16 信用
兄が動く気配がして、目を覚ましかけたが、今日は講義が昼からだったので目を瞑ったままでいた。卵焼きは、また明日からでいいや。そっと髪を撫でられ、俺は二度寝した。
ピリピリと肌が焼けるような奇妙な感覚に襲われたのは、それからしばらく経ってから。ゆっくりと身を起こし、辺りを見回すと。
「うわっ……うわぁぁぁぁぁ!」
四つの壁全てが、まだらな赤に染まっていた。
「あっ、あっ……」
俺はスマホを充電ケーブルから引き抜き、ベッドを飛び出し、裸足のままスニーカーをはいて玄関から駆け出した。外は雨。とにかく誰か人間のいるところに行きたくて、俺はびしょ濡れになりながら駅を目指した。
改札口のところまできて、俺は乱れた呼吸を整えた。傘をたたむ人々が、訝しげに俺の方を見てきたが、そんなのどうでもいい。柱によりかかり、額から流れるものをぬぐった。それは汗なのか、雨なのか。
「ルミ……!」
もう、なりふり構っていられない。俺はルミに電話をかけた。
「はぁい、奏人くん。どうしたの?」
「助けて、ルミ……部屋が……赤くなって……」
「えっと、今どこ?」
俺はルミに、今いる駅まで来てもらうように頼んだ。持ち物はスマホのみ。どこかで休もうにもお金を支払う手段がないし、一人で取りになんて戻れない。結局、柱のところで立ち尽くし、電車が来るたびに改札を見つめて、ルミが来るのを待った。
「奏人くん!」
ルミは小花柄の紺色のワンピース姿で現れた。透明なビニール傘を持っていた。改札を抜けると、小走りで寄ってきてくれて、俺の手をきゅっと掴んだ。
「落ち着いて、ゆっくり話してくれる?」
「うん……朝起きたら、壁が赤くなってたんだ。どの壁も全部。まるで、血をぶっかけたみたいにさ……」
「あたしが確かめてあげる。一緒に行こう」
ルミの傘を俺が持ち、なるべく彼女が濡れないようにして歩いた。そうすると、左肩に容赦なく雨があたってしまったのだが、既に服はぐっしょりと重かったので気にしないことにした。
鍵をかけることすらせずに出てきたので、そのまま玄関の扉を開けた。ここから見ると、問題の寝室は左側だ。
「……うん。どこか変だね、この家」
ルミはサンダルを脱いで律儀に揃えると、俺に尋ねてきた。
「どこの部屋?」
「……そこ」
俺が指すと、ルミはためらいなく寝室の扉を開けた。俺は廊下で突っ立って待っていた。少しして、ルミが部屋から出てきた。
「えっとね……壁は普通だった。何かの跡もなかったよ。けど、感じる。何かいるね」
「そっか……」
びくびくしながら俺も寝室を確認した。ルミの言った通り、壁は普段と変わらなかった。あれは勘違いだったのか? 夢と現実が混ざっていたのか? わからない。
「ともかくさ。奏人くん、着替えてきたら? 風邪ひくよ」
「じゃあ……リビングで待ってて。ごめんね、急に呼びつけたりなんかして」
「いいって。ほら、行っておいで」
自分の部屋に行き、着替えた後、ぐしょぐしょになった服を洗濯機に放り込んで、リビングに行った。ルミはダイニングテーブルのところに座っていた。
「……これが例の灰皿?」
「うん、そう」
「この家全体から、不穏なものを感じるよ。よくここで住めるね……」
「そんなにヤバい?」
「ヤバい」
俺はキッチンに行ってルミに問いかけた。
「何か飲み物でも出すよ。ドリップコーヒーと……麦茶と。あとサイダーくらいしかないけど」
「じゃあコーヒー貰おうかな」
コーヒーを作って出し、俺は麦茶にした。ルミと向かい合い、彼女の丸い瞳を見つめた。
「俺……どうしたらいいんだろう」
「ちゃんとした人に家に来てもらった方がいいね。お兄さんも立ち会って。行方不明のお父さんのことも気になる。まずは……」
その時、玄関が開く音がした。時計を見た。まだ昼の一時だ。
