15 日常

 身を起こしてアラームを止めた。兄の姿はもうベッドにはなかった。ダイニングに行くと、ラップがかけられた朝食と書き置きがあった。「早めに出社する」とのことだった。そういえば、今日は髪を切りに行くと兄は言っていた。その分早めたのかもしれない。

 のんびりと登校して、教室の真ん中の方の席にルミを見つけたのだが、女の子と一緒だった。遠慮した俺は後ろの方に腰掛けた。

 カラリと晴れた日だった。開け放たれた窓から入ってくる風は心地よくて、もうすぐ七月になるのだということを実感した。

 そうだ、もうすぐ兄の誕生日だ。七月七日。兄は二十六歳になるのか。毎年、欲しいものはないか聞くのだが、ケーキだけあればいいよと断られて。今年は花でも買ってみてもいいかもしれない。喜んでくれるかどうかはわからないが。

 昼は外で食べてみよう、という気になった俺は、購買でパンを買い、芝生広場のベンチに腰掛けた。バドミントンをしているグループを見ながら、パンにかじりついた。

 ――うん、平和。

 ルミと話してみて、人と関わるのも悪くないとは思えたけれど、やっぱり一人の方が落ち着いた。相手のペースに気を配る必要もない。些細な選択をするのに意見を聞くこともない。


