14 風呂
兄が目を開けた瞬間、唇にキスをした。
「んっ……」
「おはよ、ケイちゃん」
すると、頭を掴まれやり返された。俺のスマホのアラームが鳴るまでじゃれ合った。
「はぁ……会社行きたくない」
「俺も一限からだよ……」
朝から兄の手をわずらわせるわけにはいかないので、朝食はいつも通り作ってもらった。
眠い目をこすりながら一限目を受け、二限目のドイツ語では俺からルミに声をかけた。今日は真っ白のTシャツに細身のデニムというラフな姿だった。
「おはよう」
「あっ、奏人くん。おはよう」
「あのことだけどさ……もう心配要らないよ。あれから何も起こってないんだ」
そういうことにしておいた。
「でも……まだ感じるよ。むしろ強くなってるって」
「大丈夫だよ」
席は固定だ。教授が来たのでルミとは離れた。講義の半分は映像を見せられたので気楽だった。終わると、ルミが近付いてきた。
「お昼一緒に食べよう」
「うん、いいよ」
それぞれ購入し、トレイを持って席に座ると、ルミは直球で聞いてきた。
「お父さんは帰ってきたの?」
「いや……まだ。でも、父の婚約者だって人がきて。びっくりしちゃった」
「わーお」
ルミには簡単な経緯を話した。母が亡くなってからかなり経つこと。父は指輪を渡していて、俺が卒業したら婚姻届を出すつもりだったらしいとのこと。
「親が恋愛してたの、変な感じだよ。父親は父親っていう生き物だと思ってたから」
「ああ……あたし、その感覚わかるなぁ。うちは両親仲いいんだけどさ。昔は二人は恋人同士だった、なんて全く想像つかないんだよね。もうすっかり家族になってるのしか見てないからさ」
できるだけ話を父から遠ざけたい。俺は軸を変えることにした。
「ルミは恋愛には興味ないの?」
「ないなぁ。別に彼氏なんていなくても毎日楽しいし。奏人くんは?」
「俺も全然。好きな子すらできたことないよ」
「へぇ、じゃあ童貞なんだ」
「うるさいなぁ」
兄で卒業してしまっている、だなんて言えやしない。
「奏人くん……本気であたしには興味なさそうだね。そういうとこ、楽でいいや。ただの男友達と思ってた人に、勝手に惚れられたり、色々あったからさ」
「ルミは可愛いもんね。大変そうだ」
「そっ。あたし、可愛いの」
俺たちは目を見合わせ、同時にプッと笑った。
「……自覚ある美人はタチ悪いね」
「奏人くんだって凛々しい顔してるじゃない。自覚してる?」
「俺の顔は普通だってば」
「カッコいい方だと思うよ? まあ、見るからに近寄るなオーラ出してるから、あたしみたいなお節介しか声かけないと思うんだけどさ」
次の講義が一緒であることはわかっていたので、早めに移動してそこでもまた話した。
「あたし、高校の卒業式大変でさ……四人から告白された」
「凄いじゃん」
「何とも思ってなかったからお断りするじゃない? そしたらまた声かけられて。同じようなこと言って」
「モテるのも辛いね」
ルミは嫌味でも自慢でもなく本当に困っていたのだろう。最初の距離の詰められ方には面食らったが、裏表もなさそうだし付き合いやすい相手かもしれない。
「っていうかあたし、恋愛感情? 持ったことない」
「まあ……俺もだよ」
そう答えてしまってから、俺が兄に向けているのは一体何なのだろうと思いに沈んだ。とっくに家族間の感情は超えている。しかし、恋愛、というのも違う気がする。俺はぽつりと言った。
「恋愛って……何だろうね」
「なんかさ、みんな当たり前のようにしてるよね。あたしはセックスにも興味ないし」
「昼間のこんなところでそんなこと言わないの」
「奏人くんはそっちはある?」
「人並みに性欲はあるけど」
幼い頃からしつけられてしまったから、人並みというのがよくわかっていないのだが、そんな返答をしておいた。ルミは続けて聞いてきた。
