17 昔話
もう異変は収まったとはいえ、父の部屋に一人で取り残されたというのが不安で仕方なかった。
ルミが来た時にいれた麦茶は、飲む前に兄が帰ってきてしまい、手をつけていなかった。そして吐いたので喉がカラカラだ。
俺の服は兄が持っていってしまった。ズボンに入れていたスマホも回収されたのだろう。
そして、尿意に襲われた。兄が戻ってきてくれるまで、粘ってみるか。足を固く閉じて歯を食いしばった。しかし、一時間が経過し、我慢も限界になってしまった。
「うう……」
一度決壊すると止まらなかった。股はほんのりと温かくなり、ツンとした臭いが鼻をさした。かなり溜め込んでいたので、漏れないか心配になったが、幸い全て吸収してくれたようだった。
それからまた、一時間ほど経ち、兄が入ってきてくれた。いつもと同じ柔和な表情を浮かべていたのがかえって不気味だった。
「薬飲んで寝たら楽になったよ。あっ、おしっこした?」
「した……」
「替えてあげる」
兄に身体をさらけ出すことなど慣れてはいたはずだが、排泄物を見られることには抵抗があった。しかし、されるがままになるしかなかった。
「あはっ、懐かしいなぁ。赤ちゃんの時のオムツも僕が替えてたんだよ。開けた瞬間に出されて飛び散ったこともあったっけ。今はもうしないでね」
「しないよ……」
新しいオムツをはかされ、俺は懇願した。
「お願いケイちゃん、喉乾いた、何かちょうだい……」
「ああ、適当に持ってくるよ」
兄はサイダーのペットボトルをよこしてきた。俺はベッドの上に座って、少しずつ口に含み、潤した。
「夕飯、レトルトカレーでいい? こっちに持ってくるってなったらお皿一つの方が楽だから」
「何でもいいよ……」
機嫌は……直ったのだろうか。兄は俺の隣に座ってきて頭を撫でてくれた。
「さっきはごめんね。痛かったでしょ。でも、裏切ったカナが悪いんだからね」
「そ、そのことだけどさ……」
「言い訳は聞きたくない。カナは僕に内緒で女を連れ込んだ。それは事実でしょう?」
兄の口角は上がっていたが、目が笑っていなかった。俺は口をつぐんだ。
「きちんとしつけ直さないとね。僕が甘かった。ちゃんといい子になったら考えてあげるけど、それまでカナはここで過ごすんだよ」
兄は出て行ってしまった。この調子だと、ルミのことをどう説明しても疑われるばかりだろう。
俺はちびちびとサイダーを飲み、どうすれば兄の気が変わるか必死に考えた。いい子、とは何か。とにかく命令通りに動けばいいのか。
父のように殺されてはたまらない。これからは、言葉にも一層気を遣う必要があるだろう。兄の衝動性なら十分にわからされた。何か一つでもまずい単語を出せば、また殴られるに違いない。
夜の七時頃になって、兄はカレーを持って入ってきた。
「食べさせてあげる。はい、あーん」
俺は無言で口を開けた。今日初めての食事だ。すとんと胃にたまっていった。
「離乳食も僕が食べさせたんだよ。作るのは母さんだったけど。リンゴすりおろしたやつ、好きだったよね。今度作ってあげる」
選択肢式のゲームをプレイする時のように、いくつかセリフを頭の中に思い浮かべ、それから最良と思われるものを選び取った。
「……うん。食べたい」
兄の表情はぱあっと明るくなった。
「明日、リンゴ買ってくるね」
よし、成功だ。こんな風に、慎重にやろう。決して否定せず、抗わず、従順に。
カレーを食べ終えた後、一度兄は部屋を出ていき、少しして戻ってきた。今度はバケツを手に持って。
「おっきい方のオムツは替えるの大変だからさ……ここにして。浣腸するから」
もちろん嫌だ。いくら兄とはいえ、目の前でそんなことしたくない。しかし、こう言うしかないのだ。
「わかった……」