「あっ、済みません!」


 バドミントンのシャトルが俺の方に飛んできた。掴んで女の子に渡してやると、何度も頭を下げられた。

 ああやって、誰かとスポーツをしたことはない。体育の時間に仕方なく参加していただけだ。父は柔道か何かをしていた気がするが、俺に運動を押し付けたことはなかった。

 パンを食べ終わった俺は、自動販売機でジュースを買い、飲みながらぶらぶらと芝生広場の周りをうろついた。

 身体も心も軽い。まるで羽根が生えたみたいだ。喫煙所の近くまで来ると、兄を思い出した。今までは父の香りだったが、もうそれはすり替わってしまったのである。

 残りの講義を受けて、スーパーに行った。まずは言われていた通りエビチリを。春巻きなんかもいいかもしれない。野菜もいるな。春雨のサラダ。

 卵も買った。何度も練習するしかないと思ったのである。兄に教わった通りの手順で卵をひっくり返し、ゆっくりと巻いていった。今度はそこまで酷い見た目にはならなかった。


「カナ、ただいま」


 兄の髪の長さは多少揃った程度で、そこまで思い切らなかったようだ。それでも量がずいぶんと減ったように見えたので、指ですくってみた。


「おっ、手触り違う」

「かなりすいてもらったよ。これで乾かすのも楽になるかな」


 ダイニングテーブルに、惣菜と卵焼きを並べると、兄はやわらかく微笑んでくれた。


「カナ、頑張ったんだ」

「まだまだ下手だけどね」

「簡単に僕を越されても困るよ。これから毎朝作ってみる?」

「うん、そうする!」


 兄と二人だけの夕食も当たり前になってきた。たまに父が一緒の時は、言い表せない緊張が走っていたものだが。

 これでよかったのだ、と自分に言い聞かせた。今こそが俺が望んでいた状況。兄と二人の日常。

 兄が卵焼きに箸をつけたので、俺は固唾を呑んで見守った。


「うん……味は大丈夫。もう少し火を通しても問題ないかな」

「いつかケイちゃんから合格の一言が欲しいな」

「僕は厳しいよ?」


 兄に見守られながら、皿洗いは俺がした。兄は食後のドリップコーヒーを作った。俺も一口飲んでみた。


「うっ……苦ぁ」

「僕はこの苦味がないと物足りないな。会社でも缶コーヒー飲むようになったよ」


 そして兄はタバコも吸った。俺は気になって尋ねてみた。


「ケイちゃん、会社では何か言われてない? いきなり色々変わってさ」

「上司には遅い反抗期かよ、なんて言われたな。僕もうそろそろ二十六なのに」

「そうだ……誕生日のケーキ、俺が買ってくるよ。チョコでいい?」

「うん、よろしく」


 風呂に入り、兄の髪を俺が洗った。まだ取りきれていなかった毛がちらほらと落ちたのでシャワーで流した。

 バスタブで兄の身体を後ろから抱きしめながら、俺は囁いた。


「ケイちゃん、好き。俺はケイちゃんがいてくれたら他に何も要らない」

「じゃあ……僕の言うこと何でも聞ける?」

「うん。聞く」


 身体を拭いて、裸でベッドで待っていろと言われたので、大人しくそうしていたら、兄は黒い布切れをいくつか持ってきた。ちなみに、兄はしっかりと服を着ていた。


「……ケイちゃん、それ何?」

「着てもらおうと思って」


 広げてみると、長い靴下と、ビキニだった。


「え……ええーっ!」

「ほらほら早く。何でも言うこと聞くんでしょう?」

「わ、わかったよぉ……」


 まずはビキニから身に着けていった。布の面積は隠せるギリギリ。紐は細く、俺の肌に食い込んだ。サイズ自体は合っているのがさすが兄だな、というところか。

 次は靴下。やけに長い。オーバーニーハイソックスだろう。爪先とかかとを合わせ、ゆっくりと引き上げていった。覆われたところからキュッと引き締められるような感覚で、正直窮屈だ。


「うーん、カナは足長いからと思ってそういうの買ったけど……細かったかな」

「ん……何とかやってみる」


 膝の上を越え、一旦ふくらはぎ辺りを引っ張ってから、太ももに到達。これで完成だ。


「うう……裸より恥ずかしいよ……毛もはみ出ちゃってるしさぁ……」

「それがいいんじゃない」

「こういうのはケイちゃんの方が似合うんじゃないの?」

「えー、僕は絶対嫌」


 兄はスマホをかざしてきた。


「はい、隠さない。こっち向いて」

「と、撮るの?」

「せっかくだし」

「もう……絶対流出しないようにしてよ!」


 初めは渋々応じていた俺だったが、ポーズを指定されたり、褒められたりしているうちに……何だか乗ってきた。


「うん。可愛い可愛い」

「これは?」

「あー、いいねぇ」


 モデルになった気分だ。シャッター音が心地良い。兄の気が済んで、一緒に写真を確認した。後半は俺の表情もしっかり決まっていた。


「カナ、素質あるねぇ」

「えへへ……」


 そろそろ靴下のゴムが痛くなってきた。俺が脱ごうとすると兄に止められた。


「ダメ。このまましよう?」

「うっ……」


 兄は布越しに触ってきた。少しなぞるくらいの弱い力だ。布がすれて、ぞくぞくしてきてしまった。


「ケイちゃん、キツい……」

「カナのなんだから、いくら汚しても大丈夫だよ?」


 俺は悶えながら、外してくれと訴えたのだが、兄はなかなか許してくれなかった。我慢できなくなった俺は、兄を押し倒して攻勢に転じた。


「俺ばっかりはやだ。ケイちゃん脱いで」

「あっコラ」


 兄は反発してきたので、結局もみくちゃになってしまい、ベッドの上で俺たちはギャーギャー騒いだ。最後は兄の指に負けて、俺は身をくねらせた。


「ケイちゃん、もっと……」

「よく言えました。そろそろ直接触ってあげる」


 終わった頃には、とっくに日付が変わっていた。俺の身体にはゴムや紐の痕がくっきりと残ってしまったのだが、どうせ服で見えなくなるからと気にしないことにした。

 俺が脱いだものの匂いを兄がかぐから、ぶんどって洗濯機に放り込み、二人ともきちんと服を着た。


「カナ、楽しかったねぇ」

「……ケイちゃんにこんな趣味があるとは思ってなかった」

「カナだってノリノリだったじゃないか」

「うん、まあ、それはアレだよ」


 無駄に張り合っていたので体力を消耗していた。兄は俺にしがみついてきて、すぐに寝息を立て始めた。俺も意識を手放して、その日の夜は終わった。

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