12 真美

 ぴちゃ、ぴちゃ。

 耳を舐められる音と感触で目が覚めた。


「ケイちゃんっ……」

「ふふっ、おはようカナ」


 昨日は途中から記憶がない。俺も兄も裸だった。兄は続けて耳をいじくってきた。


「んんっ……」


 小学生の頃、じゃれ合いながら耳を触られた時は、まだくすぐったかっただけの気がする。それが今はどうだ。朝起きたばかりだというのに、熱がこもってきた。


「やめてよ、ケイちゃん……」

「本当にやめてほしいの?」

「ううっ……」


 兄の舌は首筋に移り、鎖骨にまで届いた。


「もう、ストップ!」

「ふぅん、残念」


 床に散らばっていた服をかき集めて着て、リビングに行った。今朝はタバコはなかった。一体どういう条件なのだろうか。


「待ってて。卵焼き作るから」

「ケイちゃん。俺も一緒にやっていい?」

「まあ、いいよ。卵割れる?」

「それくらいはできるよ」


 俺は兄の指示で、卵を計量カップに割り入れ、よく溶いて、白だしを入れてさらに混ぜた。卵焼き用の四角いフライパンを温めて、油をしいて。箸の先でほんの少しだけ卵液をたらし、火が通るのを確認して、そっと流し入れた。


「もう少し待って……うん。ちょっとずつね。落ち着いてやればできるから」


 出来上がった物体は、なんともお粗末だった。普段兄が作ってくれるものとは似ても似つかない。


「カナ。最初から上手くはいかないよ。僕もそうだった」

「ケイちゃんは……どうやって料理覚えたの?」

「母さんが料理本残しててくれてたからさ。それで。カナも読む?」

「うん。そうする」


 朝食を食べ終えた後、兄は一服して、それからは一階のベッドに戻った。昨日外出したから、兄ものんびりと過ごしたいのだろう。


「ケイちゃん。母さんって、どんな人だったの」

「そうだなぁ……明るい人だったよ。カナはなかなか寝ない赤子でさ。大変だったけど、愚痴ひとつこぼさないで。いつも笑顔だった」


 俺は写真がなくなってしまった壁を見た。父は……なぜあんなことをしたのだろう。俺はともかく、母のまで。アルバムは別にあった気がするから、それを見れば母の顔はわかるのだろうが。