一旦オムツを外され、俺は横になった。薬剤を注入され、三分ほど待つ。いつものやり方ではある。こちらを我慢するのは得意だ。しかし、それからは……。
「もういいか。はい、ここにして」
早く済ませたいが、勢いがついてはまずい。俺は顔を熱くしながらなんとかこなした。
「カナ、そんな顔しないでよ。僕なんだからいいじゃない」
「うっ……ううっ……」
情けなく涙をこぼしてしまった。ウェットティッシュでぬぐわれて、余計にみじめだ。
「ああ、そっか。お風呂も入れないね。汗……かいてる?」
兄はスンスンと俺の腋をかいだ。
「軽く拭いておこうか。ちょっと待ってて」
しばらくして、兄は洗面器とタオルを持ってきた。洗面器の中身はお湯だったようだ。タオルをひたして絞った兄は、俺の身体にあてた。
「気持ちいい?」
「……気持ちいい」
「何だかカナが小さい頃に戻ったみたいで楽しいなぁ。もっと早くこうすればよかった」
兄は鼻歌まで歌い出した。例のバンドの曲だ。美しいメロディだが、その歌詞の意味を知ってしまっているのですくみ上がるしかなかった。
――みんな、最後には去っていくんだ。
それは、母に死なれ、二人の父に突き放された兄自身を指しているようにしか、俺には思えなかったのだ。
歯ブラシを渡され、ベッドの上で磨いた後、うがいして容器に出した。
「じゃあ、僕は片付けしたりお風呂入ったりしてくるから。寝ててもいいよ」
「……うん」
電気は消された。しかし、眠気はやってこなかった。この部屋と風呂場は向かい合わせの位置にあるから、兄がシャワーを浴びている音がよく聞こえてきた。
石鹸とタバコの香りをまとわせて、兄がベッドの上に乗ってきた。
「カナ、起きてたんだ」
「まだ眠くない……」
「そう。じゃあ昔話でもしようか」
始まったのは、母の話だった。
「カナが二歳くらいの時かな。二人だけで過ごせてないから、って母さんと出かけたんだ」
それは、秋のことで、兄は母と手を繋ぎ、落ち葉を踏みしめて散策したのだという。そして、一軒のカフェに入った。
「チョコレートパフェ、食べたんだ。母さんと一緒にスプーンで崩しながらね。母さんも甘いもの好きだったから。あの時は嬉しかったなぁ……」
「そのお店……今もあるの?」
「ああ、なくなっちゃったんだよ。僕が中学生くらいの時かな。もう一度食べたくなって、行ってみたら、中はがらんどうでさ。あれから新しい店も入ってないんじゃないかな」
兄は俺の髪をもてあそび始めた。少しくすぐったかったが、こらえていた。
「思えば……あれが僕が子供でいられた最後の日だったよ。もしかしたら、あの時もう母さんは癌だってわかってたのかもしれない。もう、確かめようがないんだけどね」
兄の指は俺のこめかみからアゴに移り、口の中に入ってきた。指示されてはいなかったが、そういうことだろうと思い、ちゅぱちゅぱと吸った。
「わかってる……父さんがああなったのはカナのせいじゃない。カナの存在がなくても、どのみち僕は殴られてただろうから」
兄は頬の裏をなぞってきた。おそらく殴られて腫れているのだろう。刺激されると痛みが走ったが、そのまま吸い続けた。
「むしろ、カナがいたから追い出されずに済んだのかな。小学生に幼児の世話全部押し付けてさ。自分はたまに構っていいとこ取り。うん……やっぱり殺してよかったよ」
ちゅぽっ、と指を抜かれた。兄は唾液まみれのそれを自分の口に入れた。
「話はおしまい。おやすみ、カナ」
「おやすみ……」
兄はすぐに眠ったようだが、俺は目が冴えていた。右足がロープで繋がれているので、楽な体勢を探すのに苦労した。兄に背を向ける形で落ち着いたので、無理やり目を閉じて、長い時が過ぎるのを待った。
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