「え、じゃあどうやって発散してるの?」
「だから……ここでする話じゃないって」
「男と女の違いもあるのかな。あたしにはやっぱりわかんないや、そういうの」
こんなルミに兄とのことを打ち明けたら卒倒してしまいそうだな。いや、逆に理解を示すのか。それを判断するためには、まだ俺は岩木ルミという人間を知らなさ過ぎる。
「ルミは、結婚はしたいと思う?」
「全然。生涯未婚率も上がってるし、おひとりさまでも肩身狭くないっしょ。あ、でも子供は可愛いよね。育てたい」
「子供かぁ……考えたこともなかった」
「もしよければ精子だけちょうだい。顔のいい子産まれそう」
「あのなぁ」
他の女の子とろくに話したことがないので比較はできないが、ルミはかなりあけすけな方だと思った。それだけ俺に気を許しているというのか、どうなのか。ともかく、悪くは思われていないらしい。
講義が始まったので、適当にこなし、帰りもルミと一緒に歩いた。
「奏人くん、話戻るけどさ。また何かあったら相談してね。絶対憑いてるから」
「ありがと。その時は言うよ」
ルミと別れ、電車に乗り、真っ直ぐ帰宅した。火のついたタバコがあったので、それを消して呟いた。
「父さん……ただいま」
さて、今日は三限で帰ってきたのでけっこう暇だ。俺はしばらく手をつけていなかったシューティングゲームをすることにした。オンライン対戦ができるもので、俺のランクはそこそこ、といったところ。
「……クソっ」
ゲーム中は口が悪くなる。よくない癖だと思う。何度も殺されて、装備を見直して、また対戦して。しばらくぶりに熱中したので、あっという間に時間が過ぎた。
「カナ、入るよ」
キリが悪かったので、俺はゲームを続けたまま返事をした。
「おかえり、ケイちゃん」
「ん。珍しいね。ゲームしてるなんて」
「ああ……なんとなくその気になってさ。今日の夕飯何?」
「海鮮丼。刺身買ってきたから乗せるだけ。すぐできるよ」
「じゃあ、これ終わったら行く」
食べ終わってから、俺は食洗機の使い方を教えてくれと兄に頼んだ。
「大きい器は上ね。横にたてかけて。箸は持ち手が下になるように入れて。洗剤は粉のやつ使ってる。くれぐれも他のやつ入れないで。故障するから」
「了解。慣れてきたら、俺がやるから、ケイちゃんはコーヒーでも飲んでなよ」
「まあ、ちょっと心配なんだけどね……」
すると、風呂場からメロディが鳴った。
「えっ……ケイちゃんやった?」
「いや、まだだけど……」
二人で見に行くと、バスタブにお湯が張られていた。兄は吹き出した。
「ははっ、手間が省けていいね。いいじゃない。このまま入ろう」
「う、うん」
正直気味が悪いが、お湯に何か混ざっているわけでもなさそうだし、兄を見習って気にしないことにした。
バスタブの中で兄の髪をもてあそんでいると、兄は言った。
「明日、仕事早めにあがって髪切ってくる。そろそろ鬱陶しい」
「じゃあ、ご飯俺が用意しとこうか? 惣菜買ってくるくらいしかできないけど」
「それで十分。中華がいいな。エビチリとか買ってきて」
「わかった」
こうして、流れていくのだ。兄と二人だけの日々が。多少のことはあるが、こちらが過度に反応しなければいいだけ。
それよりも……父の死体が見つかってしまったことを考えるのがこわい。間違いなく俺たちは疑われる。兄が何とかしてくれるかもしれないが、それでも監視カメラなんかで車で移動していた記録が残されていれば終わるだろう。
恐怖を忘れるために俺は兄に甘えた。ネコみたいに頭をすりつけて。兄はアゴをさすってくれて、その手の温もりに俺は安堵した。
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