを開けた。二段になっていて、上はおかず、下は米だ。
高校生の時を思い出した。イヤホンをつけて、一人自分の席で弁当を食べていたあの頃を。当時から俺の世界は兄だけで埋まっていたし、友達付き合いなんかよりも、父の期待に応えることで必死だったのだ。
――ああ、それでも、バレンタインデーのチョコレートはもらったなぁ。
あれは三年生の時。登校すると机の中に包みが入っていた。入れ間違いかと思ったが、一緒にあったカードには瀬田くんへ、と書かれていたので、ありがたく頂いた。あれは誰からだったのだろう。わからずじまいだったから、お返しもできなかった。
そんなことを考えていたせいか、甘いものが欲しくなった。部屋はエアコンなしでもまだ過ごせるが、アイスでも食べたい。兄はおそらく食べ物のワガママは聞いてくれるだろう。次に言ってみることにした。
夕方になり、インターホンが鳴った。間を置いて、二度、三度。兄がネットで買い物をしたのかもしれないが、ある可能性に気付いた。
「……ルミ?」
昨日、ビニールテープで縛られている間にスマホが振動したが、あれはおそらくルミだったのだろう。他に連絡先を交換している人はいないもの。それで反応がなくて、来てくれたのかもしれない。
叫ぼうか、と思ったがやめておいた。鍵はしっかりかかっているだろう。外からはどうすることもできない。そして、もしまた、兄と鉢合わせてしまったら。
四度目が鳴り、いよいよルミである確信が出てきた。宅配業者ならもう諦めて不在票を入れている頃だ。
今度はノックの音が響いた。高い声らしきものも聞こえた。何を言っているのかまではわからなかったが。
ようやく静かになり、俺は安堵した。もうこれ以上ルミを巻き込みたくないと考えるようになっていたからだ。
それからは、じりじりと動く壁掛け時計の短針を見ながら、ひたすら兄の帰りを待った。
「ただいま、カナ」
兄は大きなビニール袋を二つ提げていた。
「オムツ替えなきゃだよね。その前に食料品の整理させて」
「うん、いいよ」
兄は寝室の扉を開けたままキッチンへ行ったようだった。ここから見える廊下が近くて遠い。いつになったらこの部屋から出してもらえるのか。それはきっと、兄の機嫌と俺の言動次第だ。
「お待たせ。ご飯もすぐ作るからね……」
大人しく替えてもらい、寝転んでまた待った。兄が作ってくれたのは、牛丼だった。
「はい、あーん」
店で食べるものより、かなり甘めの味付け。俺の好みだ。余計なことを口走って逆鱗に触れてもいけないから、俺は黙って平らげた。
「ごちそうさま。美味しかったよ、ケイちゃん」
「デザートあるよ。昨日言ってたやつ」
兄は一旦部屋を出て、小皿を持って戻ってきた。
「あっ、リンゴ?」
「うん。ほら、あーん」
わざわざこうして食べさせるのは、俺の乳幼児時代の再現だろうか。兄はやけに楽しそうなのだ。
「ふふっ……やっぱりカナは可愛いなぁ。高校生くらいから大人っぽい顔つきになって、ヒゲも生えちゃったけど、食べてる時は小さい頃のカナだ」
そう言う兄こそ、少年のようにくしゃりと笑っていて。とても昨日俺を殴りつけた人と同一人物とは思えなかった。
「あの、さ……アイス食べたいな」
「うん、いいよ。買っとく。ああ、部屋暑くなかった?」
「まだ大丈夫」
兄は俺が放置していた朝食のトレイと弁当箱を持っていった。一気に三食分の洗い物をするのは大変だろう。しかし、父がいた頃はもっと食器が多かったことを思えば何ともないのかもしれない。
また、浣腸をされて出したのだが、オムツをされなかった。俺は身構えた。
「まだ昨日の分、気は済んでないからさ……」
兄が持ってきた物を見て、俺はつい本音を叫んでしまった。
「そんな……大きいの、入らないよっ……!」
「うるさい。お尻突き出して」
ローションはつけてくれたのがせめてもの恩情か。俺は初めて兄のものを受け入れた時のことを思い返し、なるべく力を抜いた。
「うっ……うう……」
「僕のがいい?」
「ケイちゃんのがいい……」
「じゃあ尚更お預け。ご褒美になっちゃう」
これ以上弱音は吐けない。けれどどうしても声が漏れてしまい、終わってけなされた。
「だらしないなぁ。これくらいでさ。身体だけは大きくなったんだから耐えてよ」
「ごめん……ケイちゃん……」
せめて眠る前は優しくされたい。俺は兄の瞳を上目遣いで見つめた。
「俺、頑張るから……ケイちゃんに信用してもらえるようにするから……」
「口なら何とでも言えるよね。これから行動で示して。わかった?」
「わかった」
兄が腕を広げてくれたので俺はそこに飛び込んだ。
「ケイちゃん、ケイちゃん……」
「まあ、今日はもういいよ。ほら、目ぇ閉じて」
兄はキスをしながら俺の肩をさすってくれて、いくぶん痛みもやわらぐような気がした。
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