「ケイちゃん……?」
「あっ、もしかしてお兄さん?」
「そうだと思う」
足音がどんどん向かってきて、入ってきたのはやはり兄だった。ルミが立ち上がって一礼した。
「済みません、お邪魔してます」
兄は舌打ちをして、冷ややかに言い放った。
「……出て行ってくれる?」
「あっ、はい……」
ルミはそそくさとリビングを立ち去った。俺も廊下に出て、ルミに声をかけようとしたのだが、兄に睨まれて何も言えなかった。玄関の鍵は兄がかけた。
「ケイちゃん、その……早かったんだね」
「具合悪くてさ。早退した。まあ、そのお陰で、カナがコソコソ女連れ込んでたことわかったけどね……!」
顔面に一発食らった。よろけて後ずさり、壁に背中をつけると、兄は二発、三発と続けて入れてきた。たまらずしゃがみこんだら、今度は蹴りだ。頭を守っていたら、腹が無防備になってしまい、そこを集中的にやられた。
「うえっ……」
朝から何も食べていなかった。今吐き出したのは胃液だろう。兄はそれでも止めてくれず、俺の腹を踏んで体重をかけた。
「僕が居れば他に何も要らない、なんて言ったくせに。嘘だったんだね」
――聞いて。話を聞いてよ、ケイちゃん。
喉の奥は詰まっており、腹をやられているから力も上手く入らなかった。ようやく足をどけてくれたと思えば、今度は腕を引っ張られて立たされた。
「歩いて。寝室入って」
俺は大人しくそうした。そして、尻を蹴られて、ベッドにうつ伏せに倒れ込んでしまった。
「とりあえず……ここにあるものでいいか……」
兄はクローゼットからビニールテープを取り出した。
「や……やめ……」
腕と足をギチギチに巻かれた。そんなことしなくても、反抗する意思などとうにないというのに。
「はぁ……頭痛い……でも色々準備しなくちゃなぁ……」
兄は一旦家を出たようだ。車を出す音も聞こえた。ズボンのポケットに入れていたスマホが短く振動したが、もちろん確かめることなどできなかった。
三十分くらい経っただろうか。兄は大きなビニール袋を提げて部屋に戻ってきた。かなりキツく巻かれていたので、手先と足先は冷え切っていた。
「ケイちゃん、ごめん、ごめんなさい、ほどいて……」
「んっ……」
解放されはしたが、兄は何を準備してきたのだろう。俺は半泣きで兄を見上げた。
「あ、あのねっ、ケイちゃんっ」
「もう決めた。カナはこの部屋から出さないから。まずは脱いで。全部ね」
俺が全裸になると、兄はビニール袋から大人用のオムツを取り出した。
「仰向けになって」
「はい……」
もう、兄はトイレにすら自由に行かせてくれないのだ。これに用を足さないといけない、という現実を俺は上手く飲み込むことができなかった。
次は、右足だけに足かせをはめられた。足かせの反対側を兄はロープで繋ぎ、そのロープの先をベッドの脚にくくりつけた。
「長さは大丈夫そうだね。ドアノブには手が届かないかな」
ベッドに座っている状態だと、ロープがたわんで余裕がありそうだが、おそらく二歩くらいしか歩けなさそうだった。
「まあ、いつかは考えてたんだ。カナが大学で余計なこと覚えてくると思ってたし」
「そのっ、あの子は、そういうのじゃない!」
「家に呼ぶような仲なんでしょう? カナの言うことなんてもう信用できない」
今の兄に何を言っても無駄だろう。ルミと、この部屋に起こった異変については、時期を見計らって話した方がいい。
「はぁ……自分の部屋で休んでくる。カナは反省してて」
兄は出て行った。試しにベッドを降りてみたのだが、やはり外に出ることはできなさそうだ。
俺はついに、監禁されてしまったらしい。
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