 インターホンが鳴った。兄が言った。


「あ……洗剤かな。ネットで注文してたやつ」

「俺、取ってくるよ」


 俺は玄関の扉を開けた。そこに立っていたのは、運送屋ではなく、三十代くらいの茶髪の女性だった。


「えっ……」

「あの、晴臣はるおみさんいらっしゃいますか?」


 晴臣は、父の名だ。


「いえ……その……」

「息子さんですよね。一週間前から連絡が取れなくなって、それで……」


 どう対応していいものやら迷っていると、兄もやってきてその女性に言った。


「……父に何か?」

「あのっ、わたし、婚約者なんです」

「はっ?」


 俺と兄は、同時に声をあげた。

 動いたのは、兄だった。


「まあ……ここで話すことでもないでしょうから。入っていいですよ」


 そう言って、リビングに行った。女性はぺこりとお辞儀をして、ヒールのある靴を脱いだ。

 ダイニングテーブルに俺と兄が並び、女性と向き合う形で話すことになった。


「わたし、子安真美こやすまみと申します」


 子安さんは、持っていたハンドバッグから指輪を取り出した。


「晴臣さんとは、二年前からお付き合いしていて……この前指輪を頂いたばかりだったんです。入籍は、下のお子さんが大学を卒業するまで待つという条件で」


 俺は兄の顔を見た。兄にとっても予想外だったのだろう、ぱちぱちと瞬きをしていた。


「突然押しかけるような真似をしていて申し訳ありません。ただ、心配で……」


 兄が話し始めた。


「父はうちにも帰ってきていないんです。僕たちとも連絡が取れません。困ってるんですよ。突然こんなことになって。子安さん、心当たりはないんですか?」

「そうだったんですね……最後にお会いしてお食事をした時も、いつも通りで、また連絡すると言ってくださったんですよ」


 兄が人差し指でトン、トンとダイニングテーブルを叩き始めた。


「ところで、なぜうちを知ってたんです?」

「婚姻届を預けて頂いていたので、その住所を辿って」


 子安さんは一枚の紙を広げた。そこに書かれていたのは確かに父の字だった。


「……嘘ではないみたいですね」

「本当は、息子さんたちには正式にご挨拶をする予定だったんです。まさかこんなことになるなんて……」


 そして、子安さんはぐっと身を乗り出した。


「事件に巻き込まれてないかと思うと、わたし、不安で不安で……!」

「僕たちは、警察に任せています。何かわかれば、僕から子安さんにもお伝えしますので。連絡先、教えてください。ああ……申し遅れました。僕が兄の慧人で、こっちが弟の奏人です」


 兄と子安さんが連絡先を交換し、それで彼女には帰ってもらった。兄はタバコに火をつけた。


「ふぅ……まさか父さんに女がいたなんてね。気付かなかった。しかも、若いし。どこでひっかけてきたんだか」


 母が死んで十五年。俺だって、親が恋愛しようと別に構わないと思える年だ。けど、さすがに驚いた。


「そういえば……父さんのスマホ、どうしてるの?」

「殺してすぐに電源切って放置してるよ。僕の部屋にある」


 きっと、電源をつければ、おびただしい数の不在着信履歴が残っているのだろう。このまま兄に持っていてもらうしかない。

 少しして、今度こそ洗剤が届いた。俺は兄に着いて、しまう場所や使い方を教えてもらった。


「これからは俺も洗濯するから」

「まあ、助かるよ。父さんにカナには家事させるなって言われてたんだけどね」

「あっ……そうだったんだ」

「もう、父さんの言うことなんて聞く必要ない……カナは僕の指示に従うんだよ。わかってるね?」

「うん。わかってる」


 昼は冷凍のパスタを食べた。兄はどこかぼんやりとしていて、フォークでくるくるとパスタを巻き付けてはほどき、時間をかけて食べていた。

 それからまた、ベッドに戻った。兄のスマホで音楽を流しながら、二人で仰向けになってぼんやりした。

 父は……あの子安という人とどうするつもりだったのだろう。俺が就職したら、俺と兄を追い出して、彼女と二人で暮らすつもりだったのだろうか。それは十分にあり得た。

 それならば、俺と兄がどこかで一緒に住む、という未来もあり得たのかもしれない。今となってはもう遅いが。


「カナ。ぎゅーして」

「んっ……」


 身体なら俺の方が大きくなった。兄をすっぽり包むのは簡単だ。兄は俺の胸に耳をつけた。


「……カナは生きてるんだね」

「当たり前でしょ」

「父さんの時、鼓動がなくなったのを確認したんだ。やったのは確かに僕なんだけど……しばらく実感がなくてね」


 兄にとっての父とは何だったのだろう。恨んでいただけには思えなかった。きっと、兄自身も整理できていない気がする。


「カナは父さんに似たね。背もこんなに伸びて。だから父さんにも気に入られた。僕は、母さん似というわけでもないから、やっぱり本当の父親似なのかな」

「ケイちゃんは……どんな姿をしていても、俺の兄さんだよ」

「うん……僕の唯一の家族だね、カナは……」


 兄は服の中に手を入れてきた。俺は抗わなかった。兄の手は、愛撫するというよりは俺の身体の輪郭を確認するかのように動いた。


「僕はもうカナしか要らない。カナは覚えていないだろうけど……初めてキスをしたあの日からね」

「ねえ、それっていつのこと?」

「もういいか。教えてあげる。僕がいつからカナのことをものにしようか考えてたかを。種明かしだよ」


 そうして、長い話が始まった